他宗教への理解が、天理教の価値を決める

宗教学者の島田裕己の著書を書店で立ち読みした。彼の最近の著書は「日本の10大宗教」「宗教ビジネス」「葬式は、いらない」と読んでいる。今回は書店で立ち読みをしたのだが、家に帰ってからさっきまで書店で読んでいた著書名を覚えていないことに気付いた。「何を読んだんだっけ?」とamazonで探してみるが表紙すら覚えていない。自分の注意力のなさを後悔する。amazonで探している中で彼が2008年に「天理教」という著書を書いていることを初めて知った。今度読んでみよう。

ところでタイトルを忘れた今日読んだ本だが、その中で彼は「『日本の10大宗教』が30万部も売れたことは驚きである。主たる購読者は50代の男性だが、若い20代の人の多さにも驚いた」というようなことを書いていた(引用ではなく私の記憶)また彼の感想として「若い人たちが宗教に対して興味を持っていると感じる」と述懐していた。オウム事件以降、日本の社会は宗教と断絶状態であったが、その後スピリチュアルや占いを経由して宗教に回帰しているということである。この点に関して、私も同感である。

なにより驚きだったのが、彼が自分自身を「昔の私は宗教の一部分だけをみて、宗教団体を評価していた。しかし中立、公平という視点を持つように心がけている。真に中立、公平は不可能であるが、そういう立場で評価するようにしている」(引用ではなく私の記憶)という記述であった。オウム事件でバッシングを浴びてアカデミックを追放された彼の言動から考えると、かなり衝撃的な低姿勢である。年をとると人間は自然とコンサバになるのかなーと思ってしまった。そういえば、「上野千鶴子も最近はましだよ」と知り合いの社会学者の友人が言っていた(私は読む気ないけど)。

島田裕己の成熟を奇貨として、宗教という多様性を中立的に見ていくという志向性は非常に興味深い。政治や宗教や性というテーマは私の中では必ず論争(戦争)になるほど他者と相容れないテーマである。なぜなら政治、宗教、性について他者と真に分かり合えるということは有り得ないと思うからだ。そういってしまうと何事も分かりえることなんてないけど。その中で中立性を目指すということは大きな挑戦であり、応援したいものだ。天理教人は天理教以外の宗教に対して無知な人が多い。いや、無知はいいが、興味がない(知ろうとしない)、もしくわ見下している人が多いことは残念である(イエスもムハンマドも創造したのは天理教だと(見下すように)言っていた天理教人がいた。確かに人類創造の教義からはそう考えられるだろうが、原理主義じゃないんだし、もっと慎みを持ってほしいものだ)。信仰を持つことは大切なことだ。しかし一つの教義に拘泥して「天理教以外はダメだ」と排他的でいることが、何より天理教をダメにすると考える天理教人に出会ったことはない。分かり合えない相手だからこそ、「ちょっと教えてよ」と相手を理解しようと努める姿勢が大切ではなかろうか。(中学生の頃、私は実家に来た「エホバ」の信仰者に「今日は時間ないけど、今度話を聞きたいからまた来てよ」と言ったら、父親にブチギレされたことがある)。天理教人が他の宗教をどのように見ているかという姿勢が、天理教(人)を究極的に理解する一番の方法かもしれないということを考えた。

あなたはアレフをどう思っていますか?何も知らないのに嫌悪していませんかね。