1月は天理教にとって教義的に大きな意味を持つ。陰暦1月26日は教祖が肉体的に亡くなった日である。そのため1月は全国各地の天理教会では、大祭が執り行われる。このことは先週届いた天理時報に載っていた。天理時報では26日の天理教本部での春季大祭がメイン記事であった。その中で、真柱は春季大祭の意義について振り返った。天理時報では度々真柱の言葉である「世界ろくじに踏み均せ」との言葉が扱われている。そこで私はハタと立ち止まる。「世界ろくじに踏み均せって何だったけな?」と。私は知っていたはずである。なぜなら、過去にこのブログで扱ったことがあるからだ。えぇーと。あのときには知り合いの天理教人に教えてもらったはずなのだ。記憶が定かではないが、そのときに教えてもらったのは、教祖は115歳生きられるところを25年縮めて90歳で亡くなった。その際に教祖は人間に「さぁさぁ扉ひらいて、世界ろくじに踏み均そうか」と問いかけたそうだ。それを聞いた人間は当初、意味が分からなかった。「扉ってなんの扉だ?でもまぁ、何にせよ閉じるより開いた方がいいから開いてもらおう」ということで、「開いてくだせぇ」とお答えした。そして教祖は亡くなられた。その後の教祖の言葉を伝える役であったものから、「教祖が扉を開くと言った真意は、後は君達が天理教の教えを実践しなさいということ。いつまでも教祖に頼っていてはダメよ。君達人間が教祖抜きで自分で考えて陽気ぐらしの実践をやりなさい」という親心で教祖は25年寿命を縮めたと私は理解している。私も「世界ろくじ」の意味がイマイチ理解できていなかったが、天理時報における真柱の説明では「ろくじ」とは「単に主主の不平等や不公平がない世の中というだけではない」と書いてある。つまり「さぁさぁ扉ひらいて、世界ろくじに踏み均そう」というのは、お前たち人間が世界の陽気ぐらしに向かえ」ということになる。
私がこの件で大変興味があるのは、陽気ぐらしに向かうための天理教学的意義ではない。私が最も興味をひくのは教祖の言葉を人間が理解できなかった。「扉を開く」ことに対する誤認があったということである。教祖も人間が理解できないような言葉を使用するというのは少々イジワルな気もしないわけではないが、受け取った人間が神の真意を理解できなかったということである。このことに私が大変な興味を示すのは、それが教祖の死を招くということではなく、信仰というもの、人間というものの根底を示すものだと思うからだ。私は色々な状況においてコミュニケーションというものを重視する。そのコミュニケーションは言語的なやりとりから、世代間コミュニケーション、前回扱ったようなレヴィストロースのような歴史的、民族的コミュ二ケーションこそが人類の生の本質であり、目的であると思う。そういった観点から私達にできることはコミュニケーションを志向すること、相手の思いを理解しようと努め、他者に伝えることである。それが言葉だろうと、信仰だろうと、種だろうと同じことである。すべては誤認、誤解、無知から始まるのだ。まずはそこから始まると思う。もちろん、その先にも100%の相互理解なんて有り得ない。分かっていても分かっていないことだらけである。何十年一緒にいる家族ですら理解できないことがある。そういったコミュニケーションの志向性と、理解への慎みことが大切なんだと私は思う。そういった意味でも天理教にとっての1月というのは信仰の基礎、人間の基礎を振り返る大切な月なんだな思う。ということを天理時報をみて考えた。
1. 無題
you can say that.
そう、私は気になるのです、人間がわかっていないということが。すなわち、自分が信仰を誤解しているのではないかということが。良かれと思ったことが神の目には違っていた、と肉体を離れてわかるのではないかと。
2. Re:無題
>calmiさん
神の真意なんて誰も理解できません。“自分は誤認しているかもしれない”というのが究極の慎みだと思います。
“自分は間違っているかもしれないと絶えず自問しなさい”と教えていただいたのは親でもなく大学の恩師でした。
全然できていませんが・・・わぉ。
筆先の預言があるのだから、「扉を閉めて」と答えても現身を隠されたのかもしれません。
その場では「閉めろ」といったからその心を受け取ったまでや。とかってね。
神とのコミュニケーションの問題は、人間の意志よりその精神のほうが重要という意味が込められているのかも?現在でも模糊としすぎていてますね。
そもそもはじめから
人間と神様とのコミニュケーションとれてなかったんだから
今もってはじめからずっーと取れてないんでありますね。
はじめにずれて
ずっとずれて
修正どころかおおずれ中‼
そもそも、人間に「世界ろくじに踏み均せ」と云ったのではなく、「世界ろくじに踏み均す」という神の宣言なんですね。
少なくとも「弱いものを踏み均す」とは云ってないでしょうけどね。
天理教の偉いさん達も踏み均らされないよう、ご注意してください。