愛とか、信頼とか、という過信

ある教会の会長さん婦人が病気になった。大病ではなく治療法も確立しているため命に別状はない。手術も入院も必要なく、体への負担は小さい。ただ通院と投薬という長い治療期間が必要ということである。

周囲の人間は、当然のことお見舞いに行く。そして返り討ちに遭う。という話を聞いた。

ん?返り討ちとはどういうことだろうか?

私に話をしてくれた、その教会の信者さんは「奥様を心配してお見舞いに来てくれた人みんなに、病気になったことのありがたさを説いている。それは会長さんの奥様だし百歩譲っていいのだが、最終的には『あなたも心を入れ替えなさい』」と言われるのだそうだ。「心配して会いに行ったのに、こちらの改心を求められるのは人間同士の付き合いとしてどうかと思う」とのことであった。

これを見た天理教人はどう思われるだろうか私は聞きたい。このご婦人の対応を「宗教者として当然だ」と思うだろうか、それとも「やっぱマズイよね」と思うだろうか。私は後者である。

もう一つ付け加えるのは、このご婦人にとって「病気になったこと」はとてもストレスフルなことであろう。そのストレスの捌け口のためか、以前にも増して「説教ぶり」は加速したようだ。それは周囲も十分想定の範囲内だろう。しかし、実際問題として信者は教会から離れ教会との交流は疎遠になりつつある。そしてこのご婦人は、どんどん元気がなくなってきているとのことである。

これを見た天理教人はどう思われるだろうか私は聞きたい。この信者達の対応を「信仰者としての涵養が足りない」と思うだろうか、それとも「ご婦人がそんな対応をしていては周りの人間は離れていくよね」と思うだろうか。私は後者である。

天理教人と話して私はよく思うのだが、信仰も含め、人間関係などは「すでにあるもの」という幻想はそろそろ捨てた方がよろしいのではないだろうか。「すでにあるもの」という考えは天理教でいう「いんねん」という必然的関係(世間でいう因縁とは異なる)に近いと思う。「あなたと私が出会うのは、いんねんという教義上絶対である」という考え方である。天理教家族論では、家族や家というのは「いんねん」という縁であり神様からのご守護の一つとして解釈される。私はその考えに疑義はない。しかしその思考をそこでSTOPさせるとどのような自然展開になるのか。それは「あなたと私の関係は人間思案ではどうすることもできない。私たちの関係はすべて神様が導いてくださる」という他力本願的思想へと流れる。つまり、「あなたと私の関係は神様任せになり、実際の人間関係軽視になる危険性がある」ということになる。それが先の会長さん婦人の例ではなかろうか。あなた(信者)と私(教会)の立場は歴史的、存在論的に定められた関係であるという考えでいると、その関係を“大切にする”という意識が低くなるのは当然である。そうなると何が残るのか。それは「あいつは分かっていない」という分別のない定型フレーズしかない。

人間関係は決して「すでにあるもの」ではない。教義上「すでにあるもの」と規定されているからといって実際生活上の人間関係を軽視していいとはならない。それでは天理教の存在意義はなくなる。教義上に「すでにあるもの」という規定があるからこそ、それを育み養う必要があるのではなかろうか。それは天理教人も「そんなの分かっている」と思うだろう。しかし「そんなの分かっている」わりに、自分の振る舞いへの反省は少なく、場当たり的ではなかろうか。特に血に関しては、天理教人は異常な執着を見せる怖さがある。対外的には「やさしい天理教、無害な天理教」という側面と、対内的には「頑固な天理教、因習的(家父長的)な天理教」という極端なところがないだろうか。天理教は「縦の伝道」と声高に言っているが、実際の縦の伝道には制限や脅迫を用いている場合が少なくない(過去のブログを参照してください)。本来的な縦の伝道では、尊敬や自立を用いるべきではなかろうか。しかし天理教人は信仰的下位(理の子や子弟)の信仰的自立や社会的自立は神様がお望みではないという神の意向にすりかえるという恫喝で強く排除する傾向がある。信者数の激減や事情教会(問題教会)の増加、異端の多さという公にしない天理教的特長をより真摯に考慮する必要があると私は思う。若者の恋愛のように「あなたは何も私のことを分かっていないのね」というのではなく、「あなたのことを知りたいから、もっと教えてね」というように、信頼や愛は一緒に作っていかないと存在しないのではないか。それは「感謝・慎み・助け合い」の感謝に十分に当てはまると思うのだが、どうだろうか。

私は相手の改心なんて、求めようとは思わない。そんな尊大な(偉そうな)人間になりたくないものだ。私は嫌な相手からでも「どうぞ」といわれたら「ありがとう」と言える人間でいたいと思う。そんなにできていないけど・・・