天理教を精神分析する(教養編の続き)

前回の「天理教を精神分析する」という記事で、後半部が「よく分からない」とご指摘いただいた。見返したところ、私もそう思う。確かにロジックが飛躍している。このブログを書くときは、一気に書いてしまうため分かったつもりだったのは書いた本人だけだったというのは申し訳ない。前回のブログを修正してもいいが、一度出したものを後出しじゃんけんで手直しするのは何だかずるい気がするので(誰もずるいとは言わないだろうが)、今回は少し丁寧に説明する。

前回の後半部で、天理教の構成員(信者)が歴史的に知的教養を構造的に求められなかったということが、なぜ天理教の閉鎖性に結びつくのかということである。ロジックが飛躍したというのは、途中で2代真柱が教典を編纂する過程や、ユダヤ教に寄り道してしまったために起こったことだと思う。まず天理教の信仰者が構造的に知的教養を求められなかった理由を説明する。知的成熟というのは知識をインプットし、咀嚼し、アイデンティティと照らし合わせて骨肉化する必要がある。それを人は教養と呼ぶ。この過程を経ずに知識だけを得ることはただの雑学である。教養と雑学が異なる点は、このプロセスの違いである。そしてこの違いはとてつもなく大きい。というのは、この大きな違いというのは教養はアウトプットが可能ということである。雑学でアウトプットできる場は、クイズでしかない。しかし教養がある人のアウトプットというのは言葉を紡ぎだし、ナラティブを形成する。そのナラティブが人の心を揺さぶり、世の中を動かすのである。しかし同時に知的教養というのは、その発展する要素に批評力が不可欠となる。ある事象について一方の見方に立脚すると、その批評力は大変やっかいなものである。天理教では立教当時から異端が多いことでもしられている。それは、教義に幅を持たせすぎているという側面から考えると必然なのかもしれない。しかし教団としては、組織の凝集性を低下させるわけにはいかない。その土台として将来、組織の邪魔になるような構造的に「頭のいい」人間をつくりだすわけにはいかない。「頭のいい人間」を作り出してしまうと、異端をつくったり、教団批判になりかねないからである。また教団批判までいかなくても、信仰上葛藤を持ってしまう危険がある。自分の信仰に対して「このままでいいのだろうか」という葛藤を信者が持ってしまうことがすべての始まりであるならば、その葛藤を抑止しなくてはいけない。そのためにも天理教的用語が思考停止装置(防衛機制)というレトリックとして発動させられるのである。発動させられることで、問題を先送りにし、知的葛藤を芽生えさせなくさせる。しかしそういったファシズムは組織としては閉鎖性ゆえに孤立を招き、いずれ終焉を迎える。必ず。その証拠に幼少の頃から強い思考停止装置を発動させられた天理教人の子弟は、一人で歩き始める頃に例外なく強いアイデンティティの揺さぶりを経験すると私はみている。青年期に強い天理教への反発がみられる若者の喘ぎは多い。それを乗り越えることで真の信仰があるのかもしれないけど、そのイニシエーションの必然性は看過できない共通項である。あまり横道にそれるとまた元に戻れなくなるのでアイデンティティについてはこの辺にしておくが、思考停止装置を発動することは短期的なストラテジーとしては集団凝集性のために有効かもしれないが、長期的には人々を飽きさせ凝集性を低減させる危険性が高い。しかし、それ以外の方法のストラテジーを早い段階で考案できなかったために病理は進行し、教団の対応はすべて後手に回らざるを得ない。兎にも角にも、もし今後の天理教を憂うのであればストラテジーの考案は難しいにしても、思考停止装置を発動するようなファシズム的な手法は止めたほうがよい。それだけでも大きな転換であることは間違いない。天理教のオピニオンリーダーなる人が「今後“理の親”って言っちゃダメ」と理の親発言禁止令を天理教人に発令するだけでも助かる人は多いと思う。無理だろうけど。次回は私が考える、一つの方法を提案したいと思う。ちょっと危険思想でアクロバティックだけど。