先日こどもおぢばがえりの記事において鼓笛隊活動を例に挙げ、信仰の世代的循環について話をした。すると「じゃあ縦の伝道のためには鼓笛隊をさせればいいんですね!」という感想をいただいた。う~ん、そういう意味で言ったのではないのだけど。なかなか自分の思いというのは相手には伝わらないものである。私なりに丁寧に説明したつもりなんだけどね。
私も本業ではコトバを主要ツールとして扱っており、コトバには強い思いがある。このブログではコトバがどのように発生し、浮遊し、伝達し、反響してくるのかは非常に興味深くモニタリングしている。しかしネットという未知の世界では実験的色彩が強く、学ぶことも非常に多い。このブログではコトバは変容し、一人歩きをし、時にはレセプターの情動を激しく揺さぶる危険性を学んだ。一方で、こんなブログのコトバでも人を励まし、レセプターの情動に安定をもたらすことも驚きとして学んだ。しかしやはりコトバは不安定でなかなか相手に届かない。面と向かっていてもコトバは伝わりにくいのであるから、顔も見えないブログではその思いは非常に強いものであるというのが一番の感想である。私の周りに「話せば分かる」ということを平気で言う人がいるが、コトバを生業としていれば話せば分かるなんて「話したい欲求を満たすだけの独りよがりであることに気付く。
再度説明すると、鼓笛隊をすることは信仰が伝達することの解答ではない。私が言ったのは社会学的に観察された現象でしかない。鼓笛隊活動が信仰を伝達する可能性を持っていることは容認できるものの、「鼓笛隊をさせればいい」という言葉からは、その可能性を感じることはできない。
なぜなら私が考える信仰の本質とはいかに信仰に対してオリジナルなメリットを見いだすかということである。「メリットだと?信仰を損得で語るなんてけしからん」と怒られそうだが、最後まで聞いておくれ。この場合メリットとは経済的利益ではない。精神的安寧のための信仰やコミュニティセーフティネットのための信仰、家族の精神的繋がりのための信仰、自己実現のための信仰、陽気ぐらしのための信仰と色々な複合的利益を指す。そして、それは天理教の雛型でもある。新興宗教の始まりは「貧・病・争」の救済であり、天理教も病の救済として現世利益を人に付与することが伝統的な入信動機である。つまり信仰することは何らかの”良きこと”がなければならない。そのためには信仰に対して個人的な意味づけをすることが必要である。その意味づけを他者が代わって行うことはできない。できないというより意味がない。意味がないということは信仰を継続する上で動機が脆弱ということである。
鼓笛隊に置き換えるのであれば、一番継続性が強い動機は「鼓笛隊をしたい!」と自分で意味付けを行い動機を駆動させることだと思う。子どもであれば、とりあえず大人から「鼓笛隊やりなさい」と言われるかもしれない。しかし継続させるためには「言われて始めたけど、鼓笛隊って楽しいよね」と自分なりに意味付けを行なわなければいけない。冷静に考えると当たり前な話だけど、「鼓笛隊をさせればいい」ということが本質的でないことが理解できる。鼓笛隊のスタッフ側からの視点で考察するならば、子どもに鼓笛隊をさせればいいのではなく、いかに子どもに「鼓笛隊をして楽しい」と思わせるかがポイントとなる。ここまでは一般論であるが、ここから私なりの持論を展開するならば「鼓笛隊をして楽しい」と子どもに思わせるのは、大人がいかに楽しむかであろうと思う。いくらコトバで「楽しめ」といっても子どもは興味を示さない。子どもが興味を示すのは、大人がいかに興味を示して楽しんでいるかであろう。大人が面倒臭そうに「やらされている感」でやっていれば、子どもも「やらされている感」が出てくるだろう。一方で、大人が「ちょっとこれはおもしろいんだぜ」という視点で取り組んでいるならば子どもは寄ってくる。これは教育者であれば誰もが経験したことであろう。
そして、これらは鼓笛隊に限られたことではないのかと思う。つまり上記の「鼓笛隊」の単語を「天理教」に置き換えてみれば、そのまま信仰の動機付けをいかに駆動させるかという話になると思う。「カイン、天理教ってめちゃめちゃおもしろいんだぜ」と天理教人に言われれば「え?なんで?教えてよ」と興味を示すだろう。それはコトバよりも、その人の表情や雰囲気が大切であることはコトバよりも本質をついていることだと思う。私の周りの天理教人を見ても「話を聞いてみたい」と思う方は、話の内容よりも天理教に対する生き方に興味がある。一方、私に信仰の話ばかりしてコトバに頼り切る方は、正直私は避けていると思う。コトバとはツールであり、コトバも生き物であることを考えた。
1. 縦の伝道
はじめまして。
言葉と教育を生業として過去に鼓笛隊にも参加していました。いつもこちらのページを興味 深く読ませていただいております。
「縦の伝道」のために鼓笛隊はいい活動だと体験から感じております。しかし、これは一つ の方策だと思います。つまり「縦の伝道=鼓笛隊」ではなく、「縦の伝道>鼓笛隊」だと認識しています。
通常、鼓笛隊というのは規律訓練もあり、どこの鼓笛隊でもそうだと思うのですが、練習は厳 しく泣きながら練習することもしばしばです。それでもやさしい指導者の青年さんがいて休憩には遊んでくれたり楽しいリクレーションもあっ たりで、行けばしんどいこともあるけど、それに勝る楽しいことがあるのを知っているからだと思います。それは指導者側も同じで、カインさ んの言う大人がいかに興味を示して楽しんでいるかという部分だと思います。会長さんに言われ、音楽の経験もなく鼓笛隊に関する知識もな く、鼓笛の講習にも参加せずに、ただ「やらされている感」を感じながら指導者側 がやっているのでは、意味がありません。
人が何かをする時に動機付けは非常に大切なものだと思いますが、教育でも目先のアプロー チやメソッドばかりに目を向けているのではなく、なぜそれをやるのか、なぜそのアプローチで行くのかなどにも目を向けないと昨今の「総合 的な学習」のようにうまくいくケースといかないケースが 出て来るように思います。教える側が本気で面白いということを感じ、言葉を使い学ぶ側にも伝え、共に面白さを共有できるようにデザインし なければならないように思います。言い換えればオーセンティックかどうかということで、うそじゃない本物志向をしなければならないという ことです。 これはカインさんのいう「ちょっとこれはおもしろいんだぜ」という部分だと思います。
以前、言葉以外の部分で伝達する身振り手振り、目線、表情などのノンバーバルな部分の研 究を読んだのですが、実際の発話以上に伝達という部分でノンバーバルな部分が占める割合はかなり高いということを記憶しています。本物志 向であれば、この部分も自然に熱を帯び、言葉足らずでも訴えてくるものは感じられるものじゃないでしょうか。