先週届いた天理時報(4217号)での感想。最後の6ページでの「現代社会と家族」というテーマで天理やまと文化会議委員のPh.Dを持つ教会長さんのエッセイがある。そのエッセイを読んで、私は非常に共感を覚えた。というのは、私と非常に同じような考え方であったからである。
天理教の教義では、この世は神の創造である。それは天理教的事実である。しかし神の創造だからといって全てが神の意思ということではない。体は神からの借り物であったとしても、その心や魂は我々の意志に委ねられている。神の意志かvs人間の意志か、この線引きはとても難しく、天理教教団がこの線引きに対して厳格なラインをひかずに曖昧さを持っている姿勢は私はとても大切だと思う。神の意志に委ねすぎる危険性を私は常々警鐘を鳴らしている。神の意志に委ねすぎると、人間の曖昧さ、不確実性、反省、失敗体験などを奪いかねないのである。そして神の意志の名のもとに天理教人は無力となり、思考停止となり、自身が神となる勘違いを起こす。こういった事態に対して私は「ちゃんと自分で考えたほうがいい」という姿勢を一貫して持っている。陽気ぐらしというのは最終目標ではあるが、何をもって陽気ぐらしというのかは個々人が考えなくてはいけない。某教会長が言うように「笑いながら暮らすのが陽気ぐらし」という非現実的な目標を掲げるのも結構だが、そういった無自覚的な人間こそ、「親の言うことが聞けないのか」や「素直になれ」と周りの人間を虐げているのを私は見てきた。そのような経験から神の意志というファシズムこそ、私は怖いものはないと思う。
そういった観点から、先週の天理時報のエッセイは好感が持てるとともに、教団が緩やかな教義修正に入っているのではないかと思う。そのエッセイの骨格の部分を引用する「私たちが普段「当たり前」だと感じている価値観の中にも、その依拠するところが実は「不確かなもの」であることがある。常識という“色眼鏡”を着けたままでは、物事の本質を見誤ってしまう恐れがある。」ということである。これは、一見「当たり前だぜ」と思うことなのだが、大切なことはこの天理時報の読者の大多数が天理教信仰者であることだ。つまり、天理教信仰者に対して「あなたの常識はズレているかもしれないよ」というメッセージであると思う。たぶん。天理教人にとっての常識とは何か。紙上では主に「家族団らん」のことを指してはいるが、天理教人が依拠する教義を「実は不確かなもの」と言っていること、またそれを記事にした教団の姿勢はおおいに評価できるのではないだろうか。家族とか、愛とか、信頼とか、そんなものを神は用意してくれない。むしろ、そんなモノはない。だからこそ、種をまき、大切に育んでいく必要があるのだと。「親のためにきちんと成長しろ」では誰も育たない。目の前にいるのは、神ではなく人間なんだよと。そういうことを考えた。