神は死んだ、我々が殺したのだ

ある教会子弟の、ある天理高校生と話す機会があった。その子は天理高校で寮生活を送っていたが、3年生で卒業前のため、1月いっぱいで寮を出て、実家である地方の教会に帰っているようである。その子が天理大学進学に際して親子で(親は教会長)色々と問題が勃発しているようなのである。問題は、自由にしたい子どもと、制限する親というどこにでもある構図であり、誰でも見覚えのあるInitiationである。しかし様相は一般的な発達段階でのInitiationとは異なるようだ。というのは、その子が怒っている核心は自由の獲得ではなく、“親子で向き合えない”ことだというのだ。その子は教会で生まれ、育ってきたために教会の経済状況や身分の公共性というものが身体化している。そのため「あれ買ってほしい」や「皆こうしているから私もこうしたい」などと要求を強引に押し通すことは言わないし、現実検討能力は非常に高い子だと私は思う。まー年頃だし親子だからある程度は無理なことを言ってるかもしれないけど、それが無理なことも承知しているだろう。しかし、大学進学に際し経済状況を鑑みて「もっとこうした方が教会のためにもいいんじゃないだろうか」という提案をすると、教会長である親御さんは「お前は分かっていない」や「親の言うことが聞けないのか」と議論を摩り替え、恫喝するようである。その子いわく「いっつも同じことの繰り返しなの。どっちがみんなのためになるか、どっちが効率的かという議論よりも、彼(親)には“自分の考えに意見されるのが許せない”のよ」ということである。なるほど高校生にしては、なかなかの洞見である。結局、現在も平行線のまま冷戦が続いているようである。
 先週の天理時報では天理教の“談じ合い”の大切さが書いてあった。談じ合いとは、つまり話し合いということだろう。しかし、上記の事例ではその談じ合いの屈折したパワーバランスが露呈している。強者による談じ合いこそ怖いものはない。一昔前(5,6年前)に、私も天理教人の会議に何回か招待されて参加したことがある。会議では議論が煮詰まってきたり、意見が分かれたりすると、その会議で一番偉い人(理の親)が出てきて「神様はこう言っている」と言って、その偉い人の意向に沿う形で神様は利用され、そのまま議決されることがかなり多かった。会議という民主的な場が、一瞬にしてファシストとなる。その「話し合ってる意味ないじゃん的嫌悪を感じたため、私は出席を拒否するようになった。あの天理教の、強者による、強者のための会議は思い出すだけで気分が悪くなる。きっと、天理高校生のその子も同じような気分の悪さを味わったのであろう。しかし、私は思う。その教会長の親御さんもまた、その気分の悪さを数多く潜り抜けてきたサバイバーなのだ。だから自分が上の立場に立ったときに、同じような仕方で強権力を発揮せざるをえないのだろう。だって、天理教内で育ってきた教会長はその方法しか知らず、弱者の話を汲み取るという経験がないのだから。そう考えると誰も悪くない。ただ、それを許せば、その子が将来的に天理教に嫌気がさす蓋然性は恐ろしく高いだろう。天理教を信仰することに「意味ないじゃん」とならないように“談じ合い”の基本ルールを定めてみてはどうだろうか。もしくわ、談じ合いを撤廃し、教会長の権限を明確にして徹底的な縦社会を構築するかである。自由と制限こそ、宗教がもつ葛藤なんだと思う。教会という閉鎖空間では、そのコントロールは教会長に一任される。しかし、その教会長の質が問題となる場合が多い。ある一定の実働的な監査制度がないと、天理教は足元(教会)から少しずつだが着実に崩れていっている。

私は例えそれが間違っていても、常に弱者の味方でありたいと強く思う。

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