支援はあるものの中から行うべきである

昨日ある天理教人より、京都にある大きな教会の今後の被災者への支援について伺った。22日のその大教会での月次祭において発表があったようだ。その中で、今後京都の大教会で1000人、天理市の信者詰所で500人を受け入れ、そして半年で1億円をその教会ファミリー全体で被災者支援を賄うということだ。この規模の大きさには非常に驚いたが、信者の反応はどうだったのか。それは非常にシニカルな受け止め方が大勢だったようだ。「どうせその負担は末端信者に来るんだろ」という意味の冷笑なのだが、事態は想像よりも深刻であるようだ。というのは、この大教会では天理市にある信者用詰所が建替え中(普請中)のようなのだ。その費用は数十億円規模のようだ(正確な数字を忘れてしまった。また聞いておきます)。震災の支援金以前の問題として、この教会ファミリーでは震災以前に数十億の負債を背負っているのだ。このことに関しては、実は私も以前から承知していた。いつかウラがとれれば公表したいと思っていた。というのは、この数十億円の建設費は、全く返済の見通しがたっておらず、返済能力以上の借金であることは明白であり、企業であれば背任罪も抵触するのではないかという疑いがあるからだ。こういった事実に対して、実際にお金を払わされる信者の倦怠感は相当なもののようだ。そこには「払いたくなかったら払わなくていい。信仰の自由があるのだから」というフレーズは通用しない。信者によるお供えの金額は、そのまま信仰の成熟度や貢献度という度量衡に変換される。つまり、金額によって教会上層部(人間)にとって「いい信者」と「悪い信者」に区分される。「悪い信者」という下層に低位されてしまうことは、この京都のファミリー教会では信仰的な死を意味する。一度上層部に睨まれようものなら、教会はあらゆる面について冷遇させられるというのだ。常識的に考えるならば「そんな天理教なんて止めちゃえよ」ということになるが、地域や家庭、個人の人生、人格に深くコミットされた状態では安易に止めることもできない。数十億の建設費を巡っても、毎月のお供えに加えて、建設費専用のお供え封筒がまわってくるようだ。用途を指定したお供えなんて聞いたことがない。これじゃあ、お供えという名の取り立てである。おかしな話だ。
これに加えて、今回の1億円の支援である。1億円というキリのいい金額についても、世間的な評価が垣間見える。1億円という金額は分かりやすくインパクトがある。しかし何を根拠としているのか不明である。この教会の上層部で「これだけやらせてもらいましょう!」という、何の根拠もない精神論が先行したことは想像に難くない。なぜ1億円なのか、どのように使うのか。より根本的に、そもそも今できることを行うのが支援であり、能力以上のことを設定し、他者に強制することは支援なのかという疑問も生まれる。支援は、集められた真心の義援金の中で行うべきであり、見栄をはるために支援を行うべきではない。

この教会の大教会長は神のようであるという皮肉めいた噂はよく聞かれる。今回の話を聞いたときに、私は日本軍が第二次世界大戦に突入した「空気」を思い出す(山本七平)。天皇の名のもとに、正義を振りかざし「私達がやらねば」という責任、虚栄、見栄、高慢心という空気の中で戦争に突入したのである。結局、一番大変なとばっちりを受けたのは庶民であったことは言うまでもない。

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