少々攻撃的な題名になってしまった。この題名を見た天理教人は即刻否定すると思う。「そんなわけない!」と。しかし震災から1ヶ月が過ぎ、この震災に対して天理教における意味づけが少しずつ見えてきている。意味づけというのは、天理教にとってこの震災をどのような意味として解釈するのかである。私はこの1ヶ月、複数の天理教人と話して、また天理教人が各教会の講話において先生方の話を聞いてきたことを又聞きした。そして、そこから天理教における震災の位置づけを考えてきた。天理時報では私の読んだ限り、震災の意味づけに関する記事はまだ見られない。現在は天理教災害救援ひのきしん隊の活動記事が主となっている。天理教災害救援ひのきしん隊の活動は、実践宗教としての天理教の本懐であると思う。応援したい。
先日は東京都の石原都知事が「震災は天罰である」と述べたことに対して、強い世論のバッシングが起こり発言を撤回することになった。この天罰発言を天理教人はどのように受け止めたのか。
まずは、先日購入した天理教代表役員の「お道の視点から」という著書の「自然災害の意味を考える」(立教167年10月17日号)を引用したい。その中で、自然災害について「その程度にもよろうが、その地域、さらには国、ひいては世界に対する「お知らせ」と受け止めるべきではないかと思う。従って、難を逃れた者としても、親神様の思し召しに沿わぬ人々の姿、世のありように対する警告であって、決して他人事ではないと承知することが大切だと思う。」とあり、それを補強する形で「敢えていんねんという語を使うなら、国のいんねん、世界のいんねんのなせる業と言うしかあるまい」と述べている。これを聞いて私は天理教も震災は天罰という位置づけであることを認識した。それ以外の解法があるなら教えてほしい。この著者が書いている業という単語は、仏教では因果応報を示す。つまり、間違った心遣いをしていると神が災害で人間に罰や戒めを与えるよ、ということになる。人間の悪行は災害によって罰せられる。私が話を聞いた天理教人も皆、表現上はオブラートに包まれているが、言ってることは天罰と同様の理路となる。これ以外にどのように読み解けばいいのか私には分からない。震災は、人間の心遣いが悪いことが原因である。
私は、この考えに対して控えめに「それは違うんじゃねーのか」と思う。控えめにという表現にしたのは、やはり私もピッタリとくる解法を持たないからである。しかし、そうであっても「やはり震災は天罰じゃない。天罰であってはならない」と思う。100歩譲って天罰であったとしても、私はそれを認めたくはない。なぜなら、それは信仰心がないからでも、いんねんを理解していないからでもなく、やはり被災者を思ったときに私はそういった発言に対して口をつぐんでしまうからである。それを人間思案といわれれば、私はそれで構わないのではないかと思う。
この荒れた土地に着陸するのは非常に難しい。一つのヒントとして、キリスト教を参考にしたい。プロテスタントの信者である友人と話していると、キリスト教でも震災の解釈をめぐり「神の戒め論(震災は天罰論)」が少し出ているようである。しかし大勢としては「震災は自然現象」という見方をしていると聞いた。一信者の意見であり、どこまで信頼性があるかは不明であるが、私が興味を引いたのは「主は与え、主は奪う」というところで思考を停止させていることである。どういうことかというと、キリスト教では震災を「神からの特別なメッセージではない」と踏みとどまっているということである。パラドキシカルな表現をするならば、むしろ神からのメッセージは日常に溢れ、日常に我々人間に与え、そして日常的に我々から奪うのであると。個人がどのような意味づけをするかは個人の自由であり、個人が信仰心の涵養や鍛錬のために神からのメッセージにすることは個人レベルのみで行われるべきであるということである。もし教団や各教会単位において統一見解として神からのメッセージだとすると、それは人間から人間へのメッセージに変換されてしまう恐れがあり非常に危険である。この点はヒエラルキーが確立された(天理教で言えば理の親が複数いるような)カトリックよりもプロテスタント信者の方が理解が早いのではないかと思う。キリスト教(プロテスタント)にあるのは「主は与え、主は奪い、隣人を愛する」ということである。震災に対するこの敢えての踏みとどまりは、神の意思をすべて分かることができるという勘違いに対して非常に慎み深いものがあるのではないかと思う。
話を天理教に戻すのであれば、天理教は此度の震災に対して、神からの特別なメッセージという解釈は「踏み込み過ぎ」なのかもしれない。先の著書において著者は「災害は神の残念、立腹である」という神からのメッセージを、著者のメッセージに変換している。天理教においても、この世界、人間の存在はすべて神の所作であるはずである。つまり、此度の震災のみにおいて神が特別なことをしたのではないはずである。生も死も神からの恵みであるはずなのであり、神が立腹している理由を特別なメッセージとして声高らかに宣言することは、それこそ高山の傲慢ではなかろうか。神は災害を起こすだろう。しかしそれは罰ではない。ひょっとしたら災害を通して我々人間の災害の捕らえ方、振舞い方を見越しているのかもしれない。ただ神の真意は分からない。災害は神の怒りであるということだけである。それもまた神でしか分からないことであり、なぜ神が怒っているのかは、我々の淡々とした日常を自己点検するしかできない。悪いことをしたら罰せられるのであれば、それは宗教の役割ではない。著者のように人間が悪いから罰を与えるという神の想像は貧困ではなかろうか。こんな寂しい神に仕立て上げていいのだろうか。此度の震災で偉そうに神のメッセージを代読する人間か、粛々と被災地のために尽力する人間か、さて神はどう思っているのだろうか。自問し続けることが宗教の本質であろうが、私も早く震災に対する天理教教会本部の回答を見てみたい。
神の残念の現れではあるが、何に対しての残念かは、神に聞くしかない。
神の残念の現れなら、本部の屋敷に震度7起こして頂けないものでしょうか。
震災は天理教上層部に対する神の残念立腹であると思います。
天理と天災の因果関係は、天理教祖においては明白です。
熊本県は政府の農業制作の変化に対応し、つまり政府の仕向けた方向に巧みに舵を切って、TPPの方向で大規模農業に転換させた優等生であった。
天理は基本5の理で発動します。五つ理を吹くで、善であれば利が吹いて繁栄に、悪であれば神の立腹で、残念の返し。
だんだんと15日より見えかかるとお筆先にありまして、政府の農政転換の1999年から数えて、(この場合実数で数えます)15年で、神の立腹の天災です。
明治8年、1875年のお筆先ですが、
かみなりもぢしんをふかぜ水つきも これわ月日のざねんりいふく (8-58)
この事をいまゝでたれもしらんから このたび月日さきゑしらする (8-59)
明治8年は靖国神社の開始の年、英霊を祭るという英霊振興、軍国主義の開始でした。
言論圧迫の開始の年であり、直接的な戦闘行為が朝鮮にたいして行われた年でした。
高山の横暴を残念として、天災を予言した中山みきは、私の師であり、人間のおや、親神そのものです。
原典を直接に読めば、天災の教理は、中山みきにおいて、明白な懲罰行為と人間には解されますが、神はおたすけと主張しています。
中山みきを優しいお母さんだと思いたい気持ちはわかりますが、キチガイばあさんであり、キツネ付きのオカルトであるという本質を偽ってはいけません。
中山みきは永遠の乙女であり18才のお姉さんと理解するのが基本です。
基本的にみき姉さんの方針を知らせなければ神は働かない。方針を知らせる、歌で知らせる。
これこそが、みき姉さんの真骨頂である。知らせれば人間には身上が生じ、世には天災が起きるという原則は基本中の基本である。
なにもかもちがハん事ハよけれども ちがいあるなら歌でしらする (1-23)
しらしたらあらハれでるハきのどくや いかなやまいも心からとて (1-24)
やまいとてせかいなみでハないほどに 神のりいふくいまぞあらハす (1-25)
“06.115 このかやしたいしや高山とりはらい みな一れハしよちしていよ”
“06.116 このはなしなんとをもふてきいている てんび火のあめうみわつなみや”
“06.117 こらほどの月日の心しんバいを せかいぢうハなんとをもてる”
“06.118 たん/\とくどきなけきハとくけれど しんぢつなるの心たすける”
“06.119 どのよふなものも一れつハかこなり 月日の心しんばいをみよ”
“06.120 このよふハ一れつハみな月日なり にんけんハみな月日かしもの”
“06.121 せかいぢうこのしんぢつをしりたなら ごふきごふよくだすものわない”
しらしたら現れ出るは気の毒や。 予言である。
赤い衣装の悪魔と黙示録に予言され、末法の世の666(ミロク)と予言されたみき姉さんは、
本気で「大社高山とりはらい」します。
天罰だと言いたい神と、たすけたいというみき姉さん、どちらを信じても、現れ出るは「きのどくや」です。
基本様
基本様は何を信じておられるのですか?
根本的には親なる神がより良き世の中へと進める為に、働いておられるのだから、天災も神の守護の一環ではあるだろう。
どこまでも感謝と謙虚さと向上心と創造性を培って、より良き世の中を賜るよう祈りたいですね。
犠牲になられた方々の未来と未来生の健康と安全と幸せも併せて祈りたいですね。
EU離脱や政権交代の様な大きいニュースは上品な部類の出来事だけれども、今日食えない人達や、今奴隷化されたり、レイプや残殺されている人達も大勢いる筈です。映像にならない、外国も含めて世界を見れば、もっともっと悲惨な出来事が日常的に発生しているのが現実のこの地上の有様です。
少しでも、喜ばしい、優しい、健康で安全な世界を実現する為に、神が顕そうとしていたおじばと講文明が、偉い人達に汚染されていても、神への感謝心を種として蒔き続け、みかぐらうたを唱え続けたくなるんですよね。
神への感謝心の薄い天理教の中も外も、日本も外国も、神の大掃除・大津波の最中でもあるんでしょう。
基本様へ
「大砂高山」だそうです。
6-92 どのよふな大砂高山ゆたんしな なんとき月日とんてでるやら
6-115 このかやし大砂高山とりはらい みな一れつハしょうちしていよ
要するにろくじに均すという事でしょう。
はい。
おやさまは確実に着々と取り払いを進めておられますから、。。
大きな政府というものがつくられて大社高山の素顔が見えてきている現代社会です。
「帝国」という言葉がありますが、もともとは国とは小さな単位であって、集落にかたまりが村、群となり国であって、
それが統一されて、国家という家になったわけで、朝廷はそうして成立し、国家統一は戦争による武力支配であったから、
軍というものは国の必需品となり、軍人=侍の国家が将軍支配となって、江戸幕府が国を支配し、
明治に再度朝廷国家・藩という武家支配を排除した、官が統治する国家、実は政府直轄のいわゆる帝国主義的国家、その支配が開始された。天皇教(天皇は神聖にして犯すべからず)と富国強兵、海外派兵領土拡大。
白人支配の帝国主義国家とは別の、宗教(大社)支配による神治支配がなされようとし、実際に、自由民権という名の、高山支配が構築された。そこに農地をうばい労働力を集め、資産を奪い金貸しをする金融資本家が登場する。
おやさまは、見抜き見通しであって、人間の心の自由が、我が儘に使われることをご存じであって、世界たすける道を開始された。
江戸時代には、おやさまは大社高山取り払いの道を準備にかかられていたわけです。
神の手段は、天災。脳に火が入れば人災となる。
今起きていることの中山みき的意味が理としてわかるよう、基本は説き続けるばかりです。
中山みきは バチをあてます。 確実にバチをあてます。 絶対に罰を当てます。
人間の身の内で バチ当てを行うこともします。
「天理教の神様はバチを与えない」と言いますが、詭弁です。
「返し」という行為が して返すなら「し返し」「仕返し」です。 つまりバチです。
教祖伝で山村御殿で、尋問者が「罰をあててみよ」と言ったが。現実にはバチを与えていないと高弟は見て取った。
甘いお話です。
引用します。
「親神にとっては世界中は皆我が子、一列を一人も余さず救けたいのや。」と、仰せられた。
稲尾は、其方、真の神であるならば、此方が四、五日他を廻って来る間に、この身に罰をあてゝみよ。と、言った。
その途端、教祖は、「火水風共に退くと知れ。」と、言い放たれた。
稲尾某が言ったのではない、表面上はそう見えるが、皇室を背景にしての宗教管理官の言葉であり、明治政府の神をも恐れぬ思想統制が言わせた。
神の一日は一年であり、発言の5年、コロリの大流行という返しをしている親神である。
教祖伝にはこうある。
この明治十二年には、国内でコレラが大そう流行った。
みのうちにとのよな事をしたとても
やまいでわない月日ていりや 一四 21
せかいにハこれらとゆうているけれど
月日さんねんしらす事なり 一四 22
世間ではコレラと言うて騒いで居るが、これも実は親神のてびきであって、一列人間の胸の大掃除を急いで居るのであると諭して、強く人々の反省を促された。
何をは反省させたかったか。
神を侮る。その宗教政策の明治政府に従う心にである。16万人死んでいる。
日本中の人が「維新」と「情報操作」に欺かれて、西洋文化の科学万能にかぶれ、神信心にも、
神を信じていない、末法末世が、政府・権力者によってつくられていく。
これを反省させようよ言うのだ。
さあ/\もう十分詰み切った。
これまで何よの事も聞かせ置いたが、すっきり分からん。何程言うても分かる者は無い。
これが残念。疑うて暮らし居るがよく思案せよ
。さあ神が言う事嘘なら、四十九年前より今までこの道続きはせまい。
今までに言うた事見えてある。
これで思やんせよ。さあ、もうこのまゝ退いて了うか、納まって了うか。
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今までに言うた事見えてある。
さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。よう聞き分け。
これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、
子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。
しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。
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これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いた
しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。
しっかり見ないなら罰が当たります。 お気を付けください。 神のすることは皆親心の塊です。
そこでお言葉です。解釈ですが、
「これまで何よの事も聞かせ置いた」 → 何世 いつの時代の事も。 何の世の事も 聞かせ置いた。
→ 忘れるから筆先に知らしおいた。 → 予言してある。
神はだまし討ちはしませんから、震災ももとにはちゃんと教えられた理がある。
そこで、教会本部ではなく、あなた自身が、しっかりと お筆先の予言を 見てください。
でないと、絶対に罰が当たります。
天理教の神様は罰を当てる神様なんですか。怖いですね。
しかしその厳しい神様が、天理教本部に何も罰も与えて無いように思えるのですが。
教勢衰退が、本部に対すr罰だとするなら、コレラで16万人もの人を死なせた神様にしては随分と甘いように思えるので
すが・・。 それで、結局その、
>稲尾は、其方、真の神であるならば、此方が四、五日他を廻って来る間に、この身に罰をあてゝみよ。と、言った。
の稲尾という人自身には、罰は当たらなかったのですか?コレラで亡くなった方達こそ、いい迷惑ですね。
神様には、高山に罰を当てるためには、庶民の命はどのようにでもできるものなのでしょうか?
何だか、納得いきませんけども・・・。
現在高山であろうが谷底であろうが、良し悪し共の心通りの守護を賜るのでしょう。
現在の人間で、災害を被らないほど、悪因縁の薄い人はほとんどいないんでしょうけどね。
一般的に疑問はこうなります・
「稲尾自身にバチは当たらなかったのか?」
「天理教団にバチは当たらないのか」
「人間には多かれ少なかれ誰にでもバチはあたるものであり、天理云々は無関係ではないのか」
基本的な回答です↓
「稲尾は国家公務として、公務上の発煙をしたのであり、法理に従うなら 日本国に責任がある
⇔バチは国家システムに」→そのシステムの中核となった下支えシステムに
「稲尾個人には→当然罰は当たっているが、バチの存在は認められないので、
当たったという事実そのものは国家も稲尾個人も認めたとは公表されない」
「天理教団には罰は当たっている。当然中山みきを神と認めていない信者幹部にである。
天理教教団教理は「天理教はバチを与えないと説いているから、
日本国家とおんなじで、
天理教幹部は「罰の存在を認めていない((神様はバチを与えないと教えている)から、罰が当たりました報告はされない。
いんねんは同じであるから「誰にでも罰が当たる」→ しかし天理はバチ当たりの因果関係を教えているから、
行為ごとに、罰に当たりそうな場所、時間、行為関係者、近づかないで身を守るという事は出来る。
一般的な回答しますと次の疑問が一般的に生まれます。
「では国家にはどんなバチが当たったか」
「では天理教団にはどんなバチが当たったか」
「では今バチが当たりそうな場所、時間、行為関係者とはどんなことを言うのか」
基本的な回答です。 「国家にはどんなバチが当たったか」
日本国には「敗戦」というバチです。1945年(昭和20年)8月15日に国民に発表されました(玉音放送)。
この敗戦の最大の原因は「大地震による、戦争システムへの天罰」でした。
戦時中軍需工業地帯を襲った2つの大地震は米国では「やったー」と報道され、日本は隠しました。
1944年(昭和19年)12月7日 昭和東南海地震 M7.9 (Mw8.2) – 2年後に昭和南海地震が発生。
http://blogs.yahoo.co.jp/tnarumiya2001/55797750.html
大本営発表では嚇々たる戦果のみを発表していた。
そんな中、昭和十九年(1944年)12月7日、
南海トラフ紀伊半島南東沖から始まったプレート境界型地震、東南海地震・M7.9が発生した。
東南海地震の余震が頻発するなかで、翌昭和二十年1月13日未明、今度は内陸断層直下型地震である三河地震・M6.8が発生した。
地表には延長9km、上下のずれ最大2mの逆断層が生じた。
その年、昭和二十年3月10日、午前零時
過ぎに、B29約300機による東京大空襲を受け、
約二時間半にわたり、市街地無差別攻撃のいわゆる[じゅうたん爆撃]を受け26万8千余の家を焼きつくし、
死者八万三千人が直撃弾を受け、あるいは煙に巻かれ、焔に焼かれて生命を失った。
このほかにも防空壕に埋められた人、炎熱から逃れようと春先の冷たい隅田川に飛びこんで溺れた人の数はどれほどであったか判らない有様であった。
そして、昭和二十年8月6日広島、同9日長崎に、原子爆弾が投下され、
同8月8日には、ソ連が日本に宣戦布告、同8月10日ポツダム宣言受諾し、同15日に終戦となった。
日本が国際連盟に加入しながら、それを嘘として戦争突入の手法が天災で手も足も出なくなった実態は、バチです。
基本的な回答です。 「国家にはどんなバチが当たったか」
「天皇陛下は神である」との行為が日本の戦争でした。
国家にはバチが当たり、日本の宗教政策は「信教の自由」となりました。
社寺掛の稲尾某は、明治7年十二月二十三日にバチを当ててみよと言った。
12月23は相手の決めた数字で12+23は 35、7X5です。
「山村御殿」問答の 事実を確認しましょう。
明治7年11月です
中山みき「どういう神で御座ると、尋ねておいで。」と。
「祭神は、記紀に記された通りである。」が回答で、山村御殿にて取り調べです。
稲尾が、いかなる神ぞ。と、問うと、
その言葉も終らない中に、神々しくも又響き渡るような声で、
「親神にとっては世界中は皆我が子、一列を一人も余さず救けたいのや。」と、仰せられた。
稲尾は、其方、真の神であるならば、此方が四、五日他を廻って来る間に、この身に罰をあてゝみよ。と、言った。
その途端、教祖は、「火水風共に退くと知れ。」と、言い放たれた。
つまり、
1874年 明治 7年 77才 「大和神社の節」「山村御殿」問答
70年後 は、1944年11月からの12月で、それで、7777の旬。
大地震です。敗戦受諾です。7777の並びは 予言の実現を明示しています。
疑いますか?
1944年 大地震
昭和十九年(1944年)12月7日、
南海トラフ紀伊半島南東沖から始まったプレート境界型地震、東南海地震・M7.9が発生した。
翌昭和二十年1月13日未明、今度は内陸断層直下型地震である三河地震・M6.8が発生した。
聖書黙示録には、7番目の災害は大地震と書かれています。
おたさまは口伝として、側の者に次のように仰せになられたとも伝えられている。
「赤い着物を着ていりゃこそ世界が明るいのや。わしが赤い着物を着なければ、世界は暗闇やで」。
「では天理教団にはどんなバチが当たったか」 事実は二人の高弟の心得違いを発端としていたこと。
1874年 明治 7年 77才 「大和神社の節」「山村御殿」問答 の 善悪共にみな現れる15日の理は15年後。 1889年
明治22.1.15日、次のようにお指図している。
「人間というものはわからん者にわからんものがつく。
世界の悪肥えだんだん思案つけ、天理教会やってみよう。
一つ道だんだん悪が添い、天理教会。めんかめんも天理教会同じ。一つの理を祀る。
皆、人間の心を寄せ、だんだん心を寄せて相談する」。
天理教会は、皆の悪が太ってしまった姿だという厳しい指図であった。
中山みきに黒衣装着せた状態で、天理教には「悪が寄り添う」というバチが当たっている。20年後 1894(明治28)年
2月、松村吉太郎が、内務省社寺局の呼び出しで東京へ向う。
11.13日、10年祭の直前のこの日、会議が開かれ、真之亮、平野樽蔵らが再度神社を造りたいと主張した。
山本利三郎、上村吉三郎、中田かじらは、これに反対した。会議は紛糾し、
休憩となったその時、突如として山本利三郎が亡くなった。
山本利三郎の死後10日目、上村吉三郎(敷島の初代会長)が亡くなった。
この頃、中田かじ(仲田儀三郎の妻)も遺体で発見された。
25年後 1899(明治32)年
5.21日、神道本局管長・稲葉正善氏が、真柱に天理教一派独立を勧める。
天皇教国家の一員として、教団は認められたという事であり、以後戦争協力組織に変貌していく。
35年後 1909(明治42)年
2.19日、天理教独立報告祭。
40年後 1914(大正3)年
8.25日、諭達。
「本教徒にして出征の命に接したる者は、借物の教理を自覚して、
身命を惜しまず以て一切の軍事行動に従うべく云々」。
12.31日、初代真柱(中山真治郎)が出直し(享年49歳)。背中に出来たできものが原因。
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バチの種類はいろいろであり、こういう事実がバチ関係↑を心得ておこう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1944年 二代真柱の指示あり・・
1874年 「大和神社の節」「山村御殿」問答 から75年 赤衣開始から75年
1949年 『天理教教典』公刊。 復元の開始 ここで赤衣装おやさまが公然化
1874年 「大和神社の節」「山村御殿」問答 から 140年
2014年(平成26年)6月24日、3代真柱中山善衛死去。
中山みきは バチをあてます。 確実にバチをあてます。 絶対に罰を当てます。
一般的な回答でくくります。
「では国家にはどんなバチが当たったか」 心通り 支配のための戦争をおこし敗戦しました。大地震でした。
「では天理教団にはどんなバチが当たったか」 心通り、戦争協力するような悪人諸井系に誘導されて、黒衣装。
「では今バチが当たりそうな場所、時間、行為関係者とはどんなことを言うのか」 おやざまのお嫌い全てです。
人類全体にお飛びます。
「親神にとっては世界中は皆我が子、一列を一人も余さず救けたいのや。」と仰せになりながら、
コレラで16万人の命を奪わせ、戦争、敗戦で多くの人の命を奪わせ、原爆で大勢の人の命を奪わせる、これらが
神の摂理、天罰であるなら、神様こそ、一番怖い存在なのではないでしょうか?
もうちょっと加減して頂けないものでしょうか・・・・神様。
心通りの守護とは、ネガティブな意味では心通りの返しでもある訳ですから、それによって悪因縁を果たしているのだから、神への感謝の心を深めて、たんのうしてください。
長いスパンで思案している親神様からすれば、恐竜が絶滅しても、生まれ変わりの成人の途中ですし、進化の途中には、あって仕方ないことです。
しかし心の自由をもち、意識と感性が成人して、「人間」となってなお、高山と谷底に支配被支配があっては
「陽気ゆさん」は開始されません。
その頃の明治政府は、欧米の支配システムを研究しぬいて、「情報による支配」にすでに着手していました。
戦争に国民を駆り立てたメディア「朝日新聞」が誕生したのも、その頃です。
金融資本主義の導入と天皇教思想統一という、明治政府の支配のシステムを承知していたのが「坂本龍馬」であり、「維新志士」や「坂本龍馬」は、ヒロイズムの象徴であり、歴史的背景事情は教えない社会科の教育は今も続いています。
今政府によって軍国主義が復活されようとしているというような、日本共産党的プロパガンダも「情報操作」。
しかし、もう中山みきは、高山の横暴は許さずバチを当てます。
法治国家は「呪術」を認めていませんから、「呪詛」「魔術」、予言し疫病を流行させるという非科学は犯罪にならないという、神を信じないかわりに悪魔も信じない時代ですから、天災という方法で、止めてしまう。
コレラで16万人死んだという事実はあっても、もしあの時コレラ発生しなかったら、日本は大陸支配にもっともっと早期に着手し、何十万という戦死者・戦争犠牲者をだしたでしょう。
予言行為のあった明治7年から明治14、15、16、コレラの流行は、戦争に深く関係があります。
靖国神社で大量死の祀り場所は用意したが、コレラの流行で軍事行為に出るには10年遅れた。
1894年日清戦争の時は240,616人が動員され、うち174,017人 (72.3%) が国外に出征した。、主に国外で運搬に従事する民間人の軍夫[* 44]10万人以上(153,974人という数字もある)の非戦闘員も動員した。
日清戦争の戦没者者数は20159人とされるが、このとき海外派兵で病気が持ち帰られ伝染病が流行した。
最も犠牲者を出したコレラは、1895年3月に発生して気温の上昇する7月にピークとなり、秋口まで流行した[。
出征部隊の凱旋によって国内でコレラが大流行したこともあり]、その後、似島(広島)・彦島(下関)・桜島(大阪)の3ヶ所での検疫が徹底された(なお日本のコレラ死亡者数は、1894年314人、1895年40,241人、1896年908人と推移し、とりわけ’95年の死亡者数は日清戦争の戦没者数を大幅に上回った。
明治12年は稲尾某が「4、5日でバチを当ててみよ」とみきを侮った5年後で、コレラが大流行した。
その時、明治政府はコレラ対策を法律化した。
明治12年6月27日 コレラ予防法定める。
明治12年、明治政府は予防体制の整備を急ぎ、同年「虎列刺(コレラ)病予防仮規則」を、1880(明治13)年
には「伝染病予防規則」を定め、統一的かつ恒常的な感染症予防対策が初めて行われることとなった。
これらの対策により、コレラの流行は、明治中期以降、落ち着きを見せた。
つまり、中山みきがバチを当てていなかったら、明治政府は侵略戦争でコレラが持ち帰られた時、何百万の死者を生んだ可能性すらあるのだ。
なんで「親心」わからないのか。 問いたい。
1874年 明治 7年 77才 「大和神社の節」「山村御殿」問答 の
5年後
1879年 明治12年6月 おふでさき第十四号は、「三日の内」の「世界の予言」
「 (バチ・火水風退く)を疑っているが しかと現す。という宣言。
009 けふまでわどんなはなしもたん/\と いろ/\といてきたるなれども
010 なにゆうもひがらこくけんきたらんで なにもみゑたる事わないので
011 それゆへになにを月日がゆうたとて みなうたごふてゆいけすばかり
012 月日にハ大一これがさんねんな なんでもこれをしかとあらわす
013 いまゝでハどんな事をばゆうたとて すぐにみゑたる事わなけれど
014 このたびわ三かのうちにたん/\と せかいのはなしなにをきくやら
1874年 明治 7年 77才 「大和神社の節」「山村御殿」問答 の 5×4
20年後で
1879年 明治 12年 月日にハ大一これがさんねんな なんでもこれをしかとあらわす の善悪現れる15日の理
15年後
1894年 日清戦争
三日のうちは 1894年から1896年
日本のコレラ死亡者数は、1894年314人、1895年40,241人、1896年908人。
「大和神社の節」において、高山に理を知らせる役を果たせなかった、松尾市兵衛と仲田義三郎にもバチはちゃんと当たっているが、
もし日本国内に疫病の予防体制が出来ていなかったら 数百万の死者を生んだであろう。コレラの大流行。
未然に防いでくださった弥勒菩薩をであり、国民を疾病対策無く戦地に送り、まず埋葬場所靖国を用意した高山、維新政府を、日本が国際社会にデビュー出来るきっかけの戦争で勝利したとほめたたえるなら、
あなたにバチが当たる。
原典の予言と実現ですが、まず おふでさき、おさしづの文を、天理の刻限さんの戦争に関わりある「おさしづ」から引用します。
http://www.geocities.jp/tenri_kokugen/kokugen/04.htm明治27年7月26日 朝
日清間事件に付朝鮮国へ人夫五百人本部より出す願
「さあ/\尋ねる事情、さあどういう事始まる。どういう事聞くとも分からん。やれ怖わや恐ろしや、分からん。何度の諭してある。事情はふでさきに写してある。今の間にも見えると伝えて、どうでも是非々々残念を現れにゃならん。ならん中の道から新しい道が見せ掛ける。──(中略)──一つの心一つ治める。今一時に道は、怖わき恐ろしい道を通らねばならん。未だ柔んわりと諭する。それより人夫一つの理を以て一つ防ごう一つ抑えよう、大概もう世上の処、要らざる事やなあ、一つには道のため果たしてみよう、聞いたる道が出来てきた。大概の理は諭したる。これまでうか/\聞いてはならん。幾日日柄月柄田の修理しまい次第と言うてある。五月五日より始まると言うて、今見えるというも何年以来に伝えてある。多く話伝えて居る。……」
[注]
「事情はふでさきに写してある」というお言葉は、「田の修理しまい次第」「五月五日より始まる」という、見えん先からの預言としてしるされている「おふでさき」と「おさしづ」が照応していることを示されています。すなわち、その「おふでさき」とは、
このたびハどのよな事もしんぢつを 十ー15
ゆうてきかしてたすけいそぐで
このひがらいつころなるとゆうならば 十ー16
たあのしゆりをしまいしだいに
それからハなにかめづらしみちになる 十ー17
つとめのにんぢうみなよりてくる
いまのみちなんのみちやとをもている 四ー1
なにかわからんみちであれども
このさきハをふくハんみちがみへてある 四ー2
もふあこにあるこゝいきたなり
このひがらいつの事やとをもている 四ー3
五月五日にたしかでゝくる
このように、現実の事情に対して神意がどこにあるかを啓示されたのが「おさしづ」であり、見えん先から知らされた刻限の到来とともに「おふでさき」が必ず現れてくることを啓示されているのです。
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天理教 基本教理 天理教教典 から引用します。
基本。:2014/02/16(日) 14:24:21.92
・・・
> 『幾日日柄月柄楽しう理了い次第と言うてある。』
これは、おふでさき十号のおうたを直接的に示しています。
このひがらいつころなるとゆうならば
たあのしゆりをしまいしだいに 十号16
そして、「ひがら」とは、おふでさき四号にしらされてありました。
このひがらいつの事やとをもている
五月五日にたしかでてくる 四号3
> 『五月五日より始まると言うて、今見えるというも何年以来に伝えてある。』
この、五月五日よりというものが、おふでさき四号3、に知らされたものであり、それが、日清間の事情であると言う事をしめしたものです。
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1869年 明治2年に「15日」の数理の予言があります。「高山に火と水ば見えてある、もあります。
40 高山に火と水とがみへてある たれがめへにもこれがみへんか
41 たん/\といかなはなしもといてある たしかな事がみゑてあるから
42 しやハせをよきよふにとてじうぶんに みについてくるこれをたのしめ
43 なにもかもごふよくつくしそのゆへハ 神のりいふくみへてくるぞや
44 だん/\と十五日よりみゑかける 善とあくとハみなあらハれる
15日より見えかかるは、1884年です。
1884年(明治17年、 清仏戦争勃発)で朝鮮から駐留清軍の半数が帰還した。朝鮮政府内で劣勢に立たされていた金玉均など急進開化派は、日本公使竹添進一郎の支援を利用し、12月4日にクーデターを決行したが、6日袁世凱率いる駐留清軍の軍事介入により、クーデターが失敗し、王宮と日本公使館などで 日清両軍が衝突して 双方に死者が出た。
日本政府の悪が資金援助してクーデターを起こさせ、日清の対立が見えかけた。
ここでもお筆先の予言は的中です。
疑い深い人間のために、明治2年から五分(5年)明治7年、五分(5年)明治12年と予言しておいての、「天災」「高山に火と水」である、確かに高弟たちはお筆先を読めなかった。予言を信じなかった。つまりみき婆さんを同じ人間だと思った。
だが脈は18、みき姉さんをなめちゃいけない。狂いなく的中させながら、たすけの道を必ず用意する、人間のおや。
お筆先を読めば、読んで歴史年表見たらだれでもわかる、予言と実現を、読めないのは「黒衣」であるからだ。
匿名です2016年7月15日 7:43 AM さん。
> 基本様 >基本様は何を信じておられるのですか?
水道水を「水道の水」「飲用水」と信じての当たり前の信じるは、ガソリンスタンドで「自動車用ガソリン」と信じて給油する信じると同じで、勝ちを与える中山みきを悪魔と信じるのは当たり前の信じるです。
そんな信仰してたら死ぬよと予言して本当に死んだら、それは事実であって、信じる対象ではありません。
お諭しして治るより、警告しておいて病になるという、それを信じています。
基本様
詳しく研究されてるのですね。知らないことだらけです。
でも天理は文献は非常に大切ですが、文献からだけでは読み解けないと思います。神殿や教祖殿や祖霊殿に来られてください。
おや様が病気をもたらすのではないと思います。おや様は病気から人々を救おうとされていると思います。
私はおや様を信じます。
親神様の意思に添います。
匿名です様
「神殿に来られてください」という
言いまわしがむずむずします。
あなたの所有する神殿なのでしょうか。
「天理教本部に来てお供えして下さい」と、
肚の中で言っているのでしょうか。
本当に、親神様、教祖を信じきっているならば、
他人のコメントに惑わされず、
コメント欄で見当違いの布教をせず、
ご自身の信心している教えの真理を、
ご自身のために追求しては如何でしょうか。
それが本来の信仰ではないでしょうか。
転向実施中様
アドバイスを受け取ります。
心の中でお供えうんぬんと思っているわけではないです。
匿名です さん。
お尋ねします。あなたは月々のお供えはいくら位していますか?
所属の会長から「お供えをしなさい」と言われたことはありますか?
炊事や詰所の「ひのきしん」や当番をしたことがありますか?
あなたは仕事をしていますか?
「仕事を休んで参拝しなさい」と言われたことがありますか?
古い教会長様
お供えは毎月定期的にしてないです。自分に余裕がある時や必要なおりにしていました。しかしサイトを見て考え方が変わりました。
ひのきしんは頼まれた時に行く形です。
言い訳になりますが、うちは母が徹底した無神論者で母の機嫌を見て動かないといけないのです。
だからおさづけも苦労していただきましたし、おさづけを頂くまで数十年近くかかっています。
仕事はパートですが、しています。
仕事を休んで参拝しなさいとは言われてないです。
私は十代の子供の頃は、天理教会へお供えの実行者でしたから、母親の病気のつど財布はたかせて運んでいました。
運べば治るからです。
父親が事故にあったしときの慰謝料全額一円の手も付けずお供えさせています。
お供え信仰は絶対にご守護ありますから。
しかし、おやさまはこう言われています。「まことの者に食べさせたら増える、埃の者に食べさせたら減る」と。
当時の私の教会は「まことの者」がなさっていて、お供えすれば「食べさせれば」増えますから、助かるが普通でした。
しかし、だんだんに誠の者中心から世代交代し、理の親信仰を説くようになり、特に埃の塊の甲賀大教会長に従う「埃の者」になったと、判断できたので、ピタリとやめることにしました。
甲賀が神殿を火災で失った前には、もうお供えはゼロです。絶対しないとネットにも書いておきました。
したら埃ですから、したら徳がへります、健康も減ります、寿命も減ります、幸せ減ります。
基本様
>甲賀が神殿を火災で失った
よく天理教教会は火事が起こりますが、やはり、神様のお手入れなのでしょうか。
基本様の言われるおふでさき予言などは、数字のことなどいくらでも都合のいいように合わせられるのではないか、と思ったりもして、失礼ではありますが、半信半疑といったところですが(怖いですし)、甲賀大教会という教会が埃の塊で不徳を積んでて、火事で神殿を失ったのなら、それはまさしく神様の天罰としか言えないですね。
匿名ですさん。
>お供えは毎月定期的にしてないです。自分に余裕がある時や必要なおりにしていました。
>ひのきしんは頼まれた時に行く形です。
>仕事を休んで参拝しなさいとは言われてないです。
当たり前のことですが、いいですね。一般常識のある、普通の会長さんですから。
ところが、当たり前でなく、一般常識のない会長もおられるのですよ。
余裕が無くても、お供えをしなさい。常に教会のひのきしんに来なさい。仕事は休んででも参拝しなさいと仕込まれます。
部内教会とか教会子弟に対する態度や言葉は、もっと厳しい口調になります。
生活や人権なども脅かせられます。
そういう、変だな。オカシイな。という意見がここに寄せられているのです。
だから意見として聞いて下さい。
古い教会長様
分かりました。
ここにきて皆さんの御苦労を読ませていただきましたし、また読ませていただきます。
またしゃしゃり出てしまっててすみません。
古い教会長2016年8月11日 10:37 AMさん
単純に言いますが、神にお供えすると思ってお供えしちゃったら、勝ちです。
人にお供えしていると思ってお供えしたら負けです。
私の父親は小中学校を休ませて天理教の行事に行かせ、常に天理教の行事に出席させました。
馬鹿ででたらめな教会長のいう事をはいはいと聞くという、醍醐味がある天理教は実は「ほながた」です。
そういう横暴の人に神の返しがすぐ出る、あるいは絶対に出る、不幸をきちんと起こしてあげるには、はいはいです。
それも積極的なハイハイです。
間違いなく出ます。それが天理の親神です。
試されたらどうですか、私なら、きちんと返しが出るように、通ります。
基本様。
>神にお供えすると思ってお供えしちゃったら、勝ちです。
人にお供えしていると思ってお供えしたら負けです。
実は、そうしています。実際、額は減らしていますが、上級以外では散財しています。
>そういう横暴の人に神の返しがすぐ出る、あるいは絶対に出る、不幸をきちんと起こしてあげるには、はいはいです。
それも積極的なハイハイです。
間違いなく出ます。それが天理の親神です。
わかりました。試してみます。
通常は3日ででます。深刻なかえしは1年、或いは3年が普通です。
「ふじ災難」という言葉がります、おやさまはふじは願うなと言われています。「不幸を起こせ」と願ってはいけません。
「神様のお好きなように」と願うのです。パンパンと柏手は2回。これでOKです。
絶対にこちらが腹を立てたらダメです。返しがほしいなら、腹は立てないで優しくする。→ 返しはより厳しく出ます。
基本様。
何か、無意識にやっていたように思います。
不安になったり、腹を立てたりしては駄目ですね。
ニコニコ・ウキウキと楽しみます。
確かに現れています。
基本様
>馬鹿ででたらめな教会長のいう事をはいはいと聞くという、醍醐味がある天理教は実は「ほながた」です。
>そういう横暴の人に神の返しがすぐ出る、あるいは絶対に出る、不幸をきちんと起こしてあげるには、はいはいで>>す。それも積極的なハイハイです。間違いなく出ます。それが天理の親神です。
>通常は3日ででます。深刻なかえしは1年、或いは3年が普通です。
>「ふじ災難」という言葉がります、おやさまはふじは願うなと言われています。「不幸を起こせ」と願ってはいけません。
大勢の善男善女が、天理教教団に130年お供えを上げ続け、又心から本部、上層部を信じ切ってきたと思いますが、ご本部には神様の返しは何も無いようですが。基本様の論理でいけば、もう、とうに本部も大教会あたりも消滅していなければおかしい筈ですが、今だ内情はどうあれ、続いております。どういうわけなのでしょうか?
匿名 様。2016年8月12日 1:49 PM
>大勢の善男善女が、天理教教団に130年お供えを上げ続け、又心から本部、上層部を信じ切ってきたと思いますが、ご本部には神様の返しは何も無いようですが。
本部といっても、一括りにはできません。(問題意識を持った信仰者もおられます)
(本部の人)個人的にはいっぱい神様の返しがある人もあるように思います。
天理教的には教勢は落ち込み、お供えは減り、教会事情は増え、問題会長が増えています。
一人ひとりが問題意識を持ち、自分で思考して教団の教理に巻き込まれたり取り込まれたりしないように強くなることが必要です。
古い教会長様の仰ることもわかりますが、神様は教会の許可願いを出す時、一貫して反対されておられました。「一時は許しおく」、と言われたかもしれないが、神意に逆らって立ち上げられて出来上がった教団や本部、教会が今だ存在すること自体が、道理に合わないことである、と思いますが、神様は放っておかれるおつもりなのでしょうか。教祖の教えに忠実であろう、とする本部の方もおられるとしても、そもそもピラミッドの頂点という本部の有り方は神意に添わない、間違ったものではないのでしょうか。内部の個人個人がどうあれ、本部というもの自体、又、(全ての教会が、とは言いませんが)、教会というもの自体、存在してはならない、と思うのです。
神様はどのように思召しておられるのでしょう。今まで、本部や教会を盲目的に信じていた信者達に、自分で目を覚まして、教団や教会から自立せよ、と促しておられるのかもしれませんが・・・。
匿名 様。
>神様はどのように思召しておられるのでしょう。今まで、本部や教会を盲目的に信じていた信者達に、自分で目を覚まして、教団や教会から自立せよ、と促しておられるのかもしれませんが・・・。
そうかも知れません。もう、神様はお手上げ状態かも知れませんね。教祖も25年も寿命を縮められました。これも神の思惑通りに行かなかったからでしょう。
どうも、神はオールマイティではないようです。
天理教も外圧で一度潰れるかも知れません。地球も人類も4度目の出直しがあるかも知れません。
人類の驕りが原因ですね。
教祖は教会設立をあくまでも反対されました。(一時の許しはしたけれども)人間思案で無理やり作った教会施設に親神がわざわざ来て、鎮座されるはずがありません。17000か所の教会のお社は当初から今に至るまで、「空っぽ」なのではないのでしょうか?親の意にそわない分からず屋の子供たち(本部幹部等)に残念立腹、だからこそ焦っても叫んでも、衰退、消滅の道に突き進んでいるのは自然の理なのでしょうね。
一列兄弟の教理があるにも関わらず、ピラミッド型の組織を解体しようともしない幹部。矛盾に気付いているにもかかわらず、神意から目を背けて的外れな方向に暴走し続けている。縦の伝導をいくら叫んでも、教会子弟達もバ〇ではありませんからそれくらいの矛盾はいろはの「い」の字で気が付きます。少なからず「あほらしくてやってられない。」が全国教会後継者の合言葉になっているようです。後継拒否は当たり前です。
心配は無用です。順調に衰退していっています。10年先を見ていましょう。そして20年先は確実です。また将来、あの大亮君では誰も付いていかないでしょう。
本部という元凶が消滅し、全国の何代にも亘った天理教犠牲者子孫はこうして、時間と伴に救われて行くのです。時間は(神は)我々犠牲者の味方についています。
またしゃしゃりでさせてください。
教祖殿から受ける波動のようなものを、所属教会の神殿でも感じました。
強力な波動を感じました。
それをお伝えしたかったです。
そう感じるのは、匿名です様ご自身の身体的特徴からと思われます。幻聴、幻覚を見る人は多少なりとも脳神経系のトラブル(失礼をお許しください)を持っておられる場合が多いのです。
周囲はその独特の神秘性に驚き、神の存在を信じる方向に持っていかれるのですが、体調に変調をきたすと見えたり、聞こえたりするのです。軽度の場合、自覚がない場合がほとんどです。社会生活はほとんど普通に出来ます。しかし、若干の違和感を周囲に感じさせるのも事実です。そう思ってご自身に向き合って見られたらと思います。
匿名E様
小動物が災害を予知して逃げる話があります。彼らは人間にはない感性を持っていると思います。
人間の脳内でおこる変化だけで語りつくせない何かは存在します。
科学や医学も常に新しい常識が生み出されていきます。現在の知識常識も変わり続けていっています。
私はそれらの先に天理があると考えています。
匿名E様はそういった体験を全くお持ちではないのですか?
説明できない事象がおこったことはないですか?
匿名E様がおっしゃる性格分類については自分なりに考えたりもしていますので。
お筆先に知らされている世界が、この世であり、
天理教団もその世界の一員で、匿名ですさんも基本もその世界にいる。
「教祖殿から受ける波動のようなものを、所属教会の神殿でも感じました。」のも月日で、
対して脳神経のトラブルという「高山の科学」の説明も、月日の教えてきたことです。
小動物の感性も人間には本来はあるべき感性であり、身の内は網の貸しもの借り物です。
真柱を人間として見たらただの人間で、しかしそういう見方そのものがお筆先にはありません
そういう見方は間違いだよとお筆先は示しています。
教会本部については人間組織ですから、ただの高山ですが、おやさまのお住まいとしては元の地場、不滅です。
ピラミッド型の組織を解体しようとしない幹部は、悪のひな型、悪の見本ですから、「心入れ替える自由」は許されていません。
仮に山名系や河原町系や甲賀系の大教会長がピラミッドを解体するような善行したら、善行させたら、また上座についてしまいかねない。
本当に悪の限りを尽くした大教会組織幹部は、悪を自白させられてバチをしっかり受けるべきで、善人に生まれ変わりたくても、神様がそうさせない。
天理とは厳しいもので、悪をすることしか許されていない「いんねんの通りかえし」というバチからは真柱とて、逃げられない天理です。
悪をすることしか許されていない天理教幹部のおごりや贅沢を見て、お気の毒にとわからないのは、奴らは幸福だと見rているからです。
悪因縁の通りかえしの牢獄に居たら、心は真っ暗闇の地獄です。
生活のために信じてもいない教理を口真似してといて、金を出させるために嘘の教理を説いて、そういう生活をやめる自由はない彼らは、悲惨そのものです。
人一人も助けられないで、「先生と呼ばせ」「大教会長様」と呼ばせ、哀れなものです。
今一度確認しますが、
大教会長には一列兄弟をこの世の広めることは「親神」はさせません。それが天理です。
仮に人を惨殺した殺人鬼が急に心入れ替えて「人を助けます、助け合います」を言い出しても、神は許さない。
通りかえして罪を償ったとしても、神は許さないのが天理の教えです。
しんの理で大震災が起きていることは43の数理ですが、意味は、教団幹部がしんの理を信じないで、真柱のいう事聞かなかった証拠として、
この世の乱れに地震が発生したという事であり、天理教団幹部では「理を吹く」は「立腹」に悪に変化です。
「ここでつとめをしていれど胸の分かりた者はない」 これに尽きています。
地場の理は、国々ところどころの地場であり、そこなら「胸のわかったものばかり」は可能です。
まず自分のいる国の地場から、陽気つとめを開始したらどうでしょう。
それは43の理にて行う事です。
基本様、
教会に生まれ育ち、上級や、教会長、家族、信者のおかしな言動と教理に得心がいかず、自由になりたくて、教会を飛び出し、自力で生きていても、過去に高山のような考え方をしていた時期がある私にも、親神はバチを当てるのですか。
ほこりをかぶりたくないから、身内にも会う気がしないのは、高慢ですか。悪因縁で病気になりますか。
心通りの守護の理の中に、因果応報の理も含まれているだろうケド、不健康や不幸はバチじゃなくて教育的配慮でもあり、悪因縁を果たして戴いてるのだから、ありがたいと陽気に捉えるのが、基本なんじゃないのか。
転向実施中2016年8月13日 9:37 PMさんへ
神様は「心通りに返す」天理です。それと「何にても知らぬ間はそのまま」」です。
自由になりたくて教会を飛び出したという事は「埃(教会)は避けて通れ」との教えの実行そのものであって、その心は善ですから 天候実施中さんには転向したことで褒美はあってもバチは当たりません。
ただご自分の中に中山みきを親神と信じ切っていない、教団高山と同じ「みきの人間扱い」がある場合は危険です。
とっとと天理教には無関係の人になることです。信じ切れていないのですから。
匿名2016年8月14日 3:57 AMさんへ
「不健康や不幸はバチじゃなくて教育的配慮であり、悪因縁を果たして頂いている」との事ですが、この考え方は教団信仰的因縁論で、こんな考えはお筆先にありません。教団の悪の洗脳が解けていません。
不健康という身上は、心得が違うという意味での「神の道教え、手引」であってバチそのものです。
教育的配慮ではなく「教育=道教え」そのもので、貸し物借り物の理で、直ちに悟ってすぐ不健康は直るものです。
教団幹部はすぐに「治せない」「治るようなお諭しが出来ない」から、「配慮・親心」的に曖昧に意味深に語りますが、ごまかしです。
「ひとことまでで皆たすけるで」がお筆先の教えです。
お筆先の「ひとことまでで皆たすける」を信じられたら、大教会長はそれして見せなきゃならない。
信じられたら困るから「配慮」とか言葉でだましています。
「心通りの守護の理の中に因果応報の理も含まれる」、これも間違いです。本末転倒です。
「因果応報の理=天理」の中に、これが本で、「心通りの守護の理がある。
詳しく言えば「心通りとは知らぬ間はそのまま」 ⇔「心通りとは知ったら出る=親神のはたらき
この違いです。
因果応報の天理の世界だから、これまでにも悪因には悪の結果となっていたが、それでは親神の教えが分からないから、立教した。
→ 立教して50年ひながたをこしらえた。 → 扉を開いて心通りの世界(神の支配する世界)になった。
しかし知らぬ間は、状態は立教以前ですから、そのままであり、罰は当たりません。
天理を知れば、親神はバチを当てます。だって知ってるのに背くからです。
匿名2016年8月14日 3:57 AMさんへ さらに詳しくです
「不健康や不幸はバチじゃなくて教育的配慮であり、悪因縁を果たして頂いている」と、あなたは教団信仰的に知っている。「なににても知らん間ではない」
お筆先の自白の教理でいえば、あなたは教団幹部の説いてることを信じていると自白している。
これは自白させられているわけです。
以下のことは基本的には良くあることですが、実例を申し上げますと、
天理教教会信者の重度のリュウマチで身動き不自由な身体傷害者が激痛から救急車で病院に運ばれた。
無神論の熱心な共産党支持者が基本に電話してきて、あんた天理教なんだからどうにかしろという。
そこで病院に駆けつけて身上者さんにあった。
甲賀系の教会に子供の事情で助けられて信者になったという。
そこで基本は、年間のお供えの金額と、たすけて欲しい願望の範囲を聞いて、「お供えをやめたらたすかる」と諭した。
そうしたら、「娘がいろいろ助けてもらうから毎月△万はお供えしておきたい」というので、それまで月額と別に年間に〇十万以上していたお供えを一切しないと精神定めて頂いて、痛みは治まって、以後そういう痛みは一切なくなった。
こんな例があります。
お供えやめたらなぜ助かるのか。 お供えというのも欲の行為の場合がある。
受け取る側は、大教会神殿丸焼きの甲賀さんの部下。お気の毒にお供えすればするほど不幸の元になる。
しかし因果応報でその泥水にお金出さないと病気になる部下教会の会長も東京あたりにはいて不幸の種をせっせとまく。そして出したから治ったとかいう。
騙されないことです。
他にも実例はありますが、お供えやめないと実は、因果関係は切れません。
不健康も不幸も、治りません。悪の共犯ですから。
地場は独り立ちですから、教会信者からのお供えなどなくても、成り立つ天理で、
お供えは、原典には説かれていません。
尽くすというのはひながたでは貧乏せい です。
基本様、匿名様
ありがとうございます。
はい。埃はよけて通ります。
埃を見て、自分の埃をつむのもやめたいからです。
「中山みき」=「親神」ではなく、「親様」で、親神とは、ランクが多少異なると今は考えています。
中学2年の時、軽い火傷をした際に、父に
「15歳からは本人の因縁だ、皮膚はつなぎだ、お前はつなぎの心がない、我を突っ張るから破れるのだ、つなぎの心を持て〜」と、
「病のさとし」コピペ説教された時や、己の感情で教理で責められた時は傷つきました。
でも、その後、私も同じように、深谷本や柳井本で得た情報で、自分への戒めにしたり、ひとを心の中で責めたりしていました(高山)
その父が危篤状態の時、兄が、お願い勤めだと、病院から家の教会に連れて行かれて、親が死ぬ寸前にこんなことで本気で助かると思っているのかと、まさに疑い心で仕方なく、無心おつとめして、病院に行くと案の定、
人事不省、そのまま息を引き取りました。
私の誠のなさで父は死に至ったのだと思います。
数年後独立しても教会には繋がっていました。教会にあった書籍を読みあさり、そして、ネットが発達して、このサイトやスレ(基本様も勿論)、宗教本(芹沢、井出、関根)も読んだりすると、だんだん、
教会=身内の顔を見るのもいやになり、もう天涯孤独でいいと思うようになりました。
今は健康です。自分の知りたかったことがわかってきて、もっと知りたいと、とても幸せを感じます。
でも、病気になって、それ見たことかと、
実家に世話になる時が来るのか、
そうならないために、自己反省して、誠実に生きて、自分を大事に守りたいと思います。
今までは、天に貯金したつもりでしてきましたが、
お金に困っていない教会に、
多額のお供えする信者を褒める教会に、
自分が助かりたい欲のお供えはしません。
「今は健康です」 それが全てを物語っています。
「病気になってそれ見たことかと、実家の世話になるとき」 来ません。その逆ならあり得ます。
実家が助けてくれとね。
「天に貯金したつもり出来ました」。良かったですね。天は必ず「利子を付けて返してくれます」「五つ 利い吹くです。」
教理の問題に少し誤解がありますので、語りますが無視して下さって結構です。
「身上は15歳からは子供本人の心」 これは正しいですが、そうでない場合もあります。
「軽いやけど」は「手入れの身の知らせ」であって、「本人の因縁」ではありません。
「重度のやけど」でひどい、又、跡が残る場合には因縁事情でと思案します。
父上の諭しは、素人の一言では助けられない人の、間違ったお諭しで、諭されて人まで理の誤解に導いていて、バチが当たる所業です。
軽いやけどの場合は、知らせですから、「左善右悪」で悟ります。
火傷 は「火の傷」ですから、 火 二柱目面足命様の理です。お嫌いな埃はおしみです。
「熱を入れるな」いうのが右に来た知らせ右悪、熱を入れすぎという知らせで、
左善なら熱を入れろです。
二柱目は右親指で母親の理ですから、母親を思え、思うなの善悪の場合もあります。
身上諭しの本は粉飾も多いので、基本的な教理と誤解しないことです。
例えばその頃お母さんと摩擦していたとします。母親のいう事聞けなら右手火傷、聞くななら左手です。
熱は摩擦で、対立のあるべきをしらせたと悟る場合もあります。
あと、おやさまは親神です。
父親さんの自白で、
「火傷はつなぎ」とは、「母親の理」を金銭にすり替えた人生が自白されています。
「お前はつなぎの心がない」は、その自白になっています。
母親の味方をするあなたを嫌っていたと思われます。
基本様
右の膝のヤケドなので、
「母の言うことを聞け」ですね。
しかし、当時すでに母は出直していました。
父は母のことを、
「(根性が)胃がん(歪がん)で死んだ」と、
家族の前で冗談にして話していました。
私は、よろづよのおつとめの度に、
解釈は違いますが、
"いかなものでも(亡くした妻を)恋しなる"
父にはその気持ちはないのだろうかと考えながら父とおつとめをしていました。
でも、私は、
生前も死後も母の味方ではありませんでした。
幼い私から見ても母が愚かだったからです。
私は情の薄い、冷酷な人間です。
おやさまは、親神ですね、力が同じということですね。わかりました。
ありがとうございました。
お母様の事、天理教社会のストレスの被害者であって、本人の心得違いとは思わないことです。
大変な人生をすごされて、どんなにかお子様の事心配されていたことでしょう。
胃は雲読命様です。
癌は国狭土様です。
五分五分でない教会生活、金銭の事情で苦しまれて、ストレスからの恨みの心も仕方ないことです。
教会を出て転向できるのもお母様のおかげですね。
「いがんでいるから、胃がんだ」というお父様の自白は、お父様に自分の心が映っているお諭しです。
いがむほど苦しめたお方にバチが当たりますよう、基本的には、おやさまにお願いをいたします。
どうぞ心通りに、お返しください。
南無天理王命 南無天理王命
基本様
おっしゃるとおりです。
お金があるのに、父は母に食費を渡さず、
母は金銭で物凄く苦しんでいました。
私は今日生まれて初めてお母さん、ごめんなさいと、
心から詫びました。
今の平穏な私の暮しは、母が護ってくれているおかげだったとやっと気付きました。
おやさまは父に食道癌のバチを当てました。
痛みで苦しんでいる最中でも、金銭に囚われ、
私に逆ギレしたかと思えば、
山名系大教会の上級に心定めで○十万円の
おさづけをしてもらって、出直しました。
人を攻撃するのは、その人に対してではなく、
自白なんですね。
心通り現れ出た時、じっくり考えないと、
必ず返しがあるから、天理は恐ろしいです。
うらみ、はらだちのほこりを積んでるように思います。
良いと思ってることが悪いとも思うし、何よりつながず切る心遣いをしているように思います。
天理を知ろうと知ろうまいとやまいはいただくように思います。
天理はやまいの根を切るための解法を教えてくれると思っています。
因縁が代を変えて見せられることについて考えざるをえません。
こういうことを言わずにすますことも出来る。けれど、ほっておけないから言いました。
私はこういうことを言えるような立派な人間ではないけれど、くいためられるならくいとめたいと思い、言わせていただきました。
くいためられる ではなく、くいとめられるです。
助かっていただきたいという思いからお伝えしています。
匿名です さん。
>天理を知ろうと知ろうまいとやまいはいただくように思います。
天理はやまいの根を切るための解法を教えてくれると思っています。
そうだと思います。そういう純粋な教理を伝えてくれる会長ばかりだったらいいのですが、深い信仰心も無いまま長男ということだけで会長になり、大きな利権と立場を手に入れ、それを利用している一部の人たちが問題なのです。
古い教会長様
神様の奇蹟をいただいて命をつないでいただいたと私が考えている方がおられます。
その方は灯火となると考えています。
それから昨日往復14時間程軽自動車で移動して、馬力がなくて高速なのに時速60キロ以上でない時があったり、50しか出ない時がありました。ある程度馬力がないと天理と自教会の往復というのか難しいかと思いました。ベンツを送る話が出てきましたが、遠くから天理までの往復を頻回にすることを考えたらそういう選択などが出ることもあるのかもしれないと、効かなくなってしまったクーラーに思いを馳せながら考えました。
教会長がベンツなどを乗り回すから、世間から批判を受けるんです。信者からそういう声が上がったら、丁寧に辞退するような会長さんなら、見込みがあります。「自分が欲しがったんじゃない、信者がしてくれるんだ。」とあなた任せに乗っかって当然のように受け取る教会長のいかに多いことか。ベンツなどは不要。大教会長はじめ、黒塗り外車などに乗らず、実用的な車に乗ってにおいがけに走り回っていただきたい。そういう心がけが教祖の雛形ではないのか。下から持ち上げられても一列兄弟の教理を説くことなく自分は特別と勘違いする。大教会長などは自分は縦一列のトップと自負し、「無理な願い」を押し付けてるではないか。高山から谷底にものを言う。教祖に恥の上塗りは止めていただきたい。
匿名です2016年8月15日 9:45 AM さん
「天理を知ろうと知ろうまいとやまいはいただくように思います。」
「天理はやまいの根を切るための解法を教えてくれると思っています。」
あなたのこの考えは、天理の教えではありません。
匿名ですさんは病というものがその病気をしている本人だけの事情とみるから本人が天理を知っていようと知っていまいとでると、そういう思案から、狭くご思案しています。
天理を知らなくても病気になるというのは、それは病人本人が知らない場合もありますが、病人さんがいて心痛める方がいる場合には、その心痛める方に天理の心覚えがある。
身に覚えがある、神様はだまし打ちしないので、実は因果の身に覚えがあるものです。
「天理は病の根を切るための解法も教える。」、それは部分であり、本筋は、「病にて神意を教える」、です。
おやさまをまことの親神と信じたら、解法などは知らなくても、病はたすけて頂ける。
おやさまの思いの事を神意というのですが、病が治ることより、神意を悟ることが大切で、悟れたらたすかるという基本があります。
「因縁が代を変えて見せられることについて考えざるをえません。」
この言葉も天理の誤解があります。
「因縁が代を変えて見せられる」との、その見せるお方は誰でしょう、疑問です。 おやさまで無いことは明らかです。
「因縁を代を変えて見せる」とはおやさまの教えではありません。
おやさまは因縁を切ってあげたいから、因縁を見せることがありますが、代を変えて見せるようなまどろっこしいことはしません。
おやさまを親神様と信じ、病の元は心からという天理は、おやさまが基準と理解を改めてください。
おやさまが基準でない病のたすかり方は、嘘であり、大きな埃です。
かりに転向実施中さんのお母さんお父さんの病が、代々の癌の因縁だというような愚かしい思案から、
癌は恨み腹立ちだと、そう悟って、諭して、「うらみ、はらだちのほこりを積んでるように思います」と、述べたとしたら、
大間違いです。
そういう浅はかな思案は、天理を原典からきちんと学ばない、根のない思案で、親神様はお喜びになりません。
転向実施中のお父さんもお母さんも根は子供可愛いからであり、子供の幸せを願うから、「根のないうそ教理」を信じ込んで、それが病の真の原因です。
「天理を知ろうと知ろうまいとやまいはいただくように思います。」
病を頂く人は本人、病を差し上げる人は、親神天理王命、中山みき。
癌になったから悪い、死んだから埃、そうでしょうか。
親神様から病を頂いて、有り難いと、心の悟りがつくことが信心であり、病は、病ではないと悟ることが天理です。
基本様
私にはおや様がやまいをもたらすと思えないのです。
おや様からいただいたと自分で思っているいくつかのメッセージは「おかえりよう帰ってきたな。」とか、事象の解説ほか、他の人に関することですが、やまいに関して至る先(大丈夫であること)などでした。
教祖は親神様の意思を示してくださっているように思います。あるいは元気づけたりされるように思います。
私は天理に関する理解は不充分です。基本様の文章を読み返します。
今日は仕事があり、この後は長い間返信できなくなります。
お筆先に、教えがあります。
4号です。
025 いかなるのやまいとゆうてないけれど みにさわりつく神のよふむき
026 よふむきもなにの事やら一寸しれん 神のをもわくやま/\の事
神に用向きがあって身に障りをつける、山々の思惑からの病気です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
4号では、 4.42 日々に 身に障りつく 得心せ 心違いを 神が知らする とのお筆先があります。
身の障りは「心違いを」神が知らせる。 そういう場合にはおや様が病をもたらします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
基本的な布教師(赤衣の悪魔の伝道者)の役割はお筆先4号に、病と関連して示されています。
107 これからハせかいぢううのむねのうち 上下ともにわけてみせるで
108 これをみよせかいもうちもへたてない むねのうちよりそふぢするぞや
109 このそふぢむつかし事であるけれど やまいとゆうわないとゆてをく
110 どのよふないたみなやみもでけものや ねつもくだりもみなほこりやで
111 このよふを初てからになにもかも 上ゑをしへた事ハあるまい
112 このたびハなにかよろづを上たるゑ しらしてをいた事であるなら
113 それからハなかにハしやんするもあろ みなよりよふてはなししたなら
114 そのなかにしんぢつ心たのもしい をもてしやんをするものもある
115 このみちを上ゑとふりた事ならば 神のぢうよふすぐにあらわす
116 このよふを初た神のぢうよふを みせたる事ハさらにないので
117 なにゝてもしらんあいだハそのまゝや 神のぢうよふしらしたるなら
118 これきいてみな一れつわしやんせよ なにかよろつハ心しだいや
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
つまり、上に教えておけば、病が出るということで、天災の教理の基本です。
人間の肉体上の病気の事として、病気は掃除であると知らされています。
4.108 これを見よ 世界も内も 隔てない 胸の内より 掃除するぞや
4.109 この掃除 難しことで あるけれど 病いと云うは ないと云うておく
4.110 どのような 痛み悩みも でけものや 熱も下りも 皆な埃やで
しかし人間は悪い心だとバチが当たるというお釈迦様の教えも信じなくなって、悪い心だと天国に行けないというイエス様の教えも信じないありさまですから、
誰かが仏弟子となり誰かが神の使徒となり、誰かがみき姉さんの手先となって、天理を告げねばならない。
教えなければならない。
4.116 この世うを 始めた神の 自由を 見せたることは 更にないので
4.117 何にても 知らん間は そのままや 神の自由よう 知らしたるなら
4.118 これ聞いて 皆な一列は 思案せよ 何かよろづは 心次第や
神は知らしておいて、して見せる。そういう手法であり、知らせるとは「予言」そして、実現するから神という事です。
おやさまは予言者であり100発百中の予言者であり、みき姉さんです。
お筆先4号
4.82 段々と ないことばかりを 云うておいて それ出たならば これがまことや
4.105 段々と 見えんことをば 云いをいて 先で見えたら これが神やで
4.106 いかほどに 見えたることを 云うたとて 先で見えねば 分かりあるまい
つまり予言してあるよというお歌の、この105、106の前に言われたのは、3です。
明治7年四月、おやさまは、おふでさき4号3に予言しました。
このひがらいつのことやとをもている
五月五日にたしかでてくる 四号三
それよりもをかけはぢまるこれをみよ
よるひるしれんよふになるぞや 四号四
と、日柄を予言したお歌がありました。
この、日柄というお言葉ですが本席お指図に、「日柄」登場します。
明治27年7月26日朝、お指図。「日清間事件に付き朝鮮国へ人夫五百人本部より出す願」がありまして、。
それは日清戦争の時のお指図ですが、本席は、こう言いました。
「幾日日柄月柄田の修理しまい次第と言うてある。」と、
「五月五日より始まると言うて、今見えるというも何年以来に伝えてある。」と。 きちんとあります。
(続きます)
(続きです)
天理教 基本教理 天理教教典に書いたことがあります。
5月5日、何があったのか。
明治27年5月5日、一発の銃弾が日本人に向けて発射されたと、(記憶・当時の朝日新聞)で、記事を見ました。
これはプロパガンダ・情報戦略で、国民は一瞬に清国を打てに、変わりました。
情報戦略の仕掛けこそ、戦争の開始であるという親神の判別を理解しました。
003 このひがらいつの事やとをもている 五月五日にたしかでゝくる
004 それよりもをかけはぢまるこれをみよ よるひるしれんよふになるぞや
「おかげ始まる」というのは、「情報戦略の開始」を指しているという事の具体的理解は、ここで悟ることが出来ました。
18歳の私、天理教教典の教理勉強会を主催したが、 「古き/\事に、年限から諭してある」
これが説明出来ないでは、教理勉強の主催者の資格なし・・・
応法レトリックの怖さは、中途半端な知識では、がんじがらめに自縄自縛の罠に落ちます。
日清戦争のお指図には「日柄月柄」とあります。
「日柄」 五月五日の事は、具体的にはプロパガンダの発動の日であった。
では「月柄」とは何かです。
1874年の予言は 月については、6月が出てきています。
005 たん/\と六月になる事ならば しよこまむりをするとをもへよ
006 それからハたん/\ふしんせきこんで なにかいそがし事になるなり
6月とは 一日は一年の理で、一年は12月の理で、6×12=72年の理 基本の数理です。
おふでさき第四号は、明治7年4月ですから、1874年4月~を1年目と数えると、1945年~が、72年の理です。
おふでさき4号において、72年後には、しょこまもりする、証拠守りをすると予言していた親神。
1945年(昭和20年)10月26日、本来の天理の道の姿に戻る宣言を二代真柱・中山正善が行い、真座のかぐら、十二下りのてをどりを「復元」。証拠守りはきちんと復元されました。
そして、1946年新春は、1874年4月からを1年目と数えると、生まれだしの10月10日の理付近になりますが、
天理教資料集成部は「復元」を発行しています。
「復元」は「書庫・守り」で「 しよこまむり」についてもきちんと、予言通りに実現しています。
お筆先の予言をなした中山みき、それを解読で来ていて一切もひっそに、ひっそひっそに、しかし旬刻限の到来とともに、予言を実行した大天才、わが師正善真柱、どうか皆さま、「復元」という書庫を、ご活用ください。
序(『復元』創刊号)
すべてが元に復る旬が来ました。
新日本、新発足、新建設、新時代、新入等と、あらゆる面に新の字が時代の寵児然と巾を利かす様になりましたが、その新は必ずしも木に竹を継いだ様に現れ来るものとは思はれません。
必ず生れ出る旬があり、生れるに至る努力があつて始めて現れるものであります。
根のない新生命は決して出現せないものであります。
革新の数年を経て、戦争の終結と共に復元の時代となりました。
すべては一新されて、革新以前の事々を思ひ返す様になりました。
一見恰も夏来ると共に不必要となつた冬仕度を、冬と共に、再び恋ひしたふて、探し求める様に、革新以前をあこがれる様にも見えますが、
去年の春は決して今年の春ではない如く、復元は決して革新以前に復する事を意味するのではありません。
蓋し復元と復旧とは決して同じ事を意味せないのであります。
以前の姿に復し、又懐旧の情に遊ぶのは決して復元ではありません。
あくまでも、元を極め、根源をたづねる所に復元の意義があり復元の活力があると信ずるのであります。
いかほどにみゑたる事をゆうたとて
もとをしらねばハかるめハなし 四
と教祖様もお教下されてゐますが、元は尋ねてもたづねても、尋ね尽きないものであり、
又探ぬれば探ねる程、新しい活力のわくものと信ずるのであります。復元こそ新天地、新文化の母であるとさへ云ひたいのであります。
昭和二十一年新春
中山正善識
1905 5月25日 は5 5 5X5 の刻限である。
38年後というのは、1943年5月26日以降である。
1943年(昭和18年)10月には 信者詰所は 戦時中の体制に協力のため
「詰所寮」と名称を改めていたが、日本海軍予科練の兵舎として徴用されている。
創価学会が昭和18年7月、牧口常三郎初代会長、戸田城聖理事長ら幹部21人、治安維持法、不敬罪で逮捕、投獄されているに比較してわかることだが、
天理教教団は教えを曲げての戦争協力をしてしまっていて、天理大学付属の天理参考館は1943年(昭和18年)海軍の接収により、天理教館へ移転し、朝鮮(資料参考)館は解体されている。翌年(昭和19年)には天理教館も海軍の接収となりという姿がある。
明治38年5月25日
昨日より本席御身上大変のぼせると仰せあり、御障り中本日朝増井りん教祖赤衣仕立て下されし事に付申し上げ下され、それよりだん/\御話ありて本部員残らず寄せと仰せあるにより、一同打ち揃い御話(御敷布団しかず御坐りでおさしづ)
三十八年後は、こんな席へ坐わりゃせん。
立腹、立腹、立腹、の555 である。政府の軍事行動に協力的な教団幹部に、「座布団になんか座ってられん」と、38年後の後を予言している。
革新教理の指導者は諸井敬徳、全国から選抜した講師にて、戦争協力を指導した諸井計徳は、敗戦後は「人間完成の道」というご都合教理を説いて、「赤心」⇔「赤裸になってお供えしろ」の山名の教理は、70年祭80年祭の「やかた普請」の理論支柱であった。
38年とはこういう数理である。
1 8歳の私、天理教教典の教理勉強会を主催したが、 「古き/\事に、年限から諭してある」
これが説明出来ないでは、教理勉強の主催者の資格なし・・・
明治38年8月30日お指図。「日露戦争に付、天理教会に於て出征軍人戦死者の子弟学資補助會組織致し度く願」もありまして、
それは日露戦争の時のお指図ですが、本席はこう言いました。
「これまでどんな事も言葉に述べた處が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた。」
「古き/\事に、年限から諭してある。この一つの心得は今日の事や。」と。
親神は「年限から諭してある」という。
明治38年8月30日お指図。「日露戦争に付、天理教会に於て出征軍人戦死者の子弟学資補助會組織致し度く願」もありまして、
それは日露戦争の時のお指図ですが、本席はこう言いました。
「これまでどんな事も言葉に述べた處が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた。」
「古き/\事に、年限から諭してある。この一つの心得は今日の事や。」と。
親神は「年限から諭してある」という。
本席お指図の数理38年はは、1905年5月の 38年後には天理教の詰所は軍の施設になっていた。⇒38年本席座布団から降りる。
では、1905年5月はいつからの38年後か、1867年(慶応3年7月) – ええじゃないかが始まるとありますから、1905年5月はその前となります。
1905年の38年前、慶応二年秋、教祖は、あしきはらひたすけたまへ てんりわうのみこと
と、つとめの歌と手振りとを教えられ、年が明けると慶応三年、教祖七十歳の年、正月から八月迄に、十二下りの歌を作られた。
月日のやしろと成られて三十年目の慶応三年新春である。 ↽ 本席が座布団から降りる。
38年の数理は、世界たすけるおつとめを、⇒38年後、赤衣ではなく黒衣のおつとめ⇒38年後、戦争協力教団
こうして、親神は「年限から諭してある」という理において38年があります。
38の数理はおふでさき第七号(明治8年2月)に理が知らされてあります。
<おふでさき第七号>
001 月日より三十八ねんいぜんにて あまくだりたる元のいんねん
002 月日よりそのいんねんがあるゆヘに なにかいさいをはなしたいから
003 上たるハそれをしらすになに事も せかいなみやとをもているなり
004 このところ元なるぢばの事ならば はぢまりだしをしらん事なし
005 上たるゑこのしんぢつをはや/\と しらしてやろと月日をもゑど
006 上たるハそれをしらすにめへ/\の わがみしやんをばかりをもをて
007 月日にハたん/\みへるみちすぢに こわきあふなきみちがあるので
008 月日よりそのみちはやくしらそふと をもてしんバいしているとこそ
009 にんけんのわが子をもうもをなぢ事 こわきあふなきみちをあんぢる
010 それしらすみな一れハめへ/\に みなうゝかりとくらしいるなり
天理王命出現より⇒38年 1875年、2月、おふでさき第八号は、明治8年5月
親神は、38年という数理を示して、委細を話したいと、告げられました。
1875年、5月、 「日々に月日残念山々と積もりてあるを晴らしたいから」 との理の責めは
お筆先八号です。
036 このところつとめばしよハにんけんを はじめだしたるところなるそや
037 にんけんをはじめたしたるこのをやハ そんめゑでいるこれがまことや
038 このはなしこれをまことにをもうもの どこのものでもさらにあるまい
存命のおや、私のみき姉さん。人間を始めだしたる赤衣の悪魔。666の弥勒菩薩。
誰でもわかる事なのに、承知できていない事こそ最大の残念であると、親神様は言われています。
058 かみなりもぢしんをふかぜ水つきも これわ月日のざねんりいふく
059 この事をいまゝでたれもしらんから このたび月日さきゑしらする
> 「かみなりも地震大風水つきも これは月日の残念立腹」
> 「この事を今まで誰も知らんから、このたび月日先へ知らする」
親神様は、地震も水つきも、先に知らせておくといわれました。
明治24年10月31日に、濃尾平野の大地震へのおさしづの中で、親神様は、 「やれ恐ろしい、やれ怖わい、やれ恐ろしい。これまでに話し、刻限事情にも諭したる。」
と、刻限事情として既に諭してあると、宣言されました。
38の数理は刻限事情です。
1891年の38年前は、1853年夫善兵衛出直し 家督秀司に、小寒大阪神名流しです。
( 1854年12月 初代真柱前生の梶本亀蔵出産。 38年後、濃尾平野震災)
1885年1月 公認運動の中心に初代真柱が入る。
38年後⇒1923年関東大震災。 M7.9の本震から3分後にM7.2、5分後にM7.3の「三つ子地震」。、阪神淡路大震災と同規模のM7の地震が合計6回も発生したことが判明している。
1908年11月 初代真柱が管長の公務開始。
38年後⇒1946年12月21日 南海道地震(マグニチュード8.1)全半壊家屋3万5105戸、焼失家屋2598戸
1915年11月 二代真柱が天理教の真柱の公務開始。
38年後⇒ 九州地方風水害 死者・行方不明 – 1,761名 住家の全・半壊・流出 – 207,542戸住家の床上・下浸水 – 103,533戸
1967年11月 三代真柱が天理教の真柱に。
38年後⇒ 豪雪、平成17年(2005年)12月~平成18年(2006年)3月死者152名、負傷者2,145名住家全壊18棟、半壊28棟、一部損壊4,667棟、床上浸水12棟、床下浸水101棟など
(38年後、スマトラ沖地震。 )
おやさまは存命、地場は人間始めた元の地場、当たり前のことを疑う38年の残念、怖いです、恐ろしいです。
五日の理
43年前が地震の数理である。その五日後に38年前に、善悪のどっちなのかで、天災を病気、病死、不幸を呼び寄せる。
この基本構造が分かること大切です。
1848(嘉永元)年、みき御年51才の時、「お針子をとれ」という親神様の啓示が為され、みきは裁縫の師匠をすることとなった。これと相前後して、長男秀司は、村の子供たちを集めて、読み書きを教える寺子屋を開いたとも伝えられている。家業の開始である。が、谷底に落ちていけない夫。
5年後1853年、2月22日(西3月31日)、善兵衛出直(66才)。こういう5つ理を吹くがあります。
明治34年5月25日に、御本席は、本部員を残らず寄せて、一同が打ち揃いしますと、その時には、お敷布団しかずにお座りのままでおさしづをしました。
> 元冶元年勤め場所の普請。 > 伊蔵様に、普請についてのお言葉があってから、38年以前は、。 > 1827年8月から1828年8月頃である。
> それは、黒ほうその預かり子の為に、中山みきが、わが子の命を差し上げますと助けを願われている。 > その時、迎え取られた子が、生まれ変わっての小寒様である。
> いわば小寒様のルーツ、それから、38年、勤め場所の普請。 > それから38年、38年後の予言。教祖のお守のおさしづ。 > それから38年、教団の戦争協力、革新態勢。 おやさまを神と思わぬ偽天理教の悪。
このように、史実が整理できます。
おやさまというしん、地場の理というしん、しんばしらというしん。
心のしんをしんと思わず、信者を狂わせて仕舞うような信仰高山の埃は、38、三重の八。
八は、高慢。
おやさまが親神だとしんの理を信じない、説けない会長さんと役員さんの説くお供え信仰。バチが当たらないと舐めている彼らに、バチが怖くないアマチュアの彼らに、理を諭してあげたら、知らしたら出る、
教えてあげましょう。予言者みきは存命の悪魔だと。
> 元冶元年勤め場所の普請。
> 伊蔵様に、普請についてのお言葉があってから、38年以前は、。
> 1827年8月から1828年8月頃である。
> それは、黒ほうその預かり子の為に、中山みきが、わが子の命を差し上げますと助けを願われている。
> その時、迎え取られた子が、生まれ変わっての小寒様である。
> いわば小寒様のルーツ、それから、38年、勤め場所の普請。
> それから38年、38年後の予言。教祖のお守のおさしづ。
> それから38年、教団の戦争協力、革新態勢。
このように、史実が整理されています。
しんを狂わせて仕舞うような信仰の原因は、38、三重の八。
八は、高慢。
匿名ですさん。
基本様の文章を読み返します。とのことですが、ここに整理しましたので、
数理38と5と43で、よく確かめて、あとはお筆先をお読みください。
おやさまは、基本には悪魔ですが皆様にはお優しいから、怖がらず、真に親神と信じて、病の根を切って頂くよう、
五つが「利を吹き」、38が、「身につく十分八方に広がる」数理であることを信じて、
みんな五分五分に仲良く暮らしてください。
わたし、基本様ではありません。
天理の基本、天理教の基本です。
基本様
実はダブルワークに突入していてちゃんとじっくり読めません。
借金を背負いながら働く人にまきこまれて、しばらく只働きだという・・。
昨日神殿で種みたいなのを踏みました。それを心の灯りと頑張ります。
予科連のことは毎日考えています。
詳しく教えていただきありがとうございます。
全文読みましたが、じっくり時間をみつけて読みます。
天理教社会学研究所 Gott ist tot. 天理教公式機関ではありません 殿
『 震災は、人間の心遣いが悪いことが原因である。
私は、この考えに対して控えめに「それは違うんじゃねーのか」と思う。控えめにという表現にしたのは、やはり私もピッタリとくる解法を持たないからである。しかし、そうであっても「やはり震災は天罰じゃない。天罰であってはならない」と思う。』
この意見の非科学性に驚いて、投稿を開始しました基本です。
貴殿は、こう言います。
『 「やはり震災は天罰じゃない。天罰であってはならない」と思う。100歩譲って天罰であったとしても、私はそれを認めたくはない。なぜなら、それは信仰心がないからでも、いんねんを理解していないからでもなく、やはり被災者を思ったときに私はそういった発言に対して口をつぐんでしまうからである。それを人間思案といわれれば、私はそれで構わないのではないかと思う。』
『被災者を思ったとき』とは『被害者を思ったとき』と同じ意味であり、 神が⇒被害者を罰した という非科学的なイメージだけの主張がそこにはあります。
戦争を開始した高山が谷底に与えた被害と、戦争を抑止するために神が与えた天災の被害を、科学的に数値化した痕跡はどこにもない貴殿の主張は、実は高山の代弁であり、天理教団を巧妙に擁護する悪臭があります。
貴殿は天理教団関係者ではなく別な教団の意を受けての「疑似科学研究団体名での行動をしているという前提で、書いた方が良いでしょうね。
貴殿はこういっています。
『 ただ神の真意は分からない。災害は神の怒りであるということだけである。』
おふでさきを読んだ体験が無い、自白です。
天理教社会学研究所 Gott ist tot. 天理教公式機関ではありません 殿
貴殿の主張は天理教の原典を、まるで読んでいない、例えば創価学会とかの関係者の匂いに満ちています。
真柱の代弁者は、天理教団にはいません。貴殿への回答など、世界唯一の天理教真柱派の基本しか つまり、私、 私しかできる人間はいません。
創価学会は天理教批判で教勢を拡大した過去がありますから、天理教の凋落を期待しているのでしょうか
貴殿は「かえし」というお筆先の常套句すら知らない。語るに落ちている。
『 生も死も神からの恵みであるはずなのであり、神が立腹している理由を特別なメッセージとして声高らかに宣言することは、それこそ高山の傲慢ではなかろうか。神は災害を起こすだろう。しかしそれは罰ではない。ひょっとしたら災害を通して我々人間の災害の捕らえ方、振舞い方を見越しているのかもしれない。ただ神の真意は分からない。災害は神の怒りであるということだけである。 』
お筆先を批判的にせよ読むというなら、読んだ体験があればこんな文章にはならない。
せめてお筆先、お指図を一通り読んおく位の、学問的行動がとれなかったか、疑問である。
天理教社会学研究所 Gott ist tot. 天理教公式機関ではありません。殿
貴殿は
『天理教の財政的変遷 -天理教本部に集まるお供え金は2013年は126億円だが、10年ごとに約50億円ずつ減少している-』にも、 天理教を学んででいない素人であることを自白している。引用しよう。
『 私は天理教人や若者の大部分がこうのような切迫した状況をどのように感じているのか常に疑問を感じている。』
『 天理教本部や大教会は「阿保になれ」「素直になれ」「親の思いに寄り添え」といった相変わらず天理教の消滅を早めるだけにしか作用しない思考停止装置を発動している。』
天理教を学問的に学んだら、「貧乏になれ」は天理教祖の教えであると誰でもわかり、だんだん貧乏になっていく天理教団は、教えを実践しているのであるとわかる。
貴殿の言う、
『 このままでは天理教が無くなる日は必ずくるであろう。 』
これは、根拠なきオカルトである。呪詛である。
『 このまま落ちきっていけば、水でも吹き上がる」と、それが中山みきのオカルトである。
貴殿は、天理教団消滅を祈り、貴殿の側の教団への勧誘の一助としている、自白である。
天理教社会学研究所 Gott ist tot. 天理教公式機関ではありません。殿
貴殿は天理教の素人であり、別宗教の宗教高山のために「天災を予言する 天理教」を 畏怖し、社会学的手法で天理教団の消滅を願っている。
貴殿の思考回路の自白がここにあります。紹介しましょう。
『ポスト130年祭の天理教はやはり衰退を止めることができなさそう』
『この中田善亮氏は、表統領の前は布教部長という役職についていたようだ。布教部長?そんな冗談があるのか。
布教部長として天理教の衰退を止められなかった人間が、なぜ表統領として登用されるのか、通常の社会人であれば理解できない。』
『営業の成果をあげられなかった営業部長が、社長に就くようなものではないか。この時点で天理教は、本気で天理教を立て直す気がないことは明白である。』
『何よりこの人事発表に際する知り合いの天理教人のメールの反応は、驚きでも、絶望でもなく「ふーん、くらいですね。大して関心がないですよ」と聞いたのがそれを物語っている。』
130の数理をしらない貴殿に、お知らせする。正月30日という数理である。
21 このよふハりいでせめたるせかいなり なにかよろづを歌のりでせめ
22 せめるとててざしするでハないほどに くちでもゆハんふでさきのせめ
23 なにもかもちがハん事ハよけれども ちがいあるなら歌でしらする
24 しらしたらあらハれでるハきのどくや いかなやまいも心からとて
25 やまいとてせかいなみでハないほどに 神のりいふくいまぞあらハす
26 いまゝでも神のゆう事きかんから ぜひなくをもてあらハしたなり
27 こらほどの神のざんねんでてるから いしやもくすりもこれハかなハん
28 これハかりひとなみやとハをもうなよ なんてもこれハ歌でせめきる
29 このたびハやしきのそふじすきやかに したゝてみせるこれをみてくれ
30 そふじさいすきやかしたる事ならハ しりてはなしてはなしするなり
31 これまでのざんねんなるハなにの事 あしのちんばが一のさんねん
32 このあしハやまいとゆうているけれど やまいでハない神のりいふく
33 りいふくも一寸の事でハないほどに つもりかさなりゆへの事なり
34 りいふくもなにゆへなるどゆうならハ あくじがのかんゆへの事なり
35 このあくじすきやかのけん事にてハ ふしんのしやまになるとこそしれ
36 このあくじなんぼしぶといものやどて 神がせめきりのけてみせるで
37 このあくじすきやかのけた事ならバ あしのちんばもすきやかとなる
38 あしさいかすきやかなをりしたならバ あとハふしんのもよふハかりを
39 一寸はなし正月三十日とひをきりて をくるも神の心からとて
40 そバなものなに事するとをもへども さきなる事をしらんゆへなり
41 そのひきてみへたるならバそばなもの 神のゆう事なに
天理教社会学研究所 Gott ist tot. 天理教公式機関ではありません。殿
先に引用したのは、お筆先1号という。中山みきの直筆になる文書である。
そこに正月三十日、130の数理が知らされ、予言されていることをお知らせし、理をしらせます。
FC2ザ・掲示板おやさま から引用します。
『 [76] 基本。 2006/12/15 10:18 ・・・・正月三十日は、130と書き表せます。・・
そこで、130を、十三年と理解しますと、「正月三十日と日を切りて」は、どんな出来事からの十三年かといいますと、・・・登場人物の史実で、数理130は13年にて整理しますと、 内縁関係の開始。 1857年 秀司とおちえ 音次郎さん宿しこみ。
130は、13年後。 1869年 「正月三十日と日を切りて」おちえの死。
130は、13年後。 1881年 秀司の死。
このおちえの思想が宗教家業的であり教団を財産視するあなたの思想に一致していて掃除しました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1869年 「正月三十日と日を切りて」 、正月30日の予言は1998年を予言しています。
最初の年を1と数えるからで、1年後の数え方ではありません。
正月三十日とは130年の数理で、130年は、1998年の出来事です。
神の子の問題ということになっています。 1998年ラニーニャ現象 開始です。
今年の夏は暑くなる? ラニーニャ現象とは から引用します。
『1998年から2000年まで続いたラニーニャ現象ではアメリカとカナダで寒冷な冬となり、天然ガス価格を上昇させたという。また海水の流れの強さや方向が変わり、分岐点がはっきりしなくなることで魚などの海の生き物にも影響が出るとされている。
気象学の専門家は「エルニーニョが話題になる一方で、ラニーニャには十分な注目が集まっていない」と指摘。科学誌「Nature」は「破壊的な影響を及ぼすラニーニャ現象の発生頻度が高まる可能性を真剣に検討しなければならない」という内容の記事を掲載した。「エルニーニョ」「ラニーニャ」ともスペイン語で「神の子」を意味するそうだ。』
足のちんばとは4の理で、資産形成事情に残念があった、⇒ 神の返し 13年は おちえの死。 ⇒13年 秀司の死。
130年は、異常気象、神の子 ラニーニャ現象の開始。 太陽活動との関連は基本教理に、多々述べてあります。
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天理教の真柱に必要なのは、営業的手腕ではありません。 おだやかなる心です。
貴殿は最近『天理教の里親政策がとても重要な懸念を孕んでいるわけ』を書いていて、批判しています。
『 (天理教が行き場所のない方を教会で世話するのは一見美談に聞こえますが、福祉制度の整った現代では私は否定的にも見ています。』
『つまり天理教が、そういった方を抱え込むことで、結果的に何年にも渡りその方の社会的自立を遠ざけている現象を実際に私が数例見ているからです。』
『天理教の教会に何年もいる方はその蓋然性が高いです。もちろんその方たちは給与は払われておりませんので三大義務である就労、納税はできていません。)』
まず福祉制度は整っていません。東京都の託児の問題も老人介護も施設不足であって、社会のニーズはあります。次に、教会は制度では、給料を出すシステムになっている、。。
里親をするとどうなるか、天理教を勉強したらわかりますが、預かり子は病気になります。ひな形と言います。
そして、天理教教会長がふるいにかけられる。真実が無いとその事情で潰れます。
誠真実があれば、おやさまのような一心不乱の願いで、我が子を差し上げても、救済します、出来ます。
「ひながたとおれ」が、教祖の教えであり、本物でない天理教会は崩壊します。
本物だけ残ります。
うそはいらない。そういう天理教祖が実は、親神で、存命でいて、嘘つきには天罰です。
天理教社会学研究所 Gott ist tot. 天理教公式機関ではありません。殿
貴殿は最近『天理教の里親政策がとても重要な懸念を孕んでいるわけ』を書いていて、批判しています。
『 なにより奈良県天理市の天理教本部の建築群を見ていただければわかりますように、本部をはじめ全国各地には立派な教会が建てられています。その莫大なお金はもちろん信者から集めた浄財です。新興宗教では当たり前ですが、集めた人と金の量が「信仰者としての成熟度」という側面が天理教にもあります。信者から集めた金を上級教会に上納し、最終的には天理市の教会本部に集約されるという仕組みです。』
『末端教会(分教会)→中級教会(大教会)→本部(天理市)となります。結果的に、人と金を集める天理教人は「優秀な信仰者」であり、集められない天理教人は「優秀ではない信仰者」という暗黙知があります。』
『それらのお金は建築物に使われるのはもちろんのこと、天理教のトップである中山家には年に数億の収入となり、幹部たちの数千万の収入となると推定できます(公開されている納税長者番付や過去の幹部の脱税事件などから容易に推測できます)。』
『しかし一方で団体職員として本部、大教会等で専従で働く者は月に2,3万円から数万円という支給でしかありません。』
先ず誤解から解いておきましょう。創価学会などには優秀な集金システムがあって、信者と本部の間で、いうなら末端教会や中間教会で抜かれることはありません、出来ません。天理教では信者の金の8割以上は中間で抜かれています。125億円が教会本部なら、中間に1000億集金され消費されている。大教会のベンツという具体例で、貴殿お分かりのはずです。
天理教団は創価学会より膨大な土地を持っているのは、実質的な集金力の差です。
創価学会は着服をおそれ、信者から丸ごと本部にして、そのために一本化しているから、宗教法人許可は東京都でしか取っていない、取れていない。天理教は、部下教会も中間教会も、大教会も独立した宗教法人であって、包括天理教だから、資産も集金額も、隠される仕組みであり、恐竜型創価学会は氷河期によわい。
天理教は教会個々ばらばらに「里親」「介護」何でもできるし、しない自由があるという事です。
天理教社会学研究所 Gott ist tot. 天理教公式機関ではありません。殿
貴殿は最近『天理教の里親政策がとても重要な懸念を孕んでいるわけ』を書いていて、批判しています。
これは、貴殿が親神に自白させられたと、基本的にはそうなります。
『里親登録をして子供を預かると養育里親の場合、手当7,2000円/月に養育費、自治体助成などえお含めると月に約15万円ほどのお金が教会に入ります。さらに里子が複数であれば額は上がります。これらのお金はある意味、里親への報酬という側面もあるでしょう。私はこれを逐一明細をとって収支報告すべきというように縛ることは決して養育の面や里親制度の発展という点で避けなければいけないと思います。』
創価学会のように教団組織が1個しかないと、明細をとって収支報告すべきというように縛ることは、簡単にできて、簡単に、宗教団体がどれだけ設けたか見えてしまう。だから貴殿は反対する。
それやられたら、実体丸見えで、里親制度の発展的利用ができなくなる。 つまり天理教のために心配しているのではなく、ご自分が所属している教団のために心配しているという自覚です。
『天理教本部が過去に作成した天理教里親活動のVTRを引用します。里子たちが天理教に染まっていく様子が手にとるようにわかります。天理教にとっての里親活動のゴールというのは、子供の社会的自立ではなく、天理教を信仰させることにあるとも言えるかもしれません。』
この貴殿の心配は的を射ています。預かり子に誠真実突くしたら、尽くせたら、神を見せたら信者になります。
神を見せられなければ、偽物は崩壊します。が、基本教理を身に着けた幼木が用木が、神の道具が、里子に神を見せるのは簡単なことです。南無天理王命と唱えること、
中山みき、私のみき姉さん、里子を預かって、小寒子を神にささげた。 そのことを学びもしない、天理教社会学が、嘘のタイトルである以上、基本的には必ず 神の返しがあると、理を知らせます。
基本様
深く深く天理教の教理を学ばれてこられたんですね。
様々な教えを披露して下さってありがとうございます。
ところで、無知な自分には、所々よくわからない、理解できないところもありましたので、
幾つか質問させて下さい。
よろしくお願い致します。
>貴殿の主張は天理教の原典を、まるで読んでいない、例えば創価学会とかの
関係者の匂いに満ちています。
天理教の信者ではない管理人さんが、あなた様よりも天理教の原典を、
まるで読んでいないという意見には頷けますが、
「創価学会とかの関係者の匂いに満ちています」ということの、
具体的な根拠を教えて下さい。
>貴殿は、天理教団消滅を祈り、貴殿の側の教団への勧誘の一助としている、自白である。
「自白である」とおっしゃられるまでの自信に充ちた表現ですが、
「貴殿の側の教団への勧誘の一助としている」というのは前文から想像するに、
創価学会への勧誘ということですよね。
今迄、社会学研究所さんのブログを読ませて頂いてきて、私自身一度も創価学会へ勧誘されている
というようなことを感じたことはなかったのですが、カインさんが、創価学会員だという根拠と共に、
具体的に創価学会への勧誘を行っていると思われる箇所をわかり易く教えて下さい。
>神を見せられなければ、偽物は崩壊します。が、基本教理を身に着けた幼木が用木が、
神の道具が、里子に神を見せるのは簡単なことです。南無天理王命と唱えること、
「基本教理を身に着けた幼木が用木が、神の道具が、里子に神を見せるのは
簡単なことです。」とのことですが、基本教理を身に着けた神の道具である基本様
が、社会学研究所の読者の皆さんに神を見せるのも簡単なことですね。
神の力ならば時間も空間も越えた奇跡を行えますね。
どのようなものか自分達にも見せて頂けますでしょうか。
>中山みき、私のみき姉さん、里子を預かって、小寒子を神にささげた。
そのことを学びもしない、天理教社会学が、嘘のタイトルである以上、基本的には必ず
神の返しがあると、理を知らせます。
「中山みき、私のみき姉さん、里子を預かって、小寒子を神にささげた。
そのことを学びもしない」ことが、イコール「天理教社会学」が嘘のタイトルであるということ
とは結び付かないのではないでしょうか?
カインさんは、文面からも常識ある一般人とお見受けします。
このブログの趣旨を理解している読者の方々は、必ずしも基本さんと同意見だとは
思えないのですが。
>天理教社会学が、嘘のタイトルである以上、基本的には必ず
神の返しがあると、理を知らせます。
基本様は、なぜそのように上から目線で、カインさんを創価学会だとレッテルを貼ったり、
神の返しがあるなどと、脅したりするのですか?
基本様の心の中に怒りのようなものがあるとしたら、一体何に対してなのでしょうか?
一読者B様 議論のお相手ありがとうございます。
先ず、答えやすいことからです。
> 神の返しがあるなどと、脅したりするのですか?
これは予言であって、脅しではありません。Bさんが予言が当たると思っていたら脅しになりますが、「こんにゃくで刺すよ」はギャグです。予言とが当たると思っていないあなたには、当たらぬ予言はこんにゃくです。
脅されたふりはしないでください、怖くないんだから。Bさんには。
> 基本様は、なぜそのように上から目線で、カインさんを創価学会だとレッテルを貼ったり、
これは、↑今と同じで、基本はBさんからは妄想語りに見えていますから、上からには該当しません。
レッテル貼りは、カインさんが違うよで、あら間違えてごめんで、すみます。「貼っている」のではなく、なでている。です。
> 基本様の心の中に怒りのようなものがあるとしたら、一体何に対してなのでしょうか?
怒りは、ありませんよ。カインさんは可愛いし、Bさんも可愛い。
怒りのようなものもありません。 あるとしたら、憐憫ですね。 お気の毒に、です。
「基本教理を身に着けた幼木が用木が、神の道具が、里子に神を見せるのは
簡単なことです。」とのことですが、基本教理を身に着けた神の道具である基本様
が、社会学研究所の読者の皆さんに神を見せるのも簡単なことですね。
神の力ならば時間も空間も越えた奇跡を行えますね。
どのようなものか自分達にも見せて頂けますでしょうか。
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先ず天理の基本からお話ししないといけないようです。
天理というのは「時間と空間」に支配されます。
時間というのは「日」で「空間というのは「月」です。からね。
酸素が無ければ人間は死にます。高温のお湯には入れません。それが天理です。
天然自然の理というのが天理ですから。
奇跡が見たいというBさんの場合、「たすける」以外の場所では中山みきは奇跡はしません。
それを「たすけいちぢょ」とお筆先には書いてあります。
次に神というものは、もう見えているものです。
だから、箱の中から取り出して見せるものではない。そこにあり、今も守護している存在の意思を悟ることです。
比喩でいいますと同じ水でも、恋人のくれた水と憎んでいる相手のくれた水、その水の違いが感じ取れる、感性が無い人には、神を見せろと言われても、目を閉じている人に見せろと言われているようなものです。
この社会学研究所の読者の皆さんにも実は見える人がずいぶんいると思いますよ。見えてる人がね。
中山みきは初心者用に「あると言えばある、無いと言えばない。あると信じて願う誠に見えてくる利益がが神だ」と」教えています。
神にも意思があり人格があるわけで、信じてもくれない相手には何も特別なことはしません。
神を人格ある存在と認めて、敬意をもって願うのが普通で、お稲荷さんであれ、お地蔵さんであれ、頭を垂れて、拝するものです。
>貴殿は、天理教団消滅を祈り、貴殿の側の教団への勧誘の一助としている、自白である。
「自白である」とおっしゃられるまでの自信に充ちた表現ですが、
「貴殿の側の教団への勧誘の一助としている」というのは前文から想像するに、
創価学会への勧誘ということですよね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このことは、学会さんというよりは、日蓮正宗さんと思っています。
>貴殿の主張は天理教の原典を、まるで読んでいない、例えば創価学会とかの
関係者の匂いに満ちています。
天理教の信者ではない管理人さんが、あなた様よりも天理教の原典を、
まるで読んでいないという意見には頷けますが、
「創価学会とかの関係者の匂いに満ちています」ということの、
具体的な根拠を教えて下さい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
先ず天理教の問題点を、教団の問題点を指摘する視点です。
非常に良心的に批判している、が、奇跡やオカルトの要素が少ない。
宗教を社会活動のように考えて、肯定的でいて、天理教団の問題点を例示し、騙されている信者を助けようという意図がある。
論の組み立てが、わかりやすいという事です。
これまでに定説であった天理教祖人間論にいつぃているし、宗教は経営であるという視点にも立っている。
大本系やのような天啓の匂いが無い。そうなると学会系ということと思慮します。
他者の宗教に関心を持ち発言するのは、余程のものづきか暇人です。
自分が天理教にかかわって生きてきたとか言えば、生活の問題ですから批判もわかります。
タイトルがに「学」と入っている。
宗教に「学」を持ち込んだのは創価学会です。他にはありません。
これが基本的に、学会系の匂いと判断した根拠です。
日蓮正宗さんは、学会にかき回されて、「学」の効果を良く体験したと思います。だから「学」の汚染されたと思います。
学問として、哲学として日蓮を学ぶという事で、中山みきは、「道に学問いらん」ですから、両者には思考回路が一致できない。
天理教社会学研究所Gott ist tot. 天理教公式機関ではありません。
天理教の言っていることが理解できない怒り
先日雨が降る中、近所の道を駅に向かって歩いていた。すると、住宅街の狭い道の真ん中で一人の若い女性が傘を差して、産まれたばかりの乳飲み子を背負ってチラシを配っていた。私は数10メートル先から、「あれ?選挙も終わったのに何だろう」と思って、その女性に近づいた。すると「天理教でーす。よろしくお願いいたします」ということで、私は絶句したままチラシを受け取ってすれ違った。私が絶句したのはこの極寒の中、傘を差して乳飲み子を背負って布教する大学を出たばかりだろうかの若い女性の姿に驚いたからである。
もし彼女が私の知り合いであれば、「子供が風邪をひきますよ。やめなさい」と言うだろう。それほど状況としては痛々しいものがあった。天理教人は誰も彼女を止めないのだろうか。むしろ、苦労話やたんのう(≠修行)として美談になるのだろうか。
受け取ったチラシを電車を乗りながら読む。全文(文末の教会名と住所は省く)を以下に引用する。
——————————————-
「幸せのもとは」
人間にとっての悩みの多くは
夫婦、親子、兄弟姉妹のもつれ、
つまり家族に関するものです。
これが治れば、
幸せな社会になっていきます。
そのためには、まず、
この世界の元を知ること
人間は何のために誰によって造られたか・・・
人生の目的、創造主を知ること
人生の目的は陽気ぐらしであり、
創造主は親神様であります。
私たちは陽気ぐらしを目指して
努力しているのです。
その陽気ぐらしをするために
組み合わされたのが家族であります。
夫婦、親子、兄弟姉妹は
陽気ぐらしをするために
一番適したメンバーなのです。
そのことを自覚すると、
日々感謝して暮らせるのではないでしょうか。
家族におこる事情は、どんなことでも、
お互いが自分自身のこととして受け止めて、
話し合い、たすけあうことが大切
五本の指、どの指を噛んでも痛いように、
家族一人の痛みは、家族みんなの痛み
家族の一人に変わってもらいたいと思った時は、
自分自身を変えていくことが近道。
家族は一つにつながったもの
喜びも悲しみも家族で分かちあい、
生きている喜びが周りに伝わるよう、
その輪を世界中に広げていきたいものです。
願い通りの守護ではなく、
心通りの守護なのです。
心を変える為の信心であり、
自分が変われば全てが変わります。
思い切って教会を訪ねてみませんか?
どんな悩みも聞かせて頂きます。
天理教◯◯◯大教会
————————————-
やはり論理が飛躍して、何が言いたいのかよく分からない。日本語としての一文が長く、主語と目的語がごっちゃになっているため理解が難しい。天理教人との会話や神殿講話でよくある洗脳的特徴である。ましてや「世界の元」「創造主」「心通りの守護」など天理教的語用に親しみのない我々一般市民に通じると思っているのだろうか。それとも何が言いたいのかよく分からないことが宗教特有のレトリックであり、必要条件なのだろうか。宗教や神という輪郭が定まらないものだからこそ、畏敬の念を込めてシンプルに人間の言葉を丁寧に重ねる必要があるのではなかろうか(話を単純化した方がいいということではない)。
つくづく、天理教の布教活動はどこを目指しているのか分からなくなる。「天理王命」と書いた旗を先頭に一列になって歌をうたいながら行進する神名流しも、各家庭にピンポーンと天理教を勧める個別訪問も、駅前などで絶叫しながら話をする路傍講演も同様である。そこまで一般市民に人に避けられ嫌われてまですることに何の意味があるのだろうか。教祖の娘が浪速布教をして、民衆に好奇の目で見られたときと時代が違いすぎる。このような時代錯誤の勘違い布教がたんのう(≠修行)なのか。
教祖の雛形とは、ただ先人の真似をすればいいという軽いものだろうか。私には教義理解と経営戦略の点で今の天理教の布教論が理解できない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まずお分かりのように管理人は「は教義理解と経営戦略の点で今の天理教の布教論が理解できない。」との立場である。 協議理解⇔学の世界 経営戦略⇒学の世界 布教論⇒学の世界 これが管理人であり、
エピソードに登場するチラシ配りの若い女性 これが基本的な天理教徒というわけだ。 学はない感性の世界。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天理教人は誰も彼女を止めないのだろうか。むしろ、苦労話やたんのう(≠修行)として美談になるのだろうか。
↑↑ この思考は哲学的仏教徒である。
雨の中でチラシを配ると、おやさまが喜ぶ ← おぶってするとこの子の事もおやさまが喜ぶ
↑ この喜びが、天理教の基本。
この両者、分かり合えるはずはないが、ある瞬間にはわかるかもしれない、女性が」美しい笑顔であったらである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「世界の元」「創造主」「心通りの守護」など天理教的語用に親しみのない我々一般市民に通じると思っているのだろうか。
↑↑ そんなもの誰も通じると思ってやしない。
↓↓ こんな風に思っている
神様にお願いつとめしチラシだから受け取った人に幸がくる
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
宗教や神という輪郭が定まらないものだからこそ、畏敬の念を込めてシンプルに人間の言葉を丁寧に重ねる必要があるのではなかろうか
↓↑
においだから、そっとかけておきましょう
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天理教の布教活動はどこを目指しているのか分からなくなる。「天理王命」と書いた旗を先頭に一列になって歌をうたいながら行進する神名流しも、各家庭にピンポーンと天理教を勧める個別訪問も、駅前などで絶叫しながら話をする路傍講演も同様である。
↑↓
自分はまこと真実の心で、御神楽歌がうたえただろうか、おやさまに喜んでいただけたろうか
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このような時代錯誤の勘違い布教がたんのう(≠修行)なのか。
お答えします。 時代錯誤が楽しいのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Bさん。管理人さんが宗教的教養ある仏教系に方だという基本的論拠、わかりましたか。
管理人さんと チラシ配りの女性の、 「学」と 「阿呆」の 違い、分かりますよね。
おやさまと時間を共にし、おやさまと空間を共にできたら、そういう雰囲気だけの信心が基本という事で、悟りばかりの世界になります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
、私は極寒の雨が降る中、乳飲み子を背負った若い女性が必死で頑張っている姿を見て、これが天理教のいう陽気ぐらしの実態なのか戸惑う
管理人さんが私のところに来たら、そんな女性ばかり、教理聞いても答えられない、でも笑顔が素敵な女性ばかり。
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天理教教義の不安定さや偽善的信仰に憤りを覚えたことをここに記す。
↓↑
信仰を人間の力で哲学し啓示学上の存在としてとらえたい管理人さんには行き憤りはごもっとも。
でもそれは、偽善ではないのです。彼女の感性なのです。
信仰ということを中山みきは「信心」と言っていて、「信仰」という言い方はないと思います。
「信心」とは文字通り信じる心です。
「心をつくろう」とそれが信心の一歩で、「信」「不信」の間は埋めようがありません。
信は無限であり、「不信」はいつか信にたどり着きます。 おやさまの心次第です。
Bさん これでよろしいですか。
基本様
とても丁寧に詳しく回答をして頂き、どうもありがとうございました。
これから丁寧に読ませて頂きたいと思います。
管理人さんは、天災は天罰ではないと言い、身上さとしは賛成できないとの立場です。[学]の立場です。
中山みきは、お筆先で天災の知らせをし、同時に身に対する警告をしています。 6号です。
087 こらほどにをもてはじめたこのせかい 月日の心なんとざんねん
088 月日よりたん/\心つくしきり そのゆへなるのにんけんである
089 それしらす今のところハ高山ハ みなはびかりてまゝにしている
090 この月日大一これがさんねんな どんなかやしをするやしれんで
091 このせかい山ぐゑなそもかみなりも ぢしんをふかぜ月日りいふく
092 どのよふなたいしや高山ゆたんしな なんとき月日とんてゞるやら
093 一れつハみな/\わがみきをつけよ 月日ゑんりよわさらにないぞや
大社高山には、山崩れ、雷、地震、大風で、月日立腹だといい、そして一列には「わが身気を付けよ」と警告で、天災と身への返しは同じという事です。
115 このかやしたいしや高山とりはらい みな一れハしよちしていよ
116 このはなしなんとをもふてきいている てんび火のあめうみわつなみや
大社高山取り払いということですが、116の「天日火の雨、海は津波や」については、辻忠作という高弟が教祖に意味を質問して確認したら、「脳病のことや」との返事でした。
天日火の雨は太陽フレア^の活発化で、宇宙の話ですが、一列には、それは脳病の事です。電磁波の事です。
管理人さんの意見を確認して、基本を述べます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天理教にある「身上さとし」というのは到底賛成できるものではない。突然断言して申し訳ないが、間違いではない。
天理教では、有機体である個人の肉体は神様からの貸借物である。つまり、自分のものではない。自分のものは魂(こころ)だけである。
そのため、死ぬと貸借物は借り主の神様に返却するということになる。そして、魂は新しい有機体を貸借し生まれ変わるのである。だから、天理教では死を「出直し」と表現するのである。(出戻りではない)
外界とこころの境界である肉体は、こころの使い方を間違うことで不具合が生じる。それが病い=身上(天理教的用語)というものである。場合によっては肉体ではなく、環境クラッシュ=事情として表れる。しかし、これらの身上や事情は神様からのサインであり「お前の心の使用方法が誤りだから直せよ」ということである。
私たちが息をし、生活できるのための生体エネルギーは神様の御守護である。なので、こころの使い方を間違うと体か、周辺環境に不具合が生じるという理屈である。
もちろんこういった理路は宗教ではありえるだろうと思う。特に「バチが当たる」という言葉があるくらいだから日本では浸透しやすい理路である。しかし、「陽気暮らし」を標榜する天理教の神様は人間が神様の意に添わないと事情・身上を付与するというのは、あまりに醜い神様だろうとも私は常々思う。
私は天理教学者ではないので、このことに関して教義解釈は存じ上げない。しかし、中山みきが言ったことと後々人間が作ったのでは意味は大きく異なる。
中山みきがそういったなら、天理教という宗教価値はポストモダンな現社会において、求心力はない。
もちろん、私もそんな宗教を尊敬する習慣は持てない。人間が言ったなら、天理教の存在意義のためにも改善するべき課題であろう。
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↑↑ これが管理人の論である。
確認しておこう。、「陽気暮らし」を標榜すると述べているが、陽気暮らしは二代真柱の造語であって、教祖の言葉ではない。中山みきが言ったことは「天災」を 大災害は大社高山に、大病を一列の人間に と出すという予言である。
管理人は 『中山みきがそういったなら、天理教という宗教価値はポストモダンな現社会において、求心力はない。」との立場であるが、事実、はっきりと、中山みきが言ったことは、中山みき著作のお筆先には書いてある。
問題はその予言の的中率であるが、天災についてに予言は、43の数理、38の数理、555の数理、777の数理、など医学で薬と認定される治癒効果よりはもっと大きく、基本の知る限り、100発100中である。
中山みきの宗教価値は、オカルト能力にある。求心力は彼女自身である。
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管理人はこういう。↓↓
(身上さとし) それを人に、そして病人に述べるという感覚が私には理解できない。病気というものは人にとって辛いものだ。辛い人に向かって「心の遣い方が間違っている」なんて言えたものじゃないでしょうか。二次被害の何ものでもない。やはり、そういったものは人の口を介して、人に言うべきものではない。言われた人は絶句してしまうだろう。なぜ、センセイたちはこの辺を理解できないのか私には理解できない。そういったものは「私の心の遣い方が間違っているのかもしれない」と患者(信者)が内省するものであり、センセイは内省を施しても一々教示するものではない
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管理人には何かの勘違いがあるようです。↑↑
身上さとしとは病助けの現場で行うものであり、内省を求めるようなちんけなものでななく、治すための、治癒効果を示すためのものだ。医者の処方する薬の治癒率が3~4割りとしたら、その倍の治癒率でないと「身上さとし」とは言えない。「身上さとしごっこ」で体験したと思わぬことだ。
中山みきは「ひとことまでで皆たすける」と言った。 お筆先12号130 『それからハどんなたすけもするほとに 一事までゝみなたすけるで』 諭しはひとこと(一事)まで、までは限定ですから、それしか諭してはならない。そして治癒効果が無ければならない。基本の場合治癒効果だけなら99.99%以上ですね。全快に至るというと少し下がりますが・・
病人の依頼が、この熱一日で直せとか、仕事に行ける程度にしてくれとか、そういうのはまず100%治ってます。
そんな例を並べても自慢にはなりません。神の知らせというものがあって、それ諭すだけですから。
治らない場合にも神は治らないと知らせてきて、そこから神との交渉です。
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管理人はこういう。↓↓
話は変わるが、天理教管轄の病院である「憩の家」には事情部というものがある。
そこでは、入院患者の希望者に対してセンセイ(講師)たちが天理教的教えを説くというものがあり、広報的には「この病院では入院患者の心さえもカバーしている」と声高に主張している。
しかし、そこでも「身上さとし」が横行しているようだ。センセイたちは、ナースステーションに出向いて患者の病名を聞き、その患者の病気に付随する「身上さとし」を病因論で述べるらしい。
人間性で寛大な心で患者に安心感を与えて欲しいものだが、偉そうにするセンセイたちは病人に対して「こうしろ、ああしろ」ということに何の疑問も生じなかったのだろう。
しかし、ここ2、3年でセンセイがナースに病名を聞くことが禁止になったらしい。
患者の苦情か、ナースの意見か、それとも事情部内部の意識向上なのか、私はこれを聞いた刹那「おぉ、分かるやついるじゃん」と拍手喝采したことは今も覚えている。
「私たちのやっていることは二次被害である」と事情部内部での意識向上であったことを期待したいものである。
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事情部の講師たちは、原典を読めない素人ばかりだ。
地方や現場で病助けの経験がある人を招いているが、原典の素人で、加えて、病の教理の素人、ダブル素人であって、「一言・一事」の原則も知らない。実行も知らない。それじゃ助かる病人もたすからない。
治癒率はよくて3割に行かないだろう。3割でも、神のお情けだ。
まず病人さんがたすけて欲しいと、どうしたらたすかりますかと聞いてもいないのに、身上さとししたら天理に反する。聞いてきたら、尋ね来るなら言うて聞かすが天理の原則である。 布教は匂い、意味不明のチラシ、神名流し・・
きゝたくバたづねくるならいうてきかす よろづいさいのもとなるを
次に病人さんが聞いてきたとして、ナースにあらかじめ病名聞くような素人では駄目である。
医者の診断が出ていても、医者の診断ミスを教えられる程度でやっと基本である。
だがお助けの現場ではお諭しではなく、お助け人の誠真実を出す人もいるから2、3割たすかる結果も見る、
「ひとことまでで」で、「ひとこと縛りを自分にかけたのが16、7であり、それまでは何でもかんでも諭していたが恥ずかしくなってやめた。そのかわり中山みきさまに「ひとこと」教えてください、「ひとこと」浮かばせてくださいを願い続けた若い日々であった。
管理人さんは、お諭しの素人しか知らなくてお気の毒である。
病の諭しを知るという事は天理の基本であり、十全の守護の理と八つの埃は足し算引き算、九九であり、「貸し物借り物わからねば何もわからん」ということは、助けをもとめられて諭しが出来ないなら、「ひとこと」が諭せないなら、何もわからぬとうじんさん。
事情部の素人さん批判して、腰が痛いのは腰が低くないからだ、喉は声が荒いからだの、過去の諭しを間違っていなかったと、ここでの自白で自ら証明していて、管理人さんは可愛い人だ。
Bさん、基本は怒っていないのです。可愛い人だと思っています。そしてお気の毒にも、教理にふれてしまってと、憐れんでいるのです。
2ちゃんねる 国会では治まらん 中山みきの予言の話題引用しようと思いましたが人多すぎで、後にします。
基本さん、あなた様は独自に教理勉強されて、独特なさとりをお開きになっているのはよ~くわかりました。しかし、ここは天理教社会学研究所のブログです。あなた様は別なところでご自身のブログを開設されることをおすすめします。
社会科学⇒人間生活の諸関係や人間の所産について研究する科学の総称。
天理教社会科学⇒天理教の 社会科学
という事で 天理教の天理教公式機関ではありません。 公式ではない天理教の社会学
十分私の投稿は、人間生活の諸関係や人間の所産について 研究したものです。あしからず。
天理教の について人間関係の諸関係という観点で科学的に検証しますと、天災と病は同じであるという理論は、天理教の原典というお筆先に登場します。
それは天理教祖が、そういう趣旨を告げたお歌を書いていて、直接的のそれを聞いたという証言があるから、天理教では、天災と病気は同じなんだと考えられているかと言いますと、信者100人いたらどれほどの人がそう考えているか、天理教の子弟の通学する天理の学園でもそんなことは教えていない。
天災と病気はまるで別と考えられています。
東北大震災の時の表棟梁の【表統領のメッセージ】では、こんな語られ方をしています。
『 このたびの「東北関東大震災」は、三陸沿岸に甚大な被害をもたらし、多くの人命が失われ、壊滅的な打撃を受けた市町村も少なくありません。
お出直しになられた方々に哀悼の意を表すとともに、被災された方々に心よりお見舞いを申し上げます。』
(中略)
「おふでさき」には、天災は神の残念、立腹の現れだと仰せになっていますが、それは被災した人々にというより、世のありように対する警告と考えられます。
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上手にすり替えていますが、ようするに被災した人への神の残念立腹ではないと、そういうことで片付けようとしていますが、それなら、天災は神の残念、立腹の現れというべきではない。
表棟梁のベタな、言いわけで、お願いつとめしましたと意味のない天理教の宣伝をしている。
ひどいもんです。最低です。
中山みきの霊能で飯を食っているというのに、みきを良い子に、良いお母さんにみせかけている。
だが、バチを当てた本人は中山みき、天理教の神なんだから、なんで罰が当たったかくらい、堂々語ればよい。
お悔みも何も、バチで殺したんだから、生き返らせる約束とか、したらいい。
信者の献金で生活している分教会、大教会のために世間に媚を売る。最低の表棟梁で、バチが当たるよう、基本的には祈ります。
信念が無い、恥を知らない、バチを与えた天理教の神の残酷さを、堂々自白すべきです。
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管理人さんは社会科学的にこう問うている。
『石原都知事が「震災は天罰である」と述べたことに対して、強い世論のバッシングが起こり発言を撤回することになった。この天罰発言を天理教人はどのように受け止めたのか。』
震災は、人間の心遣いが悪いことが原因である。
『私は、この考えに対して控えめに「それは違うんじゃねーのか」と思う。控えめにという表現にしたのは、やはり私もピッタリとくる解法を持たないからである。しかし、そうであっても「やはり震災は天罰じゃない。天罰であってはならない」と思う。100歩譲って天罰であったとしても、私はそれを認めたくはない。なぜなら、それは信仰心がないからでも、いんねんを理解していないからでもなく、やはり被災者を思ったときに私はそういった発言に対して口をつぐんでしまうからである。それを人間思案といわれれば、私はそれで構わないのではないかと思う。』
つまり天理教表棟梁と管理人さんは、実は同じことを言っている。
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天理教祖中山みきの主張は「上」が悪いからバチを与えたである。
水戸黄門を見ている気がする。「助さん格さん、懲らしめてやりなさい」⇒子分や罪もない部下の武士が切られる。
実際には、それがbバチの当て方の基本だから、水戸黄門のすることだったら、拍手喝采だろうが、中山みきのすることは、人徳が無いから、拍手して貰えないで、教団からもやりすぎだよなとおもわれて、バチは教団幹部に注ぐと、基本は呪詛する。
基本様
教祖は客観的お立場で人々を助けておられると思っています。
地球環境が段々人間が住むのに適さなくなってきていて、それは人工的な問題を含みますね。
もったいないという精神できりつめて暮らす必要が地球規模で要求されていると思います。
食糧もわけあっていくべきだと思っています。
匿名です 様
>地球環境が段々人間が住むのに適さなくなってきていて、それは人工的な問題を含みますね。
その最たるものが、化石燃料の過度の使用と原発ではないでしょうか。地球上では、未だに電気が無い地域に暮らす人々が16億人居ると聞いたことがあります。「つつしみ」を求められている時、日本人の生活状況が最高のものなのかを考える必要を感じます。
先ず、宗教家がぶくぶく太っていること自体が?です。天理教団の幹部連中も、せめて禅宗の修行僧ぐらいに痩せていて当然ではないでしょうか。
ただ、かく言う私自身がパソコンを通じて電気を使っているのが現状で、複雑な心境です。
匿名A様
私も太ってます。
口ばっかりでなんとも恥ずかしい。朝からからあげを作ってるし・・。
お恥ずかしい。
仕事行きます。
基本様
東北大震災は、某国が日本政府を威嚇するために、地震兵器を使って起こした、という説もあります。陰謀論と、信じない方の方が多いでしょうが。神様にしたら、「それは濡れ衣じゃ」、というものもあるのではないでしょうか?
それとも、ある国が起こす自然災害に似せた兵器さえ、神様がそうさせるように仕組んだものなのでしょうか?
水を差すようですが、陰謀論みたいなトンデモ話を持ち出したら議論にならんでしょ。
「それとも、ある国が起こす自然災害に似せた兵器さえ、神様がそうさせるように仕組んだものなのでしょうか?」
…もう完全にそうだと断定して言っちゃってるし。人のせいにする方がこわいわ。
東日本大震災以外にも、今日までに沢山の大地震がおこってます。数えきれないほどの犠牲者がおられます。
それ、全部陰謀ですか?
東日本大震災だけが特別ではないんです。
陰謀論どうこうの前に、そういった歴史的事実に目を向けて、営みと天災について考えてみることが大切なのではないでしょうか?
基本さま
投稿の意味がわかりません。
親様が親神だとか、ばちを当てるとか、、、
あなたがそう考えるのは自由ですが、ここで断言しないで頂きたい。
天災というものは人間がどうにかできるものではなくて、地球に住んでいる限り
地球の営みに任せるしかないものです。
たまたま人間がそこに住んでいて、地震にあったり噴火に巻きもまれたり
台風がきたりするだけであって、被害にあった人間が、バチが当たったととるか
大難小難ととるか、その人の信仰次第だと言うことだと思います。
いろんな数字でなぞなぞのような答えを出したとしても何の意味があるのでしょう?
親様は難しいことは言っておられません。学のない田舎の農民にもわかるように教えて下さったはずです。
自分で研究して、自分なりに解釈して自分で納得しているのならそれでいいではないですか。
そのことを発表したいなら、自分でブログなり何なりを作ってください。
見たい人だけが見るようにしていただきたい。
不愉快です。
2016.8.22 09:13 匿名です さま
私の書き込みで太っている方を中傷することになり、謝罪致します。本当に申し訳ありませんでした。
ただ、私は天理教団幹部連中に言いたかったのです。。
三代真柱が比較的早い出直しとなったことに対して、私の知る大教会長が、すべて我々信仰者の不徳の致すところであり、もっともっと心の成人に精進しなければならないと講話したことがあったのですが、何を云っているんだと言いたいです。
さんざん、ご馳走攻めにしておいて、三大成人病のオンパレードのようなことになったのは、真柱自身の責任と同時に教団直轄教会長の接待攻勢が原因ではなかったのですか。
教団本部は、真柱のお入り込みの折の料理の基準を作っておいて、これ以上のことはしないようにと通達をしておけば済んだことでしょう・
教団幹部は、一度、福井県の永平寺にお願いして一月ほど修業してきて、他宗教の厳しい修行の一端でも経験すべきだと言いたいです。
匿名ですさん、大変失礼しました。
基本様
東北大震災が、某国によって起こされた、というのは一笑に付されるだけのようなので引っ込めますが、では、「第二次世界大戦の敗戦」、そして「原爆の被害」について基本様は、それも「神の返し」と言われている。神の返しは、自然災害に限るものではなかったのですか?お筆先に、人為的に起こされる戦争被害、戦争兵器による被害は神の返しだ、という記述があるのですか?ご教授ください。
戦争や原発事故と自然災害は別個に語られる問題だと思います。放射性廃棄物の処理も出来ないようなものを考え出した人類こそ「神の返し」に会うかもしれません。高い山の頂上付近から海の生物の化石が発見されたというテレビ番組を見ると、地中深く保管した放射性廃棄物が、いつの日か地上に出てくるかもしれません。その頃には人類は絶滅しているかも知れませんが。
争う心を持った人類を造ったのは神自身、陽気づくめなど、夢のまた夢。こうなれば、最大の失敗作ですね。
先ほどの書き込みで太っている方を誹謗するようなことを書きましたので、自分自身のことを書いておきます。
80歳近い老人です。身長176㎝、体重58㎏。弥彦山に登るのにケーブルは使いません。歩いて2時間余の行程です。
>匿名です
>2016年8月22日 6:25 AM
>もったいないという精神できりつめて暮らす必要が地球規模で要求されていると思います。
>食糧もわけあっていくべきだと思っています。
未熟者の個人的考えと解釈で失礼します。
食料に限らず、全ての物を(散財心で)分け合っていけば、豊かで平等な世の中になると思案します。
食料を作る為の土地や、あらゆる物を作る原料や材料は、今現在の世の中に充分あります。
(計画的な養殖や畜産、植林は必要だし、リサイクルも必要でしょうが)
あとは皆が「作り取る」なら「やまとはほうねん」になると、教組様は「みかぐらうた」で教えて下さったと思います。
「自分だけよければ、自分だけ貯め込めば」という我が身思案が「神の立腹」で、病い(個人的・社会的病根)を生む原因だと指摘し、それが続けば「天災山崩れ」のような災害と同様の苦しみの世の中になり、親神の望む「陽気ぐらし」から離れるばかりでしょう。
天理教内には、大地震や天災そのものを「神の返し」と言う方がいらっしゃいますが、地球が出来て以来、大地震や天災等という自然現象は「当たり前」にある事で、人類の発生とは何の関係もない事だと思いますよ。
人間が「何か悪さをしたから」なんて解釈はどうなんでしょうかね?
人類発生以前には地球上に噴火大地震山崩れや地殻変動が一切無かったんでしょうか、と訊きたいです。
たまたま災害が起きて不幸が起きても、人類が助け合い協力し合う世の中なら「大難が小難、小難が無難」になるでしょうし、乗り越えて行くことが出来るでしょう。「自分だけ助かりたい、自分だけ不幸から逃れたい」という考えも我が身思案であり、教組様の嫌うところだと思われます。
匿名A様
全然気にしておりません。でも教祖の雛形をたどるとからあげは食べれないことになり、それでもからあげを選ぶ自分がいます・・・。
教会師弟様
散財がどこかの誰かの飢餓を救うことになるのでしょうね。
匿名です 様
皆が散財心になれば、「どこかの誰か」どころか世界中の人が救われ豊かになります。
食料でも衣料でも電器製品でも車でも住宅でも、電気だろうか水道だろうが、どんどん作って「散財」すれば、全ての人に行き渡るのですから。
その分の材料や原料はこの世の中に十分に有ります。
あとは、皆が「何かに作り取る」(生産活動をする)だけです。
勿論、今の価値観では理解されない「バカにされて笑われる」考え方ですが。
教会師弟様
余剰に作られたものは廃棄処分されないのでしょうか。
教会師弟様
飢餓にあっておられる方々はお金を持たず、購買できないのでは。
売れずに流行遅れになり、あるいは機能が不充分になり、廃棄処分されたりしませんか?
からあげと雛形だったら、私はからあげを選びます。
貧しい暮らしをするのが、雛形ではないと思います。貧に落ち切れ、というのは、教団が、信者からお供えを取る為に作った偽教理です、人に対する思いやりとか、人が困っていれば、手を差しのべてあげることができるように、教祖のようにはとうていできませんが、何分の一かでもできるように、心の修養をすることが、雛形を通ることだと思います。大事なのは、心の持ち方であり、からあげをやめなくてもいいと思います。
匿名です 様
>余剰に作られたものは廃棄処分されないのでしょうか。
余剰が出れば廃棄せざるを得ませんね。
それは今でもそうでしょう。
出来るだけムダの出ない生産管理が必要です。
>飢餓にあっておられる方々はお金を持たず、購買できないのでは。
「散財心」は「売る」のではなく「配る」のです。
お金は受け取りません。
はっきり言えば、貨幣経済社会ではありません。
物々交換でもありません。「作り続けて配る」社会です。
皆がそれぞれ生産したものを、必要な人が必要なだけ持って帰る社会です。
流行や人気商品もあるでしょうが、ただひたすら「作り続けて配る」のです。
全員に行き渡ったり、欲しがる人がいなくなったら、作るのを止めればいいだけです。
作る人も、より良い、便利で役に立つ、皆が喜ぶ物を考えて生産する事に専念できます。
それに、職業だの会社だの仕事だのの概念が全く現在の世の中と違う形になるでしょう。
匿名様
からあげを作りながら言うことではないですが、卵を取り、肉も取り、2つも働かせてやるなというようなことを教祖がおっしゃったのが気になります。私達は鶏の人権のようなものは無視してます。そもそも鶏権という言葉はありませんが、教祖は鶏権というか鶏の人権というか、そういうことを考えておられるのではないでしょうか。
教会子弟様
すみません。考えてみます。
>卵を取り、肉も取り、2つも働かせてやるなというようなことを教祖がおっしゃったのが気になります。
そのようなこと教祖はおっしゃってるのですか?知りませんでした。
牛権、豚権、そんなこと考えてたら、肉は一切食べられなくなりますね。(笑)どうしましょう。
ベジタリアンにはなれません。魚だけ、というのも無理です。
牛や豚、鳥、卵には申し訳ないけど、私は今後も有り難く頂くことにします。食欲には勝てません。
基本様
他の記事のコメント欄含め、色々読ませて頂きました。
基本様が学ばれて来られた独自の世界観を感じました。
しかし、細かい内容よりも、
正直に感じたことをお話しますと、
私の思っていること等々、人の考えや気持ちを勝手に決め付けて話を
進めることなどに対し、なぜ他人のことを、次々に何の根拠もなく、
そこまで決め付けて話しが出来るのか不思議でした。
また、基本様は特別に深く教理を勉強されていることは、
様々なコメントから一目瞭然ですが、
所々、詭弁やトリックのように思われるような箇所があり、
なんとなく共感しにくい気分にさせられます。
(参考:詭弁 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%AD%E5%BC%81)
いえ、詭弁だから・・という以上に、
「神」とは何か?など凡人には到底説明などできませんが、
ただ、「神」を感じるものについて考えた時、
少なくとも心に感じるのは、
深い愛、平和、光、分離感のない、安心、安らぎ、幸福、豊かさ、許し、自由、 etc
などの性質を感じますが、
基本様は、「神」を語られていても、
なぜか基本様の言葉からは、このような性質よりも、
何かを攻撃しているような、不安感を与えるような、
基本様は自分は脅してはいないとは言いますが、
脅してるような、決め付けて息苦しいような、
そんな感じが、文章のあちらこちらから伝わって来るのです。
様々なご投稿。
カインさんに向けてとのことですが、
カインさんのブログに来て、何の根拠もなく(基本さんはブログの一部の文例を
カインさんが某学会員根拠であるとして出されてますが、何の根拠にもなってません)
他の宗教の会員だの、洗脳してるだの、次々に多くの投稿をしてまで
主張する必要が何故あるのですか?
このような基本さんの投稿活動、内容を拝見する限り、
基本さんこそ、洗脳しようとしているように見えてしまってますよ。
内容よりも、むしろそのような基本さんの目立った活動に、
不思議さを感じております。
学会説の根拠が乏しいように思うので、基本様が学会というのを使うのはやめにするということで文章を書いていただいたらいいのではないかと思います。
基本様も苦悩のカオスの中で変わり続ける自分を、自分自身で必死に捉えようとされていると思います。
僭越ながら、今周りで否定をする時期ではないと思います。
自分を捉えられずにメビウスの輪に陥ると苦しくなりそうな気がします。
アスペルガー考察
1、会話能力は表面上は問題なくできるのですが、その会話の裏側や行間を読むことが苦手です。明確な言葉がないと言葉をそのままの意味で鵜呑みにしてしまう傾向があるため、人の言葉を勘違いしやすく、傷つきやすい面があります。
具体的な特徴としては、
■あいまいなコミュニケーションが苦手
言われたことをそのままの意味として受け取ってしまう。アイコンタクトや顔の表情を読み取るのは苦手。
■不適切な表現を使用してしまう
遠回しに発言することに困難さがあるため、言い方がキツく、ストレートすぎる発言になりがち。
■名前を呼ばれないと自分だと気づかない
1対1でも自分の名前を呼ばれないと相手が誰に対して発言をしているのかわからない。
■想像して動くことが苦手
想像力が弱い傾向にあるので、指示されたこと以外に考えが向かなかったり、相手や環境の変化に気づかないことがある。
などが挙げられます。
2. 対人関係の障害
場の空気を読むことに困難さがあり、相手の気持ちを理解したりそれに寄り添った言動が苦手な傾向にあります。そのため、社会的なルールやその場の雰囲気を平気で無視をしたような言動になりがちで、対人関係を上手に築くことが難しいです。
具体的な特徴としては、
■大勢の中で浮いてしまう
場にそぐわない発言や回答をしてしまう。
■相手の気持ちを理解するのが苦手
相手が何をどう考えているのかを想像することに困難さがある。
■自己中心的に思われる言動をしてしまう
自分の言動がその後どうなるか、ほかの人にどう影響するか、想像するのが苦手で、臨機応変に動くことに困難さがある。
■相手を傷つけてしまう
何も考えずに見たまま、思ったままの発言をしてしまうため、相手を傷つけてしまうことがある。
などが挙げられます。
3. 限定された物事へのこだわり・興味
いったん興味を持つと過剰といえるほど熱中します。法則性や規則性のあるものを好み、異常なほどのこだわりを見せることがあります。その法則や規則が崩れることを極端に嫌う傾向があります。一方、この特性は逆に強みとして活かすこともできます。
具体的な特徴としては、
■マイルールがある
自分の決めた予定や手順などを変えることを嫌い、頑なになる。無理に変更すると混乱してしまうこともある。
■記憶力が高い
興味のある物事に関しては、大量の情報を記憶したり、引き出すことができる。
■集中力がある
興味のある物事に関しては、一度手を付けると熱中しすぎて周りが目に入らないこともある。
■話し続ける
興味のある物事に関しては、一度話し出すと夢中になりすぎて止まらなくなる。
などが挙げられます。
アスペルガー症候群の10の特徴
私はアスペルガー的なものに分類されるかもしれない。かつてやった診断の点数は満たなかったけれど。また現代では多いと思います。
でも天理人はアスペルガー的な人物をも包み込むように思います。
アスペルガーだから排除、ADHDだから排除、それでは人間社会は閉塞していきます。
それぞれの個性を受け止めていきたいと思います。
知識は人を排除するための道具ではなく、人を助けるための道具であるべきだ。
匿名です様
あなたは、書き込むブログの選択を間違えておられるのではないでしょうか?
ここは、精神的なリハビリをする場所ではありませんので、私が思いますのに、あなたは、心理カウンセラーさんや、スピリチュアル、とか、癒し、とかやっておられる方のブログへ投稿される方がいいのではないか、と思うのですが。
匿名様
お邪魔したようですみません。
失礼しました。
匿名です 様
匿名です様の解釈は優しいですね。そのお人柄が偲ばれるようです。
>基本様も苦悩のカオスの中で変わり続ける自分を、自分自身で必死に捉えようとされていると思います。
>僭越ながら、今周りで否定をする時期ではないと思います。
数多くの書き込みを読んで感じることは、自ら天理教の「基本」と名乗り、自らの解釈や理論展開で他人を攻撃否定している「初めから意図的にやっている事」としか思えませんよ。
カインさんのことを「学会の工作員」と攻撃していますが、本人の方が「他宗教の工作員」であり、天理教内部の人間なら「教祖さまの正しい教えを知らせまいとする一部勢力」または「自己陶酔の激しい○○」と思えます。
他人との議論や話し合いをしようともしない書き込みからも明らかでしょ?
基本氏は先日も、真柱にお子さんがいらっしゃらない事を「立教の時の、子もないようにしてやろう、という天の将軍のお言葉」といった書き込みをされてましたが、無茶苦茶というか突拍子もないというか、意味不明です。
とはいえ、こういう書き込みもこの場では合わないので「記事以外のコメント」に移らせていただきます。
外国はテロと民族浄化と戦争と、殺人事件の山。
日本は、台風と地震の山。
今年の総括です。
2018日本 関西の地震、酷暑、近畿直撃の台風、北海道内陸の地震。etc
我々の傲慢さに対する大きな神の残念を見せる前の、最後警告としか思えない。
西都か東都の壊滅が迫っているかも。
いずれにしても、その心がかわいそうなんだと悟ります。