今年のお節会に行かせていただいたことは先のブログで書いた。その時に天理教人の友人R君と天理駅前でお茶をしたときのお話を備忘録としてアップする(駅前のミスドは平時は閑散としているのだが、その日は激混みしていた。イベント恐るべし)そのときの話のテーマは「縦の伝道」だったと思う。縦の伝道とは、布教において世代間伝達のことをさすようだ。天理教の教勢が凄い勢いで衰えてきている。各地方の教会を見ても、信者数が公称220万人とは言うものの、実際に教会に足を運んで出会うのは人生の大先輩ばかりである。今後の、数年以内に劇的な転換期に入るのではないかという話をしてくれた。その中でR君は「現在の天理教の要職の中にも、天理教の将来を憂いている人はいる。その人たちは、今までに信者の子弟や未信仰者に対して天理教の伝道を行ってきたが、現在は教会家族への伝道をするように訴えている」ということであった。これは現在までは外に対して布教していたが、気付いたら足元(天理教の磐石な構成員である教会の家族)がガタガタであったということだろう。そのため“縦の伝道”から“内の伝道”への転換ということだ。ここまで聞いて私の率直な感想として“内の伝道”ってどうするのだ?という疑問である。里親家族論よりも、天理教内家族論を展開させるべきだと以前天理教の里親政策の中で私は訴えたことと同様になるが、伝道とは理の子や子弟の信仰的自立を達成することである。しかし実際は恫喝や制限を用いて選択肢を非常に狭めている傾向があるようだ。しかし自立とは尊敬や責任をきちんと付与してあげないと育たない。信仰的上位者(理の親)に対して自立的な信仰を持とうというものなら「お前は分かっていない」や「素直になれ」といったマインドコントロール的レトリックで、神の意向という正当性に摩り替えられた恫喝や制限が加えられる。そのようにして得られた信仰的成熟は本質的とは言いがたい。もちろん短期的、表面的には効果的だが、長期的な人間性の成熟には程遠いだろう。非行少年や性犯罪者に対して矯正だけでは、再犯率が下がらないのと同じ理路である。“縦の伝道”が“内の伝道”にシフト変換したところで、私は何も変わらないだろうと推測する。それよりも人間が信仰をドライブするのは何かと考えさせるような自立性を養う方が実際的ではなかろうか。
教組本席当時の中央集権的な組織形態のまま人的・経済的資源が中央へと流れていく仕組みの中で、地方教会の担当夫婦は留守がちで、事情持ちの高齢者と教会の子供達と古びた壁のお尽くしとおたすけの張り紙が日常の光景。
そんな教会に、祖父の年祭にやってきた、修理人だか上級だかが場所柄もわきまえず上納金の催促の話。
大教会の建物が古いとかなんとか?おやの恩がどうだとかこうだとか。
彼が天理の学校に進学するのは経済的な理由と、この宗教の幹部達の人格と信仰心を見極める為。
両親と当人が払った代償以上に、報われる価値を探す為。
彼らは神人と最終巡礼地への幻を抱いたまま、この教団のプレイヤーである責任は負えない。
スピリチュアル難民が増殖することは、人類史にとって何か次の時代への産みの苦しみなのかもしれませんね。
去っていった教会子弟達も神人と最終巡礼地への憧れを無意識の底に携えながら、世知辛い世の中で頑張っているのでしょう。
お地場周辺の浄化が終われば、皆帰る事になるんでしょうね。
来生なのか、いつかの未来にみんな仲良く笑い合えれば、いいですね。