宗教家が非現実的な夢想家であることについての整理


村上春樹がバルセロナの受賞スピーチで地震についてコメントした。
http://www.47news.jp/47topics/e/213712.php?page=all
彼は2009年にもイスラエルの文学賞授賞式にてイスラエル軍のガザ侵攻を批判した。このとき私は初めて世界的小説家Murakami Harukiの肉声を耳にした。イスラエルでイスラエル軍への非難を口にすることの勇気と、小説家の使命感を感じた。今回も彼は、小説家としての思考回路と役割を明確にしたと思う。
特に印象的であったのは「非現実的な夢想家」という言葉であった。この言葉がメディアを通過すると、日本人は反原発を訴える非現実的な夢想家であるべきというメッセージに置換される。しかし全文を読むと、彼のメッセージが非常に宗教的であることを感じないだろうか。もちろん彼は原発に反対のスタンスであるが、同時に「原発=危険」という図式だけで反原発を批判する人間も効率という鎖に繋がれていると指摘している。
天理教は「陽気ぐらし」という非現実的な夢想を教えの柱に置いている。村上スピーチから天理教を見るのであれば、社会全体がどれほど陽気暮らしを不必要としも、天理教人は決してそれを放棄することはせずに、陽気暮らしを訴え続ける必要があるということになる。しかし、ここでも重大なトラップがある。それは、非現実的なこの天理教の教えは、依然として輪郭が定まっていない。それは私がたびたび俎上にあげていることでもある。この使い勝手の悪い言葉を志向するということの最低条件は、陽気ぐらしが非現実的であり、夢想的であるということの認識ではないかと思う。なぜなら、そこを踏んでいないと「とりあえず困ったときには陽気暮らしと言えばいい状態」となり、思考が停止する。思考が停止するということは、効率というシステムに巻き込まれてしまう。つまり、陽気暮らしであることの現実的探求をしつつも、一方で陽気ぐらしという回答は考えなくてもすでに用意されているという「現実的に非現実を主張する」という不全感が生じる。このことは、あくまでバーチャルに軸足を置く小説家と現実に軸足を置く宗教家の大きな違いなのかもしれない。ということを考えた。

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