教義の学問的証左

今回はある教会長さんとのメールのやりとりの私の送信済みメールをアップしたい。この会長さんは、非常に博学な方で、かといって教義を押し付けないバランスのとれた方である。メールをしていると、私の知的好奇心がかき立てられ言いたい事がさくさく出てくるという、会長さんとして理想的に教化的な方である。その方への返信として私の文面はちょっと生意気であるが、せっかく長文を書いたのでブログの記事にかえたい。

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前回のメールにてAさんのメールでは信仰と学問的意義の2層で論理展開がされていると感じました。信仰という視点では、Aさんが信じて取り組んでおられることに私が口を挟む余地はありません。

一方で、学問的意義で言えば私はAさんのおっしゃられる教義の「学問的立証」という点が理解できません。私が拠り所とする思考は科学であり反証をするのが主な作業であります。その点で申し上げますと、教義の学問的立証という視点は論理の信頼性や妥当性という点では懐疑的にならざるを得ません。科学が扱う絶対的数字でさえも、publication biasがあり研究者の都合よく利用することができます。その点で、何をもって学問的立証と思われるのでしょうか。Aさんのメールからは「旧帝大の偉い人が言ってるから」という権威主義的な視点しか感じられませんでした。

私の大局的な考えを申しますと、教義の真偽や発展については天理教研究者やコアな信仰者以外には、そんなに重要ではないと思います。それは前にも申し上げましたように教義の是非に触れることは、信仰の根幹に触れることであります。その根幹に容易に触れることがあっては、根幹から崩れる危険性を孕んでいます。教義を語るときは畏敬の念をもって「ちょっと正座でもしましょうか」というような雰囲気で接するべきだと思います。たとえば、家庭であっても家族の根幹を構成する両親の性体験なんてものは触れるものではありませんよね。だいぶ性に対してオープンになってきましたけど、やはりわれわれの世代では家庭で性を扱うことに対して抵抗を感じます。それは「古い世代」ということではなく、やはり家族の根幹に触れることに対して「触れないほうがいい」という当然の身体感覚だと思っています。閑話休題。

学問的意味については、それは天理教のお抱え学者(天理大学)がすればいいと思います。また、私はその真偽性を確認することに労力は注ぎたくありません。しかし、その可変性をもった教義理解に対して現実問題にはなかなか適用できないことを信者は忘れてはいけないと思います。つまり、添付していただいた神殿講話文ですが、その中の「月日親神が心を尽くし切って創造した人間であるのに、それを知らないで上層階級の人々が、この世を自分たちの思うがままに支配しているのは大変残念である」といっておられることは、今回の震災を読み解く上では大変ラディカルな疑問を私は感じました。他人事のように、あたかも天理教人は「私たちは高山に虐げられている」という被害者面が感じられます。これは内省という視点に多分に欠けるのではないでしょうか。東大生が「俺さ勉強できないし」と言ってるような違和感を感じました。私は教義の真偽よりも、私はその態度や考え方を問題にしたいと思っています。
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以上である。