言葉の温度差

先週の天理時報4231号を読む。やはり震災記事が多い。その中で2ページにある「和楽」という記事に目が留まる。著者は苗字しか出ていないが、他の震災記事とは一線を画す生々しさを感じた。文面からは筆者が被災者であることは分かるのだが、その強いメッセージ性に圧倒される力強さを感じた。私のように外部から震災を観ている人間の書く物と、安全な場所から一時的に被災地に乗り込んだ方の書き物、そして被災地にずっと留まざるを得ない被災者の書く物の間には絶対的な温度差があると感じられる紙面であったように思う。だから余計に、安全な地域にいる人の文面は「教えに基づいて行動しよう」という、あたかも言いそうな定型句の空虚さが目立つように思う。それは、また私のブログでも同様な距離感があるのだと思う。だからといって、安全な土地にいるものが発言をしてはいけないということではない。ただ、その被災者の温度差を意識している方がどれほどいるのかと問うてみたい。それは同じ2ページで扱われているが、今後天理大学が目指す「被災者の心に寄り添い、癒しを与えるための宗教性」ということに深く関わっていると思う。概念だらけで、分かるようでまったく分からない言葉が天理時報には多いと感じた。自戒の念を込めて。

言葉の温度差」への1件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 無題
    私も読みました。加藤さんですね。考えさせられて反省させられて勉強になりました。一信者の私には何もできないと思っていましたが、できると思って行動していきたいと思いました。

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