今年の私は厄年ではないが先月から不幸なことが続いている。ブログでも報告したが、始まりは先月の車の事故である。それを皮切りに、今月は財布を2度も紛失した。一度目は仕事帰りに寄ったナカウである。財布の上に車のキーを乗せていたのだが、なぜか車のキーだけ持って出てしまった。その時はお店の方が連絡してくれたが(ナカウのお兄さんありがとう)、今回は連絡がない。今回は車に乗る前に弟と電話で話していた。車の横で話していたら、片手に持った財布をなぜか車の天井に乗せてしまった。電話を切った後は、天井の財布はそのままに車を発車してしまった。5km先の家に着いたときにはもう遅かった。警察に行き紛失届けを出したのだが、紛失した場所を聞かれて「5km圏内です」と伝えると警官に思わず「広っ!」と突っ込まれてしまった。カード類は電話で止めて、幸いにも現金は\2,000-ほどだったので大きな紛失ではない。ただ、あの財布は1ヶ月前に念願かなって購入したばかりのお気に入りである。そんなに高くはないけど、今の私にはべらぼうに高い。1ヶ月の間に車を事故し、財布を2度も無くすバカボンがこの世にいるだろうか。それは私である。そのためか職場では「うつになったんか?」や「お払いに行くべきだ」など好き勝手言われている。そして今日は隣の席でコーヒーを飲む上司に分厚いファイルをぶつけ、上司をコーヒーまみれにしてしまった。久しぶりに本気で謝った(もちろんいつもは適当に謝っている)。今年はもう静かに生きることにします。
あ、天理教のことを言うわないと。天理教のことで聞いたことや、考えたいことが色々ある。その中で、今年の後半は臓器移植のことを継続的に考えていたように思う。私の周囲でもマイケルサンデルや生命倫理がホットトピックとして耳にすることが多かった。このブログを更新するときも臓器移植に対しての天理教の見解や、どう読み取るかという点で書こうかどうか悩むことが多く、結局私の中での理論的成熟を待つために敢えて筆を置くことが多かったように思う。もちろんまだ成熟は達成されていないが、出力することで成熟を醸成さすことができるとも思う。切れ味のよい筆致よりも、ぽつぽつとしか語れないものも是としていただきたい。
天理教自体に臓器移植や生死に対して議論がスルーされている悲しさはあるものの、決して先見的ではないと思う。先の天理時報では「臓器移植反対」と書いた記者がいたが、それを教義として言い切ってしまうと医療を「修理、肥やし」という教義とは矛盾する(天理時報の記者は、そこまで考えてはいない)。そういった意味では臓器移植に対しても脳死の是非や臓器を移植するという医学的生命倫理以上に、宗教では身体観、死生観というラディカルな議論でなくてはいけない。それを天理教に譬えるならば、「かしもの・かりもの」という議論は必至となる。議論の中心なるのが「かしもの・かりもの」という教えと、「修理、肥やし」の境界はどこにあるのかということだろう。この体は神様からの「かしもの・かりもの」だから体に傷はつけていけないのか。では擦り傷はだめか。刺青はだめか。手術はだめか。移植はだめか。整形はだめか。化粧はだめか。意図的に自分を傷つけるのがダメであるなら体に悪影響となる食事やお酒、喫煙はだめなのか。糖分や塩分の取りすぎもだめか。挙げればキリがない。天理教以外で世界の多くの宗派で禁欲的制限が課せられているのはまさに教義解釈からである。いつもの嫌味な言い方をするならば、その大切なことを”ちゃんと”考ようとしている天理教人はいない。天理教人だからといって社会を天理教的に”真剣に”読み解く人はに出会ったことはない。社会問題があれば「それは神様がこうおっしゃっているに違いない」というテクストは教義解釈ではなく、自分は真実を分かっているという正当性へのすり替えである。こんなことをやっていては天理教の論理(教義)腐敗は秒読みである。今後の天理教の存在意義を確立するためにも世論と同じ右へ倣え状態ではなく、里親をやっていれば間違いないではなく、教えの根幹を成熟させる必要があるのではないか。むしろ教えの根幹がしっかりしていれば、何を考え動いても、それは全て天理教的となるのではないだろうか。宗教学者の島田裕己は「天理教は新宗教よりも既成宗教に入れてはどうかという議論もある」とは言っていた。既成宗教だから良いとも思わないが、土着という意味では天理教が日本文化に根ざすかとうかの岐路であることは間違いない。少しずつ天理教と臓器移植について考えていきたいと思う。
ps「かしもの」と「かりもの」はどう違うのだろうか。誰か親切な方教えてください。