今日の里親番組について

先ほど、TVで里親の家庭のドキュメント番組があった。
私はあまりTVを見ないが、この家庭は高知の天理教の教会という情報を事前に
掴んでいたので見ました。
もちろん番組では天理教という言葉は一つも出て来なくて意図的に天理教的風景を
削除しているようだったが、一応「天理教○○教会」という看板と神殿の様子が
ほんのチラっと垣間見ることができた。ほんのちょっとね。

番組概要を説明すると、そこの奥さん(お母さん)が凄まじい過去を持った子どもたちと
懸命に向き合って行くというもの。(夫もいるがVTRでは存在が薄かった)
特に一人の女の子にクローズアップされてその子のライフヒストリーを詳細に記述してあるものだった。

これを見て私が思ったことは、この取り組みをしている家族は素晴らしいと思う一方で
用木のモデルにはならないのと用木の理想主義的幻想を昂進させるという危惧である。

まず、「モデル」についてであるが前回本ブログで説明したように
番組で取りあげられた家族(教会)の取り組みをマネすることは容易ではない。
物理的な教会の構造の問題、実の家族システムの問題、経済的な問題など
色々な問題が山積するが、何より意識がついていかないだろう。
私も何度か「施設」と言われる場所に行ったことがあるが、その実状は半端ない。
もちろん番組では、その取り組みを美化して「素晴らしい」というストーリーで表現するが
実状は非常にシビアである。特に家族の境界を超えて生活することの負担は
通常では想像できないくらいシビアである。
私も「おたすけ」の気持ちはあるが、決してマネなんてできねーと思ったものだ。

次の理想主義だが、天理教は理想主義である。
常々私が言っているように宗教的言語概念を対人的に
容易に採用する人は具体化し説明することができない人である。

具体的に説明できる人間は「それはね・・・」と現実に即したことが言える。
しかし、そういった人達は具体化したことが言えない。

なぜなら、何も知らないからである。
例えば天理教の教会で生まれ、天理大学を出てそのまま天理教関係に属する人は
現実社会を知らない。今、リアルな問題として社会で何が起こっているのか説明できない。だから曖昧な言語概念しか言えない。自分の言葉でストーリーを作る経験がない。
つまり、曖昧な言語概念しか言えない人は現実社会では通用しない幻想を信じている。
具体的なことに対して説明できないものだから、「いんねん、り、たんのうetc」と同様に
「愛・信頼・心」というものを多用する。理路は同じである。

話は長くなったが、その番組で里親が何故理想主義を昂進するかもしれないかと言うと、
代表的な場面があります。それはそこを経営している(会長夫妻?)お母さんとお父さん
が並んで「子どもに対してどのような考えなのですか?」みたいなインタビューを受けているというものでした。

奥さんは「子どもとはケンカしてぶつかり合えればいいんです。」
夫は「家族というのはドロドロしたものなんです。」
ということでした。特に問題なのは奥さんの言葉です。
これは一見すると「ケンカしてぶつかる」ということを肯定的に捉える
というガリレオ的発想ですね。しかし、この言葉は私たちがイメージするもの
とはだいぶ異なる。
では子どもとケンカするというのはどういうことなのか。
それは、具体的な言葉を投げ合うということです。
そして、その中には決して相手の口を権力で封じるような暴力的用語は使用できない。
例えば、約束を守らない子どもに対して「お前はとくがないんや!」なんて言っても
子どもは「はぁーウザ」と言われるのが今の子どもたちです。

言うこと聞かない子どもたちに対してあのお母さんは簡単な言葉で非常にシンプルに
言い合っておられました。そして、決して高圧的な抽象的言語を口にしません。

「ケンカしあえればいい」というのは面と向かって言い合うことですが、
どれだけの大人が、特に相手の口を封じるような言語を使うことに慣れている用木が
本当に面と向かえるのか懐疑的にならざるをえまませんね。

お母さんの「ケンカし合えばいい」というのと私たちが「ケンカし合う」という
意味は以上の点で水準がだいぶ違いますね。
もしあのVTRをそのまま「私もあれくらい頑張らなきゃ」と安易に思うことは危険です。
なぜなら、それは本当に深部にあるその人の持っている人間的バイアスを
包み隠してしまう恐れがあるからです。

援助者として重要な要素に、私がどういう対人的バイアスを持っているか
自覚することがあります。
つまり、私は何に敏感に反応するかということであります。
例えば、家族問題を抱えている人は家族問題を抱えている被援助者にはより容易に
コミットできるでしょう。
女性差別に敏感な人は、例えば強権的な男性にはより批判的になるでしょう。
あなたのバイアスは何ですか?こういうラディカルなひとだすけのトレーニングが
できる養成施設などはありません。つまり、社会を知らない人間は自分を知らない。
そして、人間というものがどういうものかという考察さえできない。なぜらなら、習慣化
されていないからですね。

偉そうな用木のみなさん。辛いでしょうか、「私は何も知らない」という自覚から
初めてはいかがでしょうか?