今日は、職場で最近の若者は仕事を覚えないというところから学力低下の話になった。
最近では、学力低下の話題については少しメディアでも落ち着いた感じがあるが
○○テストとかがある度に学力低下はコンスタントにメディアで批判される。
この間見たTVでは、学力低下が国別のランキングで示されていた。(よく覚えてないけど)
とりあえず、日本は学力ランキングが一昔前と比べて低下している。
私のようなペーペーの学者もどきが見ると
「たかが100人に聞いただけで信頼できねー」とか
「学力の定義とはなんだよ」
とか卒論指導のようないちゃもんをつけたくなるんだけど。
100歩譲って学力が低下しているとして・・・
もっとラディカルな視点で言えば、
「学力低下ってそんなに悪いことなのだろうか?」
という点については誰も言わない。そこまで意識は回らないのか?
(そういう点に気が向くような常識人はTVには出ないだろうけど。だって視聴者にはおもしろくない意見だから。視聴者にも責任があるのだよと言われそうな番組は必然的に視聴率が悪くなる。)
TVの人(全員じゃないけどほとんどの人)は
「いやー最近のこどもはやっぱあかんねー」「そうだそうだ!」しか言わない。
視聴者も「そうだそうだ」と思うことが一種のカタルシスになっているから視聴率は↑
でも実際はトップ10に入ってたのが20位以内とかその程度の話である。
もしトップ10から200位以内とかになったら問題かもしれない。
(日本は識字率だけでも世界的には普通に高い)
しかし、200位以内といのは不可能である。いくら日本が今後も質的に
変容しようともそこまではならない。なせなら、質的な変容は同じ変容のまま
ずっとは進まないからである。衰退が永遠に続くことなんて科学的にはない。
経済活動も然り。人間はバランスが悪くなると必然的にバランスを取ろうと無意識的に動きます。特に日本人は。
だからたかが学力が『少し』低下したぐらいで騒ぐもんでないよ。
質的な変容を考えるなら、悲観的な現状の日本は『実は』異常に恵まれている。
まずはそこからスタートではないのか。
私だけが楽観的なのか? こんな恵まれた国は他にないよ。
もちろん、年金とか社会制度や所得格差なんて表層的でしかない。
本当に重要なのは意識格差ではないか?
表層的な格差から意識の格差になってくると、所謂弱者と言われる人は
上昇不可能になってしまう。
例えば、経済格差なら¥300の宝くじで逆転できる。
しかし、それが意識の格差になると不可逆性になってします。
宝くじの買い方を知っていても、そこから得た賞金を資本とした貨幣の運動を知らない
と、ただ賞金を消費するだけになってしまい、即刻弱者に戻るのみだ。
つまり、貨幣の運動という資本主義の根本原理を知らないとただの一発屋で終わる。
格差で騒いでいるTV人を見るたび格差をなめるもんじゃないと思う。
日本は貧乏人も金持ちも立ち入れる場所は同じである。
例え貧乏でもそれなりの格好をして、入場料を持っていれば六本木ヒルズに入れる。
しかし、格差がある国ではプロレタはブルジョワが済む地域には入ることでさえ
拒否される場所なんて五万と有る。厚い壁で強制的に隔離されている地域もある。
刑務所ではなく、住宅地の話である。
もし、宝クジの買い方を偶然知っていても、新聞もTVもない。インタネットで株式も
見れないとなると、自分の知りたい知識ですら何か分からない。
ブルジョワに対する羨望の感情が沸々と憎しみに変わっていくだろう。
それがルサンチマンである。
だいぶ話が脱線して、重要なトピックが中途半端に終わってしまったが
それはまた別に書こうと思う。(特に格差問題ね)
つまり、学力低下という問題は表層でしかない。
より深刻なのは学力低下ではなく。
緩やかに情報へのアクセス権を放棄しつつあるということである。
そして、そういった状況をよしとする点ではないか。
学校の成績が悪くても、話し言葉がなっていなくても携帯操作ができれば
いいのではないか?
より深刻なのは現代日本で「ケータイって何?」とか「欧米かっ!って聞いたことがない」
という方であろう。それは学力とは無縁であるのだ。
もちろん前述したように日本ではそういった悲観的な状況は現実的でない。
しかし、一部の人間の間でそれが進行していることが深刻だ。
ここまで言って卑怯だが、将来なんて誰にもわからないのだ。
おわり。
おっと、これで終わったらこのページの存在意義はない。
こういう哲学的な探索はここではなくて、もっと詳しくて正確な所にあるよね。
私が上記考察で言いたかったことはもう少し深く考えませんか?ということにある。
「学力低下が悪いのか?」とか「それが示す意味って何だろう?」
と内省することが重要であると言いたい。日本では特定のオピニオンリーダー
の意見をそのまま全体のイデオロギーとする傾向が強い。
そしてオピニオンリーダーはTVの人であり、「TVに出ている」という時点で
偏っている人でしかないのだ。
では天理教と絡めてみましょう。
天理教の用木も同じですね。
私が対人的に使用されることを嫌う宗教概念(いんねん、り、とく、たんのう・・・)
を容易に口をつくという人は、その言葉を言った時点で思考制止しているしかない。
なぜなら、その言葉は絶対でありそれ以上何も言えないからである。
(誤解のないために。私は宗教概念を嫌いなのではない。むしろ立派な概念である。
それを人が人に言う行為が嫌いなのである。)
私はそういう人に向かって「それは違うよ」と言ったら「素直じゃない」とよく言われます。
そういった言葉が発せられる場合、ほとんどが難しい現実的な問題である。
「この問題どーする? わかんねーよ。んー」と考えてる人に向かって発せられる。
そういった時に非現実的な言葉をかけることは論外である。
確かに宗教学概論の授業などで宗教概念のトークをしてるときにはアリかもしれない。
しかし、現実的な問題の場合に発する場合では全く噛み合ない。
離婚しようか迷っている夫婦に「それは○○家のいんねんだから、たんのうせよ。
教会に足を運べよ。」と
言うのは問題のすり替えでしかない。
陽気ぐらしでもない。だって、援助じゃないもの。煙に巻いて洗脳してるだけ。
つくづく、私は天理教の「現状のおたすけ」は対人援助活動じゃないと思っています。
それだけ、「それを言って何のためになるの?」と言いたいことが多々ある。
困っている人を助けたいの?それとも満たされないあなた自身を助けたいの?
と考えさせられます。
ふーっ。。やっと本日の核心たどりつけました。
誰も学者のように専門的に「これは宗教か?」「この概念はどういう意味を持つのだ?」
なんて考える必要はありません。
あくまで人間的に「これを言われちゃ困るよね」とか「この人は食べ物がなくて困っている
んだからウダウダ言ってないで『ご飯食べる?』って聞いてみよう」とか。
実にシンプルだと思うんだけどなー
あ、そうだ。
半年位前にオーストラリアで虐待の取り組みをしている人と話をすることがあたんだけど、
その人が「対人援助で一番大切なことは何か分かるか?」と聞いてきたので
「相手の思いを想像(image)することですか?」と答えたら。
「違うよ。何事も『私の今やっている援助は、その人に本当に意味があるのかを己に問い続けることだよ。』」ということでした。ちょっと感動しました。
是非、用木の皆様も相手の立場という意味を真剣に考えてはいかがでしょうか?
そうすると容易な発言ができません。なぜなら、自分の中から「たすけたい」と
思う気持ちのもとで紡ぎ出された言葉は本物であり自分でしか責任を取れないから。
しかし、その言葉は実に人間的関わりであり、真の援助だと思います。
「学力低下だー」って騒いでいるより十分意味があると思います。
次回は「相手の立場に立つことは可能か」について書きますね。
おやすみなさいませ。
学力よりも。
個の充実した生き方を考える。
とても大切だなぁと。
平均を好み、周りを気にしすぎる。
日本人には、苦手な部分ですね。
民族の生まれ持ったDNAには。
長所短所は、場面で変わってしまいます。
でも、やっぱり。
日本は、恵まれています!
最低限の暮らしは、国が保証してくれて。
最低限の義務教育も受けられる。
でも日本にも、心ない親が為に。
深い傷を負う子、命さえも奪われる子もいます。
そして、世界には。
字も書けない、国籍も持たせてもらえない。
物心ついた時から、目の前で生死紛争。
そんな現実の子供も大人もいるのです。
そんな、豊かで恵まれた日本の中で。
おたすけ、という名目で。
一部の天理教の方々に。
時々、嫌悪感を感じてきた。
「相手のこと、回りの状況も考えていない、
問題の上部だけしか見ようとしない。」
事実の現実だと思いました。
自分の取り入れた、教え!?や宗教言葉を
使いたいだけのような。
ところ構わず、おさずけ!?をしようとしたり。
問題を伝えると、心定めがどうとか。
お願いつとめをしてるから…わざわざ伝えたり。
挙げ句のはてには、修養科にいけとか。
住み込みをしなさいと。
畑をお供えしなさいと。
問題をどこか置き忘れて。
相手の仕事や家庭も考えずに。
他の相手がある問題に対しても。
いんねんなどと、弱ってる個を責める。
天理教を表現しようとすることが。
おたすけと勘違いをしている。
問題を抱える人にとって。
現実味のない天理教用語よりも。
迅速な行動と、少しでも状況変化の方が。
有り難く嬉しいものです。
物事を天理教の中で、進めようとせずに。
問題を一緒に考えて、その時出来ることを。
一緒に考えることが、人対人だと。
解決法を、地域、医療、行政、司法等。
社会の窓口を調べて。
一緒に行くことも、方法の一つです。
長くも短くも、問題を抱えることは。
閉鎖的な環境と気持ちでであることが。
それが、問題なのだから。
それをわずかでも解放するのが、
一歩目であると思う。
天理教ほどの、日本中に。
末端まで枝のある組織が。
地域、行政、連携が薄いことが。
とても、不思議で残念でもある。
それも、宗教団体特有の。
閉鎖的な世界観を守ろうとする。
勘違いをしてる、プライドなのかもしれない。
天理教の方々が踏み込んできて。
天理教用語を並べて、マナーもなく。
日にちだけが過ぎて。
荒らすだけ荒らして、問題をこじらせる。
決まり文句は「信仰していないからだ」と。
結局。
膨れ上がった問題の後始末したのは。
問題を抱えていた当人であったり。
家族であったり、知人であったり。
そんな出来事は。
何度も経験して。
私以外の方の出来事も、見てもきました。
「あなた方は、一体何がしたいのですか?
お引き取り下さい」と。
その度に、反省もなく。
振り返りもしようとしない。
天理教の会長、関係者を。
理解は出来る許容は、持ち合わせていません。
おたすけとは。
天理教的にしようとしなければ。
少しの勇気があれば。
少しながらでも、出来ることだと。
その時は、その時にしかないのだから。
追記。
「畑をお供えしろと。」
友人の親父さんが、病に倒れた時のことです。
天理教の所属教会長に、そう告げられました。
熱心な信者さん家族でした。
友人のお父さんは、教会の役員を務めた方です。
結果的に。
農地の方は、農協関係者に諭され。
友人も教会に怒鳴りこんで。
大事にはなりませんでしたが。
部内でも、上級へのお供え金額が。
断トツにトップを維持する教会でした。
その数ヵ月後に。
お父さんは永眠されました。
「信仰していないからだ」と罵られたのは。
原因不明の不治の難病を発症し。
歩くことも困難になってしまった。
末端の事情教会の会長さんです。
家に来て、罵ったのは。
上級の現会長でした。
前上級会長、自身の親とさほど歳の変わらない。
自身よりも長く天理教に務めてきた人に対して。
発した言葉です。
生まれつき眼が悪く、車も運転出来ないが為に。
昔から電車を乗り継いで、駅から歩く時も。
近くの部内会長に、その都度頭を下げて。
車に同乗をお願いして。
上級に足を運び続けてきた。
本部にも大教会へも足を運び続けてきた。
上級に迷惑かけないようにと。
信者がいなくなった状態でも、少ない年金から。
上級へお供えも続けてきました。
教会、家族との問題も、長年毎日辛抱を続け。
会長さんの精一杯で、信仰し続け。
天理教組織にも、務めてきました。
親だ親だと騒ぎたてる天理教が。
自身より長く務めてきた人に対して。
それが例え、末端の事情教会長であろうと。
それが例え、封建制度の上級会長であろうと。
「信仰していないから、こうなったんだ‼」
と、日に日に衰弱してきている人に対して。
発せられる、その心が。
理解する必用のあるものではなく。
生涯消えることのない、怒りを感じて。
生涯消えることのない、怒りしか残らない。
上級会長に罵られた、4ヶ月後に。
教会長さんは永眠しました。
事情教会の会長さんも、
畑をお供えしろと強要された友人家族も。
同じ上級教会の、別々の部内教会でした。
両会長ともに、反省の色も、気にすることもなく。
平然な態度のまま、天理教業務を続けています。
両者とも、平成に入ってからの事実です。
誇張もなく、人づての話でもなく。
これは、私の体験し見続けてきた。
天理教のほんの、わずかな一部の現実と事実です。
天理時報、組織から刊行される書物に。
載ることのない、天理教の事実の。
ほんの一部の現実を、知って欲しく思います。
平成の年号に変わっても。
天理教の中身は、何も変わってない。
変わろうとしない。
変わろうとしない天理教内部者が。
変わろうとしないのは、
天理教をわかっていない周りの人間の方だと。
身上、事情と。
言葉を変えようが。
世の流れや、社会の出来事を。
無理矢理にも、天理教思想にあてはめようが。
天理教である前に。
人として。
私より先に、生まれ。
私より先に、世間を経験、体験し。
私より先に、大人と呼ばれる立場として。
天理教の狭い世界観しかなくとも。
社会経験がなくとも。
そのような、振る舞いを。
繰り返す一部の天理教会長、関係者に。
私自身が天理教で見てきたことは。
人が人を踏み潰してるだけではないか…と。
大人として、もっと恥を知ってもらえないか…と。
怒りそのままに。
直接の会話と文章で伝えました。
コメントを書いているうちに。
心情が止まりませんでした。
お詫びします。
天理教限らず、人の支えとなるはずの。
宗教によって、人生を踏みにじられる行為は。
もちろん、自己防衛が基本ですが。
体験者、第三者、世論が。
少しでも減らさなくてならないと感じました。
最低限、私自身の。
仲間、友人、知人であったり。
私にとって、大切な人達には。
体験者である、後始末の経験もある私自身で。
盾になろうと思います。
人は、人以上でも人以下でもなく。
私自身も、自分以上でも自分以下でもない。
そのままの、自分自身であり。
生を授かった一人の人間、個人です。
信仰心は、神という概念がなくとも。
それぞれの形で、必ず在るものです。
たった一度の人生です。
時間には必ず、限りが在るのです。
宗教組織などに、振り回されてはいけない。
人として、大切なことを見失うことが多いから。
時間を大切に、充実させたい。
自分の人生は、自分自身にしか歩めないのです。
命と時間は同じものです。
世間、社会、人生。
その時間の中には、様々な出来事があります。
沢山の情報も、思想も、欲もあります。
ただこれだけは、確かなことだと感じます。
最期に残るのは。
人と人。人間と人間。
たったそれだけなのかもしれません。
長文、失礼致しました。