私が私であるための文章


今回もコメントの返事を書いていたら長くなったので、ブログに替えたい。

こんばんは。いつもありがとうございます。読者に配慮が少なくてすみません。私なりに分かりやすく書いているのですが、考えたことを一気に早打ちしてしまうので分かりにくくなるのかもしれません。しかし一気に早打ちすることにこだわる理由があるのです。それは「私の生の言葉」を新鮮なままに届けたいのです。私がブログを書いているのはほとんど深夜か早朝です。時には寝なくてはいけない時間や出勤しなくてはいけない時間になり書いている途中で止めなくてはいけません。そして後で続きを書こうと思うのですが、その時には途中まで書いた文章を読み返して「もう違う考えになった」や「そうじゃないんだけどな」と手が動かなくなります。現に、ブログを書いてもアップしないで途中で放置された文章が月に2、3回あります。ですので、ブログのほとんどはHere & Nowを重視しています。

時折、私の書く文章がよく分からないというご質問や、分かりやすく書けとご注文を頂くことがあります。もちろん、できるだけ訂正と修正を心がけていますが、正直私もよく分からない自分の文章に出会うことがあります。「あれ?僕は一体何を言いたいのだろう?」というように。自分でも分からないことを口走るというのは非常に創造的体験として私は捉えています。なぜなら言葉にすることで初めて「あ、僕はこんなことを考えるのか」と自明できるからです。
私が「自分の言葉」を重視することに対してラカンであれば、「お前の言葉なんて一つもない。全て引用である」と言うでしょう。確かに、私の使う単語や語法は私が今まで読んできた哲学者や思想家の筆致(それを訳した日本人の語法)に強く影響されていることは認めます。もちろん考え方でさえも。ソシュールでれば、「お前の使っている言葉から、お前は自由にさえなれないのだ」と言うでしょうね。私が使用する単語や語法は骨肉化しており、容易には脱却することはできません。
以上のことから、現在の私は「なるべく分かりやすい言葉で書こう」と「英単語は極力使わないように」の2つを頭の隅に置いています。しかしそれ以上要求されるのであれば「無理して読まないでいいよ」としか言えません。なぜなら無理をすると、それは私ではなくなるからです。もし読者が私の文章を読まなくてはいけない状況(例えば読者が私の生徒で、ブログの内容を理解しないと単位がもらえないとか)やお金を払って読んでもらっているのであれば、もう少し丁寧に書きますけど。

このブログを継続的に読んでいただいている方はお気づきですが、私の読解は構造主義に依拠することが多いです。ですので、構造主義的に天理教を分解する視点ばかりだと思います。私が天理教を構造主義的に読み解くことで驚いていることは「誰も今までやっていなかった」ということです。長い歴史があり、立派な研究機関を持っていながら、その輪郭の不安定さが表に出てこなかったのは最近になって身にしみている驚きです。ですので、今は天理教×構造主義に対してガシガシと新しい論点、視点を見つけ出すことを優先して取り組みたいというのが本音です。ブログのイメージから私は非常に気難しいおじさんだと思われることが多いですが、実際の私は意外に柔軟でフレンドリーだと思うんですけど誰かに聞いてみないと分かりませんね。長くなりましたが、これからもお手柔らかによろしくお願いします。

私が私であるための文章」への8件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 読み手は誰か…
    早速のご返事をくださり、ありがとうございました。
     生の声というのは大事だと思います。しかし、「人に読んでもらう」または「伝達」というところに重きを置けば、確実に読み手に真意が伝わるように推敲を重ねるようにするべきだと私は思います。自分の専門分野の用語も使いたい時がありますが、もし使わなければならない場合でも簡単な説明を前後に入れたり、あとで読み手がその用語を類推したり調べやすいように心がけるようにしています。勿論、その分野だけの人が対象ならそんなことはしませんが、ブログへのコメントという性格上、読み手を意識して書いています。
     私自身の考え方もピアジェ(スイスの学者)の影響を受けていると思います。しかし、更に強い影響を受けていると感じるのは、むしろヴィゴツキー(ロシアの学者)の社会的構造主義の影響の方だと感じています。実際、自分が実践してきた活動も根底にはヴィゴツキーの理論が流れていることが多いように感じています。また多くの方がヴィゴツキーの名こそ出していませんが、いろいろな教育分野の活動で社会的構造主義をもとに考え出されている活動例があるように、数年前から感じております。特に小中学校での活動例にあるように感じています。実際、調べてもいないので何とも言えませんが、学生生徒修養会でも、根底には社会的構造主義的活動を取り入れているようにも感じます。現場の方々がそれを意識しているかどうかはわかりませんが。しかし時報やその他の冊子からそれらを感じ取っているのは私だけではないようにも思っています。

     予め読んで下さっている方々にお断りしておきますが、私はおやさと研究所の人間でもなく、天理教教団を擁護しようとする立場の者でもありません。一天理教社会学研究所ブログのコメンター(ブログへコメントする人)だと思っております。また、あまりに具体的事例など多くを語りすぎると特定され、せっかく匿名で思いを書かせていただいているのに、それもできなくなってしまいそうなので、そっとしておいてください(^^ゞ
    また字数制限が気になるので、この辺で失礼させていただきます。

  2. 匿名

    2. Re:読み手は誰か…
    >匿名さん
    いつもありがとうございます。返事をさせていただきます。私はピアジェもヴィゴツキーも社会構造主義?もよく分かりません。私の書架には現代思想のニーチェからしかありません。すみません。
    読み手は誰かと言われれば、答えは私であるとしか言えません。確実に相手に真意が伝わるなんて幻想なのです。そこから出発することが構造主義なのです。相手のためになんて自己満足にすぎません。自己満足を自明のこととして推論し言葉を重ねなくては、余計に相手に対して失礼に当たるのです。なぜなら、相手のためと自分の声は両立はできないからです。正論では個である必要がなくなります。

  3. 匿名

    3. 失礼いたしました。
    カインさん、ご返信ありがとうございました。それと私の大きな勘違いがあったことをお詫び申し上げます。カインさんの文をよく読んでいなかった上に自分の勝手な思い違いで文を書いていたことに今頃、気づきました。自分では構成主義と構造主義?というのを読み間違え、自分自身も打ち間違いを犯していたことにご返信を読んで今更ながら気がつきました。私は哲学のことはわかりません。自分に関係のある言葉がいくつも出てきたと思ったのでよく読みもせずにコメントを書いてしまいました、お詫び申し上げます。過去の記事を読んでいて教育に携わっている方で、また天理教の話や鼓笛の話も出ていたので、つい同じような本も読まれ研究されていた部分も同じなのかと勝手に思い込んでおりました。カインさんの言う「確実に相手に真意が伝わるなんて幻想なのです。」を証明した形ですね。言葉のこわさを改めて感じております。天理教でよく言われる「談じ合い」という言葉が頭の中でぐるぐる回っています。また「そこから出発することが構造主義なのです。」ということもどういうことなのか考えています。今は気を引き締めろと一喝されたような気分です。100%真意が伝わらなくても、それに近い数字になれるように努力を怠ってはいけないと改めて思っております。また言葉足らずで誤解が生じることもあるかと思いますが、その都度、ご指摘いただければと存じます。カインさんの誠実な返信を読んで自分が気づかされたというような気がしています。言葉で伝えることの難しさを感じます。またその伝達度?がどのくらいなのかと考えると、個人の関心や知識やボキャブラリなどの違いもあり、真意がなかなか伝わらなかったり、理解できないことも簡単に起こると考えさせられました。今も書いていることが読んでいる方に「よくわかりますよ」と言ってもらえる文を書いているのか不安になるくらいです。毎回、ざっと書いてからおかしくないかチェックしているつもりでしたが、誤字脱字や思い違いが今後もあると思うので、その節はまたご指摘くださいますようお願いします。

  4. 匿名

    4. Re:失礼いたしました。
    >匿名さん
    いつもありがとうございます。生意気ばかり言って申し訳ありません。私の文章は誤字脱字や奇々怪々な文章ばかりです。指摘されても「適当に汲み取っておくれよ」と読み手に負荷をかけるばかりで、貴殿の真摯な教育的態度を見習わなければと反省しております。またご指導ください。

  5. 匿名

    5. >カインさん
    こちらこそいつも丁寧なご返信をありがとうございます。生意気などとは思ってもいません。生の声というかオブラートに包まれていないストレートな文に読者の方は共感する部分もあるのだと思っております。タブーな部分も臆することなく意見を書かれていると思っております。ただ、内容によっては言葉も慎重に選ばないと、それこそ真意が伝わらなかったり、誤解したまま反感を招いてしまうことになったりしたら残念だと思います。記事を書かれ、それを私が読んで気づかされたり、問題意識を持つようになったこともありますので、これからも楽しみにブログの方を読ませていただきたいと思っております。こちらこそご指導の程をお願いいたします。正直なところ、今まで生きてきておかしいと思うことがあります。教理に対してではなく、教団や教会の運営に対してです。勿論、組織の運営というものは人間がやっていることなので、おかしいことがあっても不思議はありません。ただ、感覚的に麻痺して修正がきかない部分もあるのではないかと感じています。しかし、おかしいと感じていたりしたことも長い歳月を得て、なるほど教えの通り、天の理なんだと思ったこともあります。具体的には書けない内容なのでお許しください。曖昧な書き方をしてまた自分の真意が伝わらないのでは?とも考えてしまいますが、代々の信仰のある人にはそんな経験もあるのではと思っております。また記事を書かれることを楽しみにしております。では失礼いたします。

  6. 匿名

    6. 参考図書の紹介
    <天理教を構造主義的に読み解くことで驚いていることは「誰も今までやっていなかった」ということです。>
    とカインさんは結論しておられますが、下記に紹介しますのは平成元年に刊行された本ですが、構造主義的にどのように評価されるでしょうか、できればお聞かせ下さい。
    『天理教の虚像と実像』(電子ブック)
    URLで表示された画面の「読む」をクリックしてパスワード(kyozo1011701)をコピーして貼りつけて下さい。
    (下)も同じ画面の下段にありますので、同様にパスワード(kyozo2011701)で無料講読できます。
    お手数ですが、「誰も今までやっていなかった」と結論される前に一読をお願いしたいのです。コメントの読者の方も、よろしければアクセスして一読をおすすめします。

  7. 匿名

    7. >参考図書
    みさと様
     アクセスしてすぐに以前、読んだ本だとすぐわかりました。この本の他にも確か「天理教よ蘇れ!」だったと思うのですがいわゆる批判本を読んだことがあります。自分の知らない事実などもあり、そうなんだと思うこともありました。しかし、それで天理教が嫌いになるとか教えが嫌になるということはありませんでした。教会長といえども人間です。人間である以上、過ちも犯します。それの事例をあれこれ挙げたところで教えが間違っているとか、天理教という宗教自体がおかしな宗教だとは思いません。組織の運営なども人間がやっていることですから、同じく過ちもあると思います。ただ、その過ちを隠したり、変に取り繕ったりしていては本質が歪んでしまうのではとも思います。おふでさきもおさしづも現代人の私には難解なもので易しい解説書なしには理解もできません。むしろ外国語に訳された書物の方がわかりやすいかもしれません。翻訳を通すとその言葉の本質の部分が訳されて読み手にも伝わると思うからです。現代社会の若い人たちにもわかりやすい形で“翻訳?”されたものがたくさん増えればとも思います。(既にたくさんあって、私が知らないだけかもしれませんが。)参考図書の紹介をありがとうございました。

  8. 匿名

    8. Re:参考図書の紹介
    >みさとさん
    いつもありがとうございます。ご教授頂いた文献を拝読させていただきます。感想はしばしお待ちください。

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