天理教災害救援隊に期待します。


ある天理教の方に震災に対する天理教の取り組みを聞いた。天理教の「災害救援隊」(略して災救隊というらしい)は、現在先遣隊という形で数名が被災地に入っているらしい。その間に、重機や救援物資などの準備をして、今週末から本隊が投入されるという予定になっているようだ。この災救隊だが、調べてみると現在までに非常に大きな貢献をしていることがわかる。日本各地での災害には必ず登場しており、その役割はとても評価されている。そのわけは、豊富なマンパワーが生み出す丁寧さと準備性であると私は思う。大きな災害が起こったとき、まずは自衛隊や軍隊などが人命の救出を行う。その行為はパワフルであり、訓練された機動力が必要である。そして次に災害で荒らされた家などの環境の整備がある。これの多くは行政であったり、ボランティアや住民の力仕事となる。しかし行政の動きは遅く、公共施設が優先される。かといってボランティアでは集団的機動力がない。となると、一定の統制のとれた集団が必要となる。その役割が災救隊の存在意義と合致するようだ。次にその災救隊の質であるが、私が予想していたのは天理教を信仰する素人おっちゃんの寄せ集めだと思っていたが、そうではない。定期的に訓練を重ね、その指揮系統はかなり万全のものであるようだ。特に阪神大震災を契機に、その在りかたは見直されたようだ。阪神大震災以前では、私が予想したように災害に対して素人のおっちゃんの寄せ集め的要素が強かったと聞いた。しかし阪神大震災での広域支援を教訓として、指揮系統とその準備性が整えられた。阪神大震災以降にも、各地の災害に出向くなど災害に対する知識と経験は豊富なようである。また前回も述べたように災救隊は、自己完結型組織である。自己完結型とは、食料も寝床も自分で用意できるということである。つまり被災地に迷惑、負担をかけずに活動ができるというとても大切なことである。現在、日本で自己完結型の救援組織は自衛隊と天理教の災救隊しかないと聞いた。

災害に対するボランティアと聞くと、ボランティアが被災地の食料を消費し、ボランティアが怪我をし、ボランティアが被災者の寝床を奪うという本末転倒的な善意があったことも阪神大震災の教訓である。またテレビで被災者が「毛布がない」といえば、必要以上の大量の毛布が被災地に送られるという、これもありがた迷惑善意もみられた。今、被災者に対する適切な支援とは、日常の仕事をしっかりと行い経済を停滞させないことであり、支援は義援金がベストであるということ。「私も何か力になりたい」という方は、ひょっとしたら天理教の中には多いのかもしれない。しかしその思いを相手に伝わるように表現するためには、かなり慎重な対応が望まれる。現段階では「私が行っても役に立たない」という場合がほとんどであろう。

我々にできることは、神に祈り、災救隊の活躍を願い、日常を粛々と送るだけである。