天理教本部で祈る。

天理教社会学研究所
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ちょうど私が天理教本部の神殿に到着したときには、祭典は終わっており神殿講話の直前であった。私は神殿で囲まれた、「中庭」というところの仮設参拝場に着席した(写真参考)。神殿講和では、もちろん震災の話から始まったのだが、その後は全然聞けなかった。というのは、天気はよかったが非常に寒かった。また神殿には非常に若者が多く、私は話よりもそっちに注意がいってしまった。どうやら明日から天理教を信仰する学生の大きなイベントがあるということで、多くの学生が天理に集まっているようだ。その学生のイベントも震災の影響でダウンサイズを余儀なくされたようだ。私は震災の影響で全てのことに自粛ムードが流れることを是としない。というのは、早い復興のためにも“日常”を維持することが大切だからである。しかし“お祭り”のようなことは被災者心情を考慮して自粛せざるを得ない場合もある。天理教は全国区であるため、その判断は非常に難しいと思う。

ともあれ私は天理教本部での祭典で、多くの人が一心に震災の復興を祈る姿勢には心を震わされた。祈りというのは、何の実益も生じない。しかし一番大切なことだと思う。キリスト教牧師のWIlliam Barclayは、「祈りとは、神に願いを押し付けて神が人間に代わって助けるのではなく、人間が行えるように神が手助けしてくれることである」と記述した。キリスト教では、祈りとは「神との対話」と定義される。神との対話を通して、人間が人間を助けるということが祈りの本質であると。実際の祈りというのは神を媒介として助けられるべき人間や助かってほしい人間を想像し、その救済を願う。このイマジネーションが祈りであり、距離や時空を越えた人間関係なのかもしれない。神という実体のないものが、人間同士を繋いでくれているのかもしれない。新約聖書学者の田川健三は「存在しない神に祈る」ことを信仰の本質にあげている。これほど自然科学が進歩しても、神の存在を科学的になんて証明できない。しかし田川は、科学に証明を求める姿勢を批判する。むしろ神というものを証明できないから神というテーゼが成り立つ。神の存在を証明できないから神が存在するというトートロジーを容認しつつも「少なくともその方が謙虚」という。科学至上主義で、神の存在を否定することは自然科学では間違ったことではない。しかしその科学で証明できるという万能感にあふれた姿勢こそが、傲慢である。我々人間世界には科学で証明できないことが多く存在する。例えば、愛とか信頼とか人間関係とか。それを押し付けることもよくないが、そういったものによって心を振るわせる体験が我々人間には必ずある。「そんなものは目に見えぬから存在しない」という言葉は、同時に自己の存在を危機的なものにする。なぜなら、我々の存在こそが両親の愛とか信頼とか人間関係とうい面倒なものの結果であるのだ。その不確定で曖昧な神の存在を信頼することが、人間を信じることの根本に流布している。100%分かりあえる人間関係なんて有り得ない。だから我々は言葉を交換し、相手の温度を感じることを必要とするのだと思う。無宗教や、無神論ということを平気で口走る日本人。しかし震災以降、多くの人が黙祷を捧げ、復興を祈っている。この信仰心溢れる宗教的行為は、人間の根底に流れているもので、とっても大切なことだと思う。私も天理教の神様に復興を全力でお願いした。

天理教本部で祈る。」への3件のフィードバック

  1. 匿名

    お地場とは、神が天下るために道具衆の魂を引き寄せてあった場処なのだから、「神との対話」の為に「神宿る人間」が必要なのではないか?
    「神が答えて答えて答える」場所に復元する事が前提なのではないか?

  2. 匿名

    真柱様は「神宿る人間」では無いようだが、神宿る人間は、誰が、どうやって探すのでしょうか?

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