神の真意を想像するのは後回し

天理教の地震における対応を調査した宗教学者のブログをみた(引用先を失念してしまいました。すみません)。調査というのは地震後に宗教団体本部に電話し、各支部や各教会がどのような対応をしているか問うたようである。その中で、ほとんどの宗教団体が地震直後から組織として支援のコンセンサスを取り、何かしらの行動を起こしているとのこと。中には、支援など行わずに宗教施設を閉鎖している宗教団体もあるようだ。では、天理教はどうだったであろうか。天理教とキリスト教系だけが各教会単位の支援に関して、「よく分からない」という返答があったようだ。詳しくみてみると、この学者が「例えば天理教では、東京で帰宅できない人々が開放された天理教牛込大教会で色々な援助を受けたと聞いているが」と聞くと、天理教は「そう聞いている。しかし、どういった経過で、どのような支援がおこなわれたかは分からない。その他の教会でも同様の話があるが、どの教会が行ったなのかは把握していない。各教会の自主性に任せてあり今後把握するつもりもない」というような返答であったそうだ。私はこのような天理教の姿勢には非常に好感を持つ。確かに今回の地震に関して、天理教全体としての反応は鈍いと言わざるを得ない。こういった状況で支援を競うことはよくないことを承知で申し上げるが、他の宗教団体の対応と比べて、アナウンスも支援の着手も義援金の用意も天理教は素早いとは言いがたい。しかし、現地の各教会での天理教の対応は早かったようである。上の指示がなくても目の前の困難に対しては自主判断で教会を開放し支援を行っている。実際に東北地方では天理教の教会が避難所となっているところも多いようだ。この各教会の自主性が示すことは、天理教本部は各教会に対してそんなに間違った対応はしないだろうという信頼を置いていることであると思う。同時に、信仰とは土着地域に根ざした関係性でしか有効に機能しないということを考えた。信仰と人間関係は同時並行的なもので優劣というベクトルでは計り得ないものと考えると当たり前のことなんだけどね。今ひとつ天理教人は人間思案を軽視する嫌いがあるのだが、結局我々は人間でしかなく、支えあっていくしかないのは被災地支援の実践が示している。

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