言葉と実践

前回のブログで、地震の教義的解釈について書いたら反響が大きかった。多くの天理教人が地震をどのように解釈すればいいかで悩んでいる。また私のブログを読んで、余計に混乱を大きくしたとの感想をいくつか頂いた。私が何も言わなければ「地震は神様が怒っているんかねー」となんとなくふんわりした考えで今まで通りにやり過ごせていたかもしれないが、私が「結局その考えだと、地震は神様からの天罰でしょ。天理教は石原都知事と一緒ですよ」と突きつけてしまったばかりに「じゃあどうしろってんだ!」と反問されてしまった。ブログでも書いたけど、私は「自分で考えて」と言うしかない。それしかない。「感謝・慎み・たすけあい」と言いながら「天理教は現代社会の困難な課題をすべて解決できる」と万能感に溢れた天理教代表役員の慎みの無さには驚倒したが、真なるところ、例えば天理教災害救援ひのきしん隊が何も言わずに粛々を救援活動をこなしていることこそ慎みの本意ではなかろうか。地震に対する教義解釈で、どんなに有効な理屈を考え出そうが、万能な教義を引き出してこようが、実際に現場で流される汗の前では意味を持たない。ということを考えた。自戒の念を込めて。