前回ブログでコメントをくださった方には感謝申し上げたい。しかし、私の話も含めて、話が少しふわふわした話になってきた。ネット特有のデマになりがちなので、ここで整理したい。信条教育を信仰者以外が担うことについて話をしたい。天理教には各種学校が複数ある。それは一般課程に重きを置いたものから、布教者を養成するような天理教の専門学校のようなところまである。天理高校や天理大学というのは天理教を信仰しない一般学生も多く入学する。天理高校は入学の条件に「天理教子女」とあるが、スポーツで優秀な成績の者などは、適当に子女にされることもあるようだ。天理大学は天理教を何も知らない学生も入学する。しかし天理高校は「教義」の時間が必修であり、天理大学も「必修」で天理教を学ぶ単位が用意されている。これらの学校では天理教を学ぶという信条教育が最大の特徴である。では信条教育の必要十分条件とは何だろうか。それは教員が全て天理教信仰者であることだろうか、全生徒が天理教に対して好意的であることだろうか。私が考える信条教育の必要十分条件は「信条教育がある雰囲気」だと思う。どのような雰囲気で教育を行うかということである。その雰囲気に「教え」が漲っていることはとても大切だと思う。特に天理教本部がある土地は、独特の雰囲気がある。私にはよく分からないが、あの土地を「特別な雰囲気」とする方は多いのではないかと思う。熱心な信者にとっては「ぢば」を母胎のような包まれた場所や神を感じられる場所として捉える方がいても私は不思議に思わない。信仰とは別に、環境としても京都や大阪からは少し離れた自然の多い学習環境にはとてもいい場所だと思う。
そして、そのような雰囲気を醸成する大きな要素は、学校トップの思想であると思う。前回、天理医療大学の学長予定者の挨拶文に関して「医療の専門家としての理念と経歴は素晴らしいようだが、信仰と医療を橋渡しするような思想や意欲は全く見受けられない。」と私は記述した。次に天理高校校長と天理大学学長の学校挨拶文をホームページから以下に挙げたので見比べてみたい。
http://www.tenri-h.ed.jp/1bu/aim/koucho.html
http://www.tenri-u.ac.jp/info/q3tncs0000000v6t.html
これはあくまで私の感想であるが、天理高校と天理大学のトップは、間違いなく天理教の篤い信仰者であると思う。この温度差は非常に大きいのではないかと思う。なぜ私が組織トップの思想が学校の雰囲気を作り、信条教育の核をなすと考えるのかを説明したい。いったん天理教の学校問題は離れるが、一昨年度から今年度にかけて関西の2つの看護系私大で、不祥事や内部闘争が発覚し現在は法廷闘争までいっている学校がある。一部関西メディアでは取り上げられていたが、単にどろどろの「内輪揉め」であるため世間にとって大きな関心事にはならなかった。その2つの学校に私の知り合いがいるから詳しく聞いていたのが、原因はまさしくトップの人間による学校の私物化に由来する。人は権力を持つと、意のままに人事やお金を操作しようとする。もちろん、立派な校訓や理念があるのであろう。結局、その校訓や理念も、使いようによっては保身のために自己の正当性を担保する道具になる。トップが自己優先すると、それを支える教員の意欲は激しく低下する。結果として、学校の雰囲気は悪くなり生徒の質も悪くなる。そうなると学校はただの集金システムになり、教育という目的を失することになる。トップが代わることは組織の雰囲気を良くも悪くもするということだ。そして一度権力を握ったトップはただでは代わらない。
特に私立学校では、学校の個性というものが売りになる。天理教の学校の最大の売りは、専門知識よりも天理教教義に基づく「信条教育」であろう。生徒が信条教育に理解をもつ必要はない。なぜなら彼らは、これから信条教育を学んでいくからである。彼らが天理教のお膝元で生活し学ぶということが大切なのである。もし学ぶ内容が大切であり、偏差値だけが大切なのであれば、天理で学ぶ意味はない。天理教のお膝元である天理という雰囲気の中で、多くの天理教人と接することが人格成熟にとって最大の信条教育になると思う。天理教関連の学校で教えるものは、信条教育が子どもの人格成熟に多分に寄与することを信じていなくてはいけない。「天理で学ぶことに間違いはない」のだと。少なくとも天理で教育をするということは、そこを理解していないと本末転倒であろう。その天理で学ぶことの意味を理解していない者を学校の最高責任者に指名するということは、私は天理教にとっての「最大の過ち」になっていく可能性があると思う。それは、天理教の衰退が叫ばれている昨今において、全国にある1万数箇所の教会の会長に、天理教のプロではなくて、経営のプロを置き換えるのと同等の恥ずべきことだと思う。
1. Re:無題
>たんばいちろうさん
>(そんなきれいごとで飯が食ってけるか)の声が聞こえそうです(うそ)
この文章について今一度ご説明いただけると光栄です。特に綺麗事と嘘が何の目的語となっているのかです。誤りがあれば謹んで訂正します。
>でも、救うということに対して、外部の血を入れてまでやろうというのは、私は、相当の決断だったと思います。
外部の血を入れることが、なぜ「救う事に対する」結果となるのでしょうか。むしろ私は安易な決断だと思っています。なぜなら、本件に関して私はそんな綺麗事ではないと説明しました。つまり誰も救う事なんて考えていないのでは?個人や組織レベルでのお金や名誉のためでは?と。なぜなら時系列から考えて、まっさらな状態から思考してみることを前提としましょう。もし「救う事」が出発点であるならば、大学に改編すること、信条教育トップに外部人材を登用することの意味を説明できないといけません。結果が先にあるがために、最も大切な中身が抜け落ちているのではないでしょうか。「大学」や「効率」という結果を先に考えるから、中身がない状態を良しとするでしょうし、後で「救う事」という意味づけができるのでしょう。救う事→大学改編の理路展開が説明できていません。説明できているとしても、もっと他の「救う事の効率的な方法」はたくさんあるのではないでしょうか。なぜ、「救う事」が、わざわざ大学改編なのでしょうか。看護専門学校を「大学にすること」は確かに文科省が勧めていることではありますが、かならずしもそうする必要はありません。その上で「大学にすること」ありきで話がすすめられたのは、裏でそろばんの音がしたことは間違いないでしょう。
因果逆転で考えると、それは誤謬となります。Post hoc ergo propter hocというやつですね。
2. 無題
病院サイドで独自に医療大学をつくり、そこに天理教に無知な学閥ボスを入れること自体、天理教における医療の位置づけが崩壊していることのあらわれですね。病のさとしのようなことがこれだけ忌避されている現状で、病院側も信条教育は不要と思ったのかもしれません。(本当はそれだけが信条教育のはずはありませんが。)
天理教はよそものから外堀を埋められていくようにみえて、じつは内側からくずれていっているのかもしれません。若い人に変なバリ天が増えてきたのも気になります。かたちだけの信条教育もまた問題でしょう。
3. Re:無題
>thunder birdさん
的確なご意見に賛同します。「病のさとし」について、私はよく思うのです。その行為自体が人間の傲慢であると。もしくわ占いレベルの低次な思考かと。
あと、若い人に変なバリ天が増えてきたというのを是非教えて頂きたいです。バリ天とは、バリバリ天理教を信仰する=熱心な信者ということですよね?天理教の若者に何か起こっているのですか?
よろしくお願いいたします。
4. 無題
レスありがとうございました。
バリ天とは、社会性がなく、物事を深く考えなくとも、バリバリ信仰していれば、それでいいと思い込んでいるおバカな天理教の若者ということで、かつては批判や軽蔑の意味を込めて使われてました(たしか10年くらい前まではそうでした)。ところが、いまや、社会性などなくても良い、世間の物事など多少知らなくても、純粋に「おや」の言うことに素直に従っていれば正しい純粋な信仰者なんだというふうに、肯定的に使われ、お道の若者の間でも、いつのまにかバリ天というと尊敬されて一目置かれる存在になってきたのです。
こうして、天理教の若者の間に、原理主義者が幅をきかせてくるようになりました。これも、今の天理教の教育の中において、社会性のない硬直した信条教育が正統な信条教育だと思い込まれ、その路線でやってきた結果ではないか、とわたしは見ています。
信条教育が信仰の主観的世界の中に閉じ込められたなら、当然それ以外のところでは世俗主義的な傾向がもうれつに勢いを増してきます。天理医療大学が「おぢばの学校」でありながら、医療ボスたちによって、天理教の香りのしない学校として構想されてしまうのも、けだし当然でしょう。
このような形で、原理主義と世俗主義の分断が天理教内で発生し、どちらも心ある教友からはとても残念な事態だと思われているのです。両者は同じ現象の裏表の姿だと思います。天理教のトップは早くこれに気づいてほしいし、一般教友ももっと声をあげていくべきでしょう。
5. Re:無題
>thunder birdさん
ご説明いただきありがとうございます。私はバリ天という言葉だけ聞いたことがありましたが、そのようなニュアンスの違いがあったとは、勉強になりました。天理教の若者論については、その奇怪さを私も感じたことがあります。学生会や夏の高校生の修養科などの異常な雰囲気や、極端に理想化された天理教賛美です。「原理主義と世俗主義の分断」という意味では、信条教育の到達点とは何か考えさせられますね。誰のための信条教育か、そこを考えたいと思います。
ありがとうございます。