まずはここまでの展開を整理したい。まず地震といった自然災害は天理教教義に引用されている(と聞いている)。そのため自然災害の天理教的解釈を行う場合には、教義を参照すればよい。しかし原発は自然災害ではない。原発は人工物である。人工物による人為的災害が記述してある天理教教義は私は知らないし、聞いたことがない。人工物ということは、間接的に人工物を欲望した我々が招いた結果でもある。この結果に対して「原発はいかん(遺憾)」と直接に批判することも大人としてナンセンスであると思う。なぜなら、我々こそ原発の利益を多分に享受しているからであり、その自省的思考がワンクッション必要なはずである。被災者の数や規模も重要なファクターである。例えば、人為的である交通事故災害などの規模が小さい災害であれば(といってしまうと当事者の方には失礼だが、敢えて学問的議題として)、それには個別の身上(病気)、事情(悩み事)のように個人の運命論的解釈が着地点となる。会長から信者へ「神様があなたに与えた試練である」と個人に帰結することができる。原発による解釈を難しくしているのは、その災害が大規模かつ限定的に行われていることである。つまり天理教的に原発を読みとく場合には「なぜ福島の人が被災して、それ以外の地域にいる私は大丈夫なの?神はなぜ福島の人に厄災を見舞ったのか、福島の人だけが神の逆鱗に触れる行為をしたのか。そんなわけない。なぜ神は福島を選んだのか」という自問が必ず暗く横たわってはいないだろうか。天理教の中でこの原発問題で口を割る人がいないのは、やはり暗にこの問いを意識しているのではないだろうか。いや、意識してなくても簡単に口を割れない雰囲気を感じているのではないだろうか。私は、もしこうした答えのないアポリアに対して自問や戸惑いがないことは、すでに宗教家、信仰者としの感受性を放棄していると言ってもいいと思う。原発について調べていると以下のような記事を見つけた。
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866918/news/20110422-OYT1T01000.htm
ベネディクトが正解だとは思わない。しかし彼の戸惑いは人間と神に対して何より率直なものであると思う。天理教では、何人かの「偉いセンセイ」が、すでに「此度の震災は、我々の心遣いが悪いからである」という明快な回答を信者と神に提出していると私は聞いた。しかし彼らは被災者からでさえも「なんで?」と問われたときに同じように明快な回答ができるだろうか。できるのであれば私は彼らの信念を尊敬し、彼らの万能感を嫌悪するだろう。宗教家や信仰者は教義に沿った回答を求められるが、それが現実の身体感覚からズレることも必要なことだと思う。「いや、ズレてはならん」という宗派や学派があっても、それは全く問題はない。しかし「陽気暮らし」という金科玉条を掲げた天理教は、教会長のプライドよりも「目の前の弱者」を一顧だにしないわけにはいけない。なぜなら人間は神ではないからである。天理教外の人が天理教と聞いて「道徳的な宗教」と思う人は少なくないはずである。私もそう思う。しかし、その発展を寄与するような「より道徳的であろう」とする思想的風土は天理教人をみて少ないと感じる。倫理学のように天理教における最大多数の最大幸福を求めるような風土があってもいいと思うのだけ、そういった発展的であることを回避する傾向が強いと感じさせられるのは残念である。なぜなら今後、より教義では間に合わない今までの経験では追いつけない出来事がでてくるだろう。そのときに天理教人としてどのように思考し、行動するかは日常的に準備しておいて陽気暮らしから遠ざかることはないと思う。ということで、天理教的原発の見方は「自分でよ~く考えて」ということです。それしかないんだよ。ほんとに。
1. よ~く
原子力発電にたいする天理教の有力者の見解には興味があります。
原子力廃棄物をどうするのとか、結構難しい問題が潜んでいるように思います。
天理教は立教初期、弾圧を免れる為、人間を造ったのはアマテラスオオミカミと、自らの根幹の協議を変え、更には、戦争時には、国に迎合し、戦争協力までした教団であります。原発に対しても、何ら発信する意欲も勇気も持ち合わせておりません。
この教団、日和見主義の、ご都合主義で時に合わせてどちらにも転んで右往左往。真も誠もありません。原発などに発信する意欲も、教団にとっての何の得も無いと考えているのでしょう。発信する精神的余裕もないのです。130年祭、中身の無い掛け声ばかり。神は誠がお好きです。神が許すはずが無く、現在は断末魔のあがき。教祖も嘆き、神も退き、衰退するのは天の理合いです。最近では各教会、月祭りの手が揃わないから(手が揃わない教会7~8割あるいは9割?)交流で手を揃えようと、上から下から横の系列からなりふり構わずかき集めて、体裁だけ繕おうとする。まじめに本気に、この交流計画を考えてるうちの系統。この「あがき」、末期的様相を見せ始めている。そんな上にも下にも横にも行かされるような交流計画を立てられたら、教会長も信者たちも時間とお金を強要される事になり、たまったものではない。本当にご免こうむりたい。少ないは少ないでいいではないか。陽気に勤めるその「心」こそ大事。不足心の人衆が寄り集まってもそれは「体裁」だけ。教祖は「心」を重視しておられるのです。世間からは白い目で見られ、新たな信者は見込めない。この教団、こうして徐々に、息の根を「神の手」で止められる運命なのでしょう。