教義の幅について<追記>


前回の「教義の幅について」のブログで、ある教会長の方からご意見を頂戴した。ご本人の了解を得た上で私の返事を以下に転記したい。頂いたメールではなく、私の返事であることをお間違えなく。

その上で、恐縮ながら私見を述べさせていただきます。Aさんのご意見はちょっと横に置いておいて、私が天理教人と話して感じるのは教えをとても硬直して理解されている方が多いなということです。そのため例えば他宗教や信者に対して閉鎖的、排他的となる場合が多いと感じます。しかし私が頻繁に接する天理教人は河○町というところであります。それ以外の方に聞くと河○町は大変保守的独裁的であると聞きます。ですので、Aさんのような考えの方やAさんの所属されるところでは事情や雰囲気が異なるかもしれませんね。まずその点をご注意ください。

次に信仰の幅ですが、私は信仰の幅は「ある程度」広い方がいいと思います。そうでないと信仰や生き方として「非常につまらなくなる(陽気暮らしの本質的意義が喪失する)」と思うからです。Aさんが提示していただいた考え方に基本的には賛成します。しかし天理教として悩ましく思うのが、やはり異端となる危険性ではないでしょうか。信仰の幅をもたせ過ぎると天理教本部の意向に沿わなくなる危険性が高くなるのは異端の多い天理教の歴史が証明していると思います。そのため本部としては一定の規律と言いましょうか、組織的忠誠心を確保する必要もあります。要はバランスでしょうが、とにかく教義に幅を持たせればいいというだけの問題でもないと思います。その点の着地点として、私は教会本部の見解にはとりあえず、それを「真なるもの」として収めたほうがいいのではないかと思います。そこに不信感を持つと組織としての統一性や求心力が低下する危険性が一気に高まるからです。教会本部の見解を真なるものとして、そこからの解釈には幅を持たせたほうが組織の継続性という点においては健康的でありましょう。Aさんのおっしゃられる裏守護という言い方は実践に基づくユーモア溢れる表現だと感嘆しつつ微笑しました。またご指導のほどよろしくお願いします。

という返信を返させていただいた。前後の文脈が読み取れないところもあるかも
しれないが、それは想像にお任せしたい。