今まで色々書いてきたのですが、私はちょいちょいマニアックな用語を使用します。
マニアックというのは天理教にだいぶ深くコミットしている人しか分からない、
普通の人なら「どういう意味?」となる天理教的専門用語です。
例えば・・・
「いんねん・とく・り・たんのう・ひのきしんetc」です。
確かに一般的に使われる用語(とく、いんねん)もありそうですか、
やはり天理教教義に合わせて考えると世間一般的解釈とはビミョーに異なります。
しかし、ここではあえて説明しません。説明を知りたい方は他をあたってください。
(申し訳ございませんが、「言ってる意味よく分かんねーよ」という方は天理教公式HPでは『教え』というコンテンツが用意されていますので、そちらをまずご覧ください。そこで説明されていない用語は自力でググってください。)
ここは原理主義ではないので、本来の意味解釈には言及しません。
しかし、現状における教義用語の使用は天理教原典の解釈とは異なるということは
十分考察しなくてはなりませんね。
つまり、どれだけの人がそういった宗教的言語概念を理解しているのかは
非常に懐疑的にならざるを得ませんよね。
ここからは私見になりますがお付き合いください。
用語の意味ですが、私は「そんなもの分かっている人はそもそも存在しない」と思います。
なぜなら、概念の継承は正確には行われないのが当たり前だからです。
例えば『赤』という概念でさえ、江戸時代の人と現代人ではイメージするものが違います。
縄文時代の人に「車といえば?」と聞いて4輪車を想像する人は皆無でしょう。
だって、4輪車なんて縄文時代にはないんだから。
もちろん、文化でも異なります。日本では「レインボー」といえば7色ですが、
どっか違う国は確か5か6色となるはずです(曖昧な記憶ですみません)
もひとつ日本で「犬の鳴き声は?」と聞くと「ワン」が当たり前ですが、
アメリカでは「バウ」が当たり前です。(辞書にも載ってるよ)
つまり、概念というのは時代、文化で大きく異なるのが文化人類学的基本です。
そして、天理教の宗教概念でさえそれが100%のまま継承されていると思いません。
むしろ、歪曲して(変化して)現代に伝わったのです。
「でも現存する書物にはちゃんと説明が書いてあんじゃん。事例(逸話集)もあるし」
と言われそうですが、そういった書物は昔のまま正確に伝承されていても
解釈する人間(読む人)の意識は同一ではありません。
では、誰が歪曲してのでしょう?
それはまぎれもない私たちです。
なぜ、歪曲したのかと言いますと、当然のごとく現代にマッチしないからですね。
例えば、おやさまのひな形の場面で屋敷に米泥棒が押し入っておやさまが泥棒を許して米を与えたという有名な話があります。しかし、これは現代では考えられません。
まず米泥棒がいません。もし泥棒を見つけて「お前何やってる!」と言ったところで見つかった犯人は有無をも言わさずナイフで一刺しというのが現代日本では常識となりつつありますよね。少なくとも犯人が「許して下さい~」と乞うほうが少ないのは自明です。
しかし、そういった慈悲溢れるおやさまのひな形を現代でどのように実践するかは難しい問題です。
そして、こういったアポリアを用木は実に懸命に実践しようとしています。
しかし、現場では通じない問題をどう現場に生かすかは誰も教えてくれません。
しかし、現場での不具合をエライ人達は米泥棒の話をするばかりで一向に教えない。
確かに、「ひな形はひな形(見本)なのだから、それをそっくりそのまま実践するのではなく
それをモデルとして、その心を学べと言われそうですね。」
はい。確かにそうです。しかし、その心の実践は現代では非常に難しい。
意識を学ぶ以前の問題であり、現場での生き方自体が分からない人が多いと思う。
つまり用木としての現代社会での立ち位置が非常に明確ではないということです。
例え、天理時報に載っているような成功者(「○○教区の○○さんが青少年育成で
○○褒章授章」)のことが見本として書いてあっても、それを読む大多数の平凡な庶民には彼らの真似はできない。
むしろ、教会・用木として生活苦で文化資本もない人間がドミナントではないでしょうか。
教会の信者はどんどん高齢化で減少しており、まず今日、明日のご飯を心配しなくては
ならない人です。そういった人にエライ方々のモデルは解離しすぎている。
それよりもより基本的な生活スタイルというものを提示してあげるできなのです。
解離したモデルで「こうしなさい」というのは圧迫でしかありません。
あ、なんか現代の大学生みたいなものですね。
最近は大学生の意識の低下がささやかれていますが、大学側としては学生に対して生活指導をしている所があるそうです。例えば、ゴミの出し方や自炊の仕方など。
しかし、大学側の対処が速いのはこういった学生の変化は必然であると認識している点であります。つまり、こういった学生を作り出したのは今世の中を邁進させている40代50代の我々であるという意識なのですね。
これに対して頭の堅い方々は「そこまで手取り足取り教えるなんてバカじゃねーの」と思われるでしょうが、こういった方法でしか将来を建設的にしていく方法がないのではないか?
今回も用語についての話だったのに、結局天理教内部の解離現象になりました。
結局どんな問題でもいきつく先は「もっと冷静に周りを見渡してごらん」ということでしょうかね。
結論として、宗教的言語概念をたやすく口にする人間は、人間同士のより深部にあるものを見失っているということです。ちなみに私は用木の人と話す機会があって、その人が「神様は・・・」とか「それはいんねんだよ・・・」とあたかもその人が自分を神様のように言うのを聞くと「あ、こいつはダメだな」と思ってしまいます。それは、人として間違っているし、そういう人はKYですね。(おじさま達。最近若者言葉で『空気読めない人』のことを『KY』
と表現するようですよ。若者の超越した言語感覚にはほんと脱帽しますよね。)
用木はあたかも私が人間的に優れていると思っている人が多い。(「この間お話したある用木はニュースの犯人を見て「今こそだめの教えてを教えてあげなきゃ!」とだいぶ見下ろした目線で息巻いていましたが。)
しかし、実際には「お前どうなんだ?人のこと馬鹿にしてんじゃ
伝え方、言葉…ほんと大切ですよね。
どこか、天理教用語に頼り過ぎてますね。
コピーしたかのように、
大量生産のロボットに感じることもあります。
特に、上級クラス以上の方々と対話してると。
こちらから。
「もう、結構ですよ。誰に対して、誰の為に
話かけているのですか? 一方通行で、会話に
なっていないので。」とお伝えします。
天理教ありき、でしか対話のできないのは。
どうなのかな?と思います。
伝え方は、真がズレてなければ。
自身の体験、経験、感性を含めて。
味付けしても、いいはずなのですが。
天理教関係者の方々に。
それを求めるのは、酷かもしれませんね。
ピラミッドの、天理教組織の中では。
今の若い者、ゆとりとか。
若い世代にしてみれば。
いい迷惑ですね。
その土台の環境を造ったのは。
40.50代の世代の大人ですよね。
私も40代に突入しましたけど。
その、40.50代の土台の環境は。
70.80代の、ダンコン世代ですかね。
責任感、親心とか。
もっと、自身で問わないといけないなぁ、
と思います。
自分達の世代の。
ツケを払い、尻拭いするのは。
20年後の世代です。
戦後の復興からの、日本人の。
先人の方々がの努力と精神力は。
本当に、尊敬します。
もちろん、きれい事ばかりではないのです。
自身の夢や希望も諦めて、泥水も飲んで。
私達が、こうして平和に。
世界水準より高い豊かさの中で暮らせるのは。
先人の方々が土台を造ってくれたからです。
そして、物量的には。
もう、充分な所まで来ていますね。
ただ、物量が豊かになると。
別の形で、ツケもゴミも同じぐらい溜まるのです。
日本は、先進国です。
民族性も、情緒豊かで、協調性もあります。
少し、個人を出すのが苦手な控え目ですけど。
そして、先進国の割りには。
リサイクルの考えがとても遅れています。
本当のリサイクルを、もっと考えなくては。
私達、40~70歳の世代まで。
年齢的に、行動力も知識、見識もある世代が。
次世代の為に出来ることは。
「自身が泥水を飲み、踏み台になること」
そう、愛読書(宗教学、宗教関連ではありません)
に書いてありました。
とても響きました。
私自身、そう在りたいと思います。
組織存続の為の、ピラミッド。
組織存続の為の、間違った親の伝え方。
人間性よりも、系統、血統、集金力を重んじる。
天理教に、踏み台を求めるのは。
無理な話ですが。
天理教の、幼少、若い世代、次世代にも。
心は在ります。
天理教を信仰する、しない権利もあるのです。
神や仏を語る前に、人として。
親として、先に生まれたものとして。
伝えたいこと、やらなくてはならないこと。
もっとあると思います。
宗教言葉を並べることは。
一つの責任逃れにしかなりません。
神様はこう言ってる、こう伝えてる、と。
子供や若い世代にすると。
「だから、貴方の考えは? 貴方はどうしたいの?」
そうやって、宗教言葉に染まる大人達を。
冷めた目で、寂しくも感じ思ってしまいます。
肉親ならば、なおさらなことです。
天理教の方々が、何に気を使っているのか。
何を伝えて何をしたいのか。
分からないことが多くて。
多分、伝えてる側も。
分らないのかもしれませんね。
そこら辺は、お互い様でいいのでは。
あまり、宗教に固執しないように。
人それぞれ、味は在るのだから。
人間味が薄くなってしまったら。
とても、寂しくも悲しくも感じます。
天理教が「上から目線」の代表的な行事が、「お運び」と「お許し」です。例えば、教会建物の壁を塗り替えるのに、どれほどの手続きとお供えと御礼が必要か。教会長ならご存知のはず。
教会長はじめ責任役員、その他の役という名のついている人が、教祖殿の御用場というところに居る真柱の前に進み出て、一同が平伏している間に、真柱から一言「許す」という、ありがたいお言葉があってはじめて工事に掛ることが出来ます。これがお運びとお許しの一例です。
北海道や九州、更には沖縄など天理市から遥か遠方にある教会は、このお運びのために要する旅費やお供え、御礼に至る費用は頭痛の種だと想像します。
徳川将軍が生きていたら、さぞビックリの制度で、教勢が疲弊する一因ではあるでしょう。
このことについて、経験者からより詳しいコメントを期待します。
隔靴掻痒 様
本席様時代に何でも神様に聞いていた名残なんでしょうね。当時は聞く方も、そのほうが安心安全だと思ったんだろうね。
人間の主体性と神のアドバイスの問題なのかもしれませんが、本席様御在世当時なら、無理のかかる普請はお止になったんじゃないのかと想像しますね。
今でもそんな教会があるんですね。
現在、真柱という人間に、壁塗りの許可を得ることに何の意味とメリットがあるんでしょう?
このことは重大な問題を含んでいるように思います。
>天理教が「上から目線」の代表的な行事「お運び」と「お許し」について・・・
役所の書類なら、マニュアル通り書いていればOKですが、お運びの場合、担当者によって書き方の指導が違います。毛筆で書きますので、間違えると大変です。一行間違っただけで、初めからやり直す事もあります。
何回も教庁に通って伺いを立てなければいけません。
ベテランの方でも書き方の正解を知っている人はありません。それは、教会課の担当者によって変わるからです。
本部の権威を見せつける役目をしているのが「お運び」と「お許し」です。
そして、大教会長の印鑑がいるのです。これが大教会長の権威です。
殺し文句は「必ず、真柱さまが目を通されます。」
とにかく、言われるがままに、そつのない書類を作成しなければならないのです。
それに対して費用がどれくらい掛かるかなんて事は、おかまいなしです。
ブログ<原典からの出発>植田義弘先生のブログです。
http://tenkoku0805.blog9.fc2.com/
天理教の「御供え」についてをリンクします。
http://6706.teacup.com/5051/bbs
命の泣き声~天理教への信仰でお悩みの方へ~
「命の泣き声」さんのホームページのリンクを張ります。
http://inochinonakigoe.grupo.jp/
大教会長を替えてくれという、お運びは不可能なんですね。
まるで将軍様に拝謁する、地方の小さな藩主の如き有様ですね。
表棟梁を変えてくれ、という、お運びも不可能でしょうね。
根本は、真柱の人間宣言から始まるのかな?
「一同が平伏している間に、真柱から一言「許す」という、ありがたいお言葉があってはじめて工事に掛ることが出来ます。これがお運びとお許しの一例です。」
天理教の時代錯誤の感覚がわかりますが、もはや時代劇のコントです。
こんな事を今だに真剣に行っているなら、教会長をする人も無くなるのは当たり前の話だが、なぜそれが上層部にはわからないのだろうか。井の中の蛙状態ですね。
本題と関係ないコメントが多いね。
記事にあるように天理教教徒の一番多い間違いは教えられたことを鵜呑みにしてあたかも神様の思いがわかった風な口を聞くことでしょうね。
絶対に神様の考えなど人間にはわかるべくもなく、そ前提でもってひな形やおふでさき等を頼りに思案しながら通らせてもらうのが大事なんだと思います。
この記事は是非全てのよふぼくに読んで頂きたいものです。
> 例えば、おやさまのひな形の場面で屋敷に米泥棒が押し入っておやさまが泥棒を許して米を与えたという有名な話があります。しかし、これは現代では考えられません。
> まず米泥棒がいません。もし泥棒を見つけて「お前何やってる!」と言ったところで見つかった犯人は有無をも言わさずナイフで一刺しというのが現代日本では常識となりつつありますよね。少なくとも犯人が「許して下さい~」と乞うほうが少ないのは自明です。
↑ この例示ですが、「屋敷に米泥棒が押し入っておやさまが泥棒を許して米を与えた」の例示には省略部分があります。
「使用人が捕まえた」が省略されていますね。「捕まえて代官所に差し出そうとした」。おやさまは縄をかけれれている犯罪者に上の立場で接したのであって「ブスリと一刺しと」、これはありえない状況での出来事です。
罪を認めていないものを許すという事は、してはならないことです。
中山みきの教えはおふでさきです。「かえし」という言葉がたくさん使われています。
「返し」というのは「お返し」の事で「仕返し」の事です。
残念の返しが、どう解釈しようと日本語では、報復を意味しています。
神の返しは平等で、中山秀司(みきの長男)は返しで、悪事後に1年で死んでいます。初代真柱も金あつめすぎて背中の腫瘍で苦しんで死んでいます。中山小寒も言いつけ聞かなくて子宮外妊娠で1年で死んでいます。
いんねんは同じです。
では「かえし」の教理は教団幹部説きますか? 説きません。
史実に隠しこまれているが「返し」を受けている現実があります。
「普請」、この返しですが、大教会が普請すると3年以内に主要人物が死んでいます。本当は隠されている部分まで含めれば100%でしょうね、不幸が発生しているとみなさます。
大教会史を天理教辞典で調べたら、8割以上が、死ぬ、大病するの結果をみています。
社会学的に調べてほしいですね。普請は墓場という、本当の恐怖を。
お筆先は一文字も変えていない書物であり「かえし」の事を、「違いあるなら歌でしらせる」「知らしたら現れ出るは気の毒や」と具体的に気の毒と、お示しになっています。
教団と教団幹部へのかえしについて、史実そのもので確かめれば、何が怖くて天理教にぶら下がっているか、わかるはずです。
「かえし」が怖い。です。
言葉は受け取る人によって、毒にも薬にもなります。
そういう観点から天理教用語を検証してみてはどうでしょう。
上には上の苦労があり、下には下の苦労があると言われますが、下の苦労は、それ以下に下がりようがない。一方、上の人が少しばかり下がることは出来る。しかし、その少しばかり下がる勇気がない。正に、天理教上層部の人達は下がる勇気がないから、上から目線の言葉ばかりを連発する。天理教の神様より上は無いんだとね。
冗談じゃない。天理教上層部の人達より立派な人達は、世間にたくさんおられますよ。