天理教の里親重視政策が続いている。なぜ天理教はこれほどまでに里親を重視するのか。その裏には「たましいの家族”の物語 里親 ─ 神様が結んだ絆」という天理教書籍の出版が背景にあるようだ。先に私が指摘した「今後天理教は出版刊行物を発展させ、安定した収入基盤を得る方針だろう」というのは外れてはいないだろう。そのひとつが天理時報の手配りであり、今回の里親本の出版になるのだろう。今後も天理教の出版物と布教戦略がセットになった方針が出される可能性は高いはずである。
天理教が宣伝する里親論について、私は懐疑的、否定的な立場である。それはすでに説明しているが、宗教団体が里親をプッシュする危険性がイマイチ加味されていない思慮の浅さが窺えるからである。それは今回のテーマでもあるが、天理教の里親論では決して語られないことがある。それは一人称の語りである。天理教の里親論(おたすけ論)では、いかに被援助者が可哀想で悲しい人たちで、助けを必要としているのかが表現される。それは、とても大切なことではあるが実際の現場では盲目的であるまいか。目の前の人間が虐げられていようが、Disabilityであろうが、だからといって彼らが即座に被援助主体になるとは限らない。極論であるが、DVであろうが、不幸な境遇であろうが、被援助者かどうかはその人との関係性を抜きに優先されるべきではないと思う。もちろん、一定の専門性を持った人間が「これは助けてやらねばいけない状態だ」となっても同じである。どんな不幸な人がおり、いくらこちらが助けの手を差し伸べても、その人が「助けていらねーよ」と思えば、その時点で援助者、被援助者というストーリーは終了するのである。また私の他者論になりそうだが、他者を理解するためにはまず自己を理解するまなざしを持たなくてはいけないと思う。つまり、他者理解よりも自己理解が先取されなくてはいけない。
私の知り合いで臨床心理士を養成する大学院で教授をしている人がいる。彼は「大学院2年間で一番学ばなければいけないことは、心理学の知識でも治療技法でもない。徹底した自己理解が本質的な学びとなる」と話していたことに私は積極的に賛成する。自分とは何か、もっと言えば自己の対人関係の偏りや性格の歪みに気付かずに他者を治療することは不可能である。むしろ自己理解の志向性を経験していれば治療技法なんて何でもいいと思う。自己の特性を知ることが、相手を知ることに繋がるのだと思う。そういった姿勢が天理教には抜けている。つまり宗教団体が里親をすることについての哲学的な問いがすっぽりと抜けている。天理教とは何か、おたすけとは何か、里親とは何か。もちろん、こういったアポリアに答えはないだろう。しかし大切なのはそういった思考を持ち続ける志向性だと思う。畢竟、躊躇しながら実践することが慎みである。先の大学教授の言葉に、もうひとつ興味深いものがあった。「ここ10年、心理学を学びたいという人は多い。大学院の受験には人の相談に乗るが好きだから、それを専門にしたいという中年の方も多い。しかし合格するのは、何も世間を知らない現役学生が多い。なぜなら、一定の社会経験がある方は自分の経験に拘泥して物事を判断する。それではクライアントの経験との距離が近くなってしまう。それでは他者の意見を素直に聞くことができない。その点現役学生は白紙である。また学生によっては人の相談が苦手という子もいる。しかしそのくらいの方がクールにクライアントと対峙でき分析できる」と言っていた。経験の距離では私も同感である。子育てをしたことのある方が、子育て相談を受けると、やはり自分の経験をもとに話してしまうものなのだ。それが悪いことではないが、専門家としてはダメということなのだろう。
まずは自分が何者なのか、自分の長所と短所は何で、それが他者に与える影響とは何かという哲学的思索が天理教里親論にはかけている。天理教の跡継ぎ不足は深刻である。跡継ぎが不足しているというのは、天理教の家族機能自体が瓦解しているともいえる。実際にそういった教会家族は私の知る限りでもいくつか知っている。全国の1万7千余りの天理教の教会の7割が問題を抱えた事情教会という事実。この事実を見なくてし、里親論を語れるだろうか。天理教里親論の前に、天理教内家族論を喫緊の課題とすることを提案したいものだ。里親を受け入れることができる機能的家族を持つ天理教教会はそんなに多くないとしか思えない。それは私が常々批判しているカイチョウサンを始め、天理教全体の構造にも波及していく問題でもある。つまり、天理教の家族が機能していない一因、事情教会が7割もある一因は教団組織の在りかたにも関わってくるのだが、そこまで考えている天理教人を私は知らない。けど、やっぱそこが本当に大切なことなんだが、誰もそれを語らない。何か事件化してからでは遅いと思うのだけどね。