「原発反対活動をする天理教人についてどう思いますか?」との連絡をいただいた。この短文だけであったので、どういった背景があり、どういった目的で私に連絡をされたのか詳細は分からない。ただ予想するに、原発反対運動をしようとしている天理教人が身近にいるのか、そういった動きをしようとする流れを感じている方なのだと思う。
せっかくなので今回は原発と天理教論を考察したい。以前に「天理教から原発を見る」とブログを書いたが、そこではベネディクトの回答を例に出しつつ「よーく考える必要がある」と私は回答を保留した。しかし、私に連絡をしてきた方は、それだけでは足りないと感じられたのかもしれない。いつも中途半端な回答で申し訳ない。とほほ。
では今回は明確に結論から申し上げると、天理教は原発反対という姿勢を明確にしない方がいいと思う。いいと思うというのは、極論を言うと、賛否両論がある議論に対して、どちらか一方を強固に主張することは陽気ぐらし的ではないということである。つまり原発反対は天理教的ではないということである。電気という利益を享受しているからとか、原発を生業としている人もいるからという側面はあるし、私の個人的な考えとしても原発はない方がいいのかな、とも思う。しかし私はやはり「よく分からない」という側面が強い。原発反対を主張する人は「これだけ原発は危険だ」という。しかし私には、それがどれくらい危険なのか分からない。交通事故死亡者数の方が多いんだから、車を撤廃すべきだと言わないのはおかしいという話も一理ある。原発反対をする人の多くは、活動家や左翼的思想をもっている人であるという情報もある。
かといって、私は原発反対を主張してはいけないといっているわけではない。私が主張しているのは、それは個人が考えるべきことであるといっているのである。つまり、組織や団体として原発反対を言わないほうがいい。またその組織や団体が「天理教」という字を冠している場合は原発反対を主張することは、被災者への冒涜に転移する可能性がある。「何言ってんだ。被災者が一番原発反対って言ってんだろ」と反論させるかもしれないが、私は被災者が原発反対と言っているのはあまり聞いたことがない。遅々として進まない復興や原発の対応についての怒りは聞いているが、原発の存在をそのものを批判している被災者の声を私は知らない。もちろん、私の感覚もメディアコントロールされたものかもしれない。それくらい混沌としている。声高らかに主張する人は、あたかも被災者の声を代弁しているようであって、私は代弁できているのか疑問である。また社会学的には、何か政治的主張に加担する宗教団体というのは非常にリスクが高い。それは某学界がそうであろう。味方はあるが、敵も多いのは宗教の役割ではなかろう。宗教団体は政治団体ではない。
私が天理教として原発反対を成し遂げたい方に問いたいのは、天理教人として何を成し遂げたいのかということである。天理教的地位の向上だろうか、弱者に限定した陽気暮らしなのだろうか、それとも政治的発言力の向上なのだろうか。私は分からない。ただ感覚として降って沸いたような反原発の気運に対し、胡散臭さや浮き足立っている感を覚えるのは私だけだろうか。運ばれた料理に不手際があったからといって、「責任者出てこい」では何も状況はよくならないだろう。何度も申し上げるが、天理教の役割はご飯を求めている人に対して、黙ってご飯を差し出し、その方の健康を祈ることではなかろうか。自分の意見や思想をいったん括弧に入れて、とりあえず病める者を想像し、神と対峙す中で他者へ祈りを捧げるというのが本質的な慎みではなかろうかと思う。善悪の判断ではなく、宗教者の役割というものを前提として考えることが、原発に限らずにもっとも大切なことなはずである。