天理教の災害救援隊が各地の被災地で活躍しているようだ。国からの要請ではなく、各自治体の要請に基づいて動いているとのこと。今後も応援しています。
ある方から「天理教の災害救援に行きたいが参加できない」という話を聞いた。どうやら天理教では、毎月10日くらいから26日まで「月次祭ウィーク」というものがあるようだ。月次祭:ツキナミサイとは毎月の各教会での月祭りのことで神事になる。各教会の必須行事であり、天理教人は関連する教会へ儀礼やお手伝いの奉仕しなければいけない。関連する教会が多い人は、ほぼ連日のように月次祭に奉仕しなくてはいけない。その月次祭は26日の本部の月次祭までに終えなくてはいけないので、毎月10日から26日までに天理教では月次祭が集中するようだ。そこで、月次祭を奉仕するために時間をとられ地元を離れられず、被災地へ行けないというとのことである。畢竟、神(神事)を取るか、人間(ボランティア)をとるかという選択で苦悶している方がいる。この難問に対して私は回答を持っていない。平素であれば、私は回答できる。人間の建前や名誉のために都合よく神を選択する状況においては、積極的に非難を浴びせるだろう。ふざけるなと。しかし、今回の神への素直な祈りと、被災者への純粋な支援に対しては言葉を持たない。そこには月次祭の参加人数や、上級会長への見栄、信者への虚栄心などがないからである。どちらをとっても「被災者のため」という心性を強く駆動させるであろう。
このことに関して、ある仏門の知り合いからヒントをもらった。というのは、天理教に限らずに既存宗教も新興宗教も、国内の宗教の多くが現在被災者への救援を行っているからである。その中で教義と実践の中で葛藤している人が天理教に限らず多いということ。それに対して今後の実践について「教義や信仰に基づいて実践する時期ではない。救援という実践の中で、自らの教えをや信仰を練り直し、立て直していかなければいけない。それはつまるところ、宗教者や信仰者の土台となる人間としての成熟を意味する。内側だけの信仰だけでなく、人間的成熟は外部に放たれる。またその強さは、外部に放たれることからしかはじまらない」ということ。内側に留まるか、外側に出るか。何をもって内側とするか、外側とするかはそえぞれが考えるしかない。ある人にとってはその内側と外側の差は大きく、ある人にとってはその差に意味を持たない。ただ、その殻を破る必要があるのかもしれないということを考えた。ちょっと哲学的だけど。