先週届いた天理時報の一面は「集会」について。この集会であるが、私は初耳である。天理時報のトップ一面を飾るくらいだから、天理教人にとっては周知された会合なのだろう。それは、会の主旨が天理時報に明確に書いていない点からも窺える。天理教人にとっては「知ってて当然」のことであるが、天理教人以外には理解しようと努めても分からない。「集会ってなんのための会合なんだろう?なんでこんなに直線的なネーミングなんだ?」という疑問を抱えたまま記事を読むが分からない。70周年目を記念しているのだから天理教の運営に関して重要な役割を担っていることは間違いないようだ。私のように天理教のことをよく知らない人も天理時報を読んでいるのに説明してほしい。
この記事に関して、私は脳裏に2つのことを想起した。
1つ目はこの「集会」の持つ機能である。全国から任命された天理教人が天理教の何かを決定しているのだろうが、それはどの水準で機能しているのかという問いである。前回のブログで俎上に挙げた「かなめ会」について、「かなめ会」で議論されたことであっても教区や支部では議論ないという話を聞いた。事情教会の整理というとても重要案件であってもである。極端なことを言えば「集会」で話し合われていることはすでに上層において「決定済み事項」なのかもしれない。記事の中の「教庁側と集会員の談じ合い」という文言からは、集会は表統領の管轄の諮問機関であるのだろうから、教義哲学ではなく組織機能に関わることを談じ合っているなのだろう。そもそも「かなめ会」でも事情教会の整理という件は議論されたは聞いていない。表統領からの報告と私は聞いている。だとしたら、天理教の組織機能を本当に議論されている場は、非常に限られた人間であるということだろう。それは真柱であろうか、表統領だろうか。民主主義の体面をとっているが、実体はどうなのだろうか。それよりも、まずは疑ってかかるという私の悪い癖だろうか。
2つ目は1つ目と大きく関わるのだが、天理教人の「談じ合い」という方法論である。天理教人は談じ合いが好きである。談じ合いは会議とほぼ同義であるが、異なるのはその意思決定プロセスに関して「満場一致じゃなきゃいけないよね」という空気が漂うことである。それは「みんなで決めたから、みんなで頑張らないといけないよね」という民主主義的な感じのことである。そして個人的経験として私は天理教人の談じ合いに関してトラウマがある。昔、定期的に天理教人の会議に出席を求められたことがある。私は実務的な専門家アドバイザーとして参加した。そこでは夕方から始まり、時には日付が変わるまで会議をした。様々な議題が議論された。しかし結論はすでに決まっていることが多いか、議長の意向のまま議決になることが多かった。時には激しく議論が対決されることがあったが、そういう時に限って議長の「神様はこう言っているのだ」という恣意的な教義の引用が披露され、我々は口を奪われて、その引用のまま一気に議決される。もちろん議長が信仰的に一番エライ人である。そういうことが繰り返される中で私は「こんな会議、意味ないじゃん」と倦怠し会議には参加しなくなった。その時はまだ私も若かったな・・・。
私が一番嫌悪するのは、民主主義でも独裁でもなく、民主主義の名を利用した独裁である。そう北朝鮮みたいな。そういった意味でも「集会」において多数の参加者から満場一致という決定を得るプロセスが非常に気になるのである。これは天理教だから気になるのではなく、もし多数の参加者を満場一致で議決にできるのであれば是非その方法論を教えてほしい。数年前に企業ではコーチングという言葉がもてはやされた。コーチングとは企業で人間をコーチ(育てる)するということである。そのコーチングの成果は主に「会議の方法」に民主主義が導入されたことが大きいと聞いた。つまりコーチングが導入される前は会社の意思決定は「エライ人」によって行なわれてきた。しかしコーチングの導入によって、会議の議決は無記名発言や無記名投票、ステイクホルダーの除去が当然となり、その結果「若い人がやりがいと責任を持つようになった」と聞いたことがある。会議の場において上司や自分を評価する者がいれば、円滑や自由な発言はできないのは誰もが経験したことであろう。それを「最近の若者は主体性がない・・・」と括ってしまっているようでは外部企業評価は「成長の見込みがない」となるだろう。
閑話休題。信仰的上位にいる人(エライ人)が、満場一致と言っていることを私は信じることができない。それは信仰的下位の人間が言うことに信頼性がある。震災の原因論に関して天理教では「高山の傲慢」(上にいる人間の傲慢)という言い方が一部の偉い天理教人から聞こえた。しかしその言葉が天理教の高山からしか聞こえて来ないのと同じ理路である。もちろん天理教は政治ではないのだから、独裁であっても構わない。独裁という強いリーダーシップの政治手法が国家を支えていることは世界を見れば一目瞭然である。どうしても独裁=悪いというイメージがあるが、それだけでは民主主義が良いという説明にはならない。民主主義にも欠点は多くある。ということで、天理教の談じ合いに関して私は非常に懐疑的な見方をしている。
1. 満場一致は難しい
集会に関しては公式HPにも70周年の記事があり、集会の説明もあったのでだいたいどんな会なのか想像できるんじゃないかと思います。
http://www.tenrikyo.or.jp/jpn/?p=4072
ここにも書いてありましたが、「集会はあくまでも談じ合いの理を生かす会合で、国々所々の教会の代表意見を持ち寄って、それから教会の行動を協議することが集会の意味である」とあるように“談じ合い”が大切なことだと天理教ではよく言われています。意思決定において談じ合いというのは効率も悪く、なかなか決まらないこともあると思います。その点、議論して意見が出尽くしたところで多数決で決める方が効率もよく民主的でいいと思います。
しかし多数決では「6:4」の割合になった場合、4割の人が反対しているわけで、いくら民主的に決まったとはいえ全体の半分近くが納得いかないことになります。私自身は談じ合いというのは、何かことをするにあたって心を一つにする過程であり、なぜ賛成なのか反対なのか、どうしてそう考えるのか、どうしてこれではいけないのかなど、よく話し合って皆の心を一つにそろえることが大事だと思っています。結論も出ず、お互いに理解もできず、上記の多数決のように半分近くに意見も割れている状態などは、まだ談じ合いが進んでいるとは思えません。心を合わせ一致団結してできる状態になっていないのに多数決で押し切って無理に進めては、いい結果は出ないと思います。私自身は談じ合って結論も出ず、皆の心が一つになって、ことにあたれないと判断したら、「継続審議」か若しくは「旬が来ていない」と判断してやめると思います。“談じ合い”とは天理教用語というよりは、人が生きていく上で必要なことなのではないかと思います。
2. 満場一致は強者の甘え
>匿名さん
ありがとうございます。
公式HPを見ました。集会は教庁の定例会議とどう違うのでしょうか。やはり機能が理解できません。想像できるでしょ?と言われるのであれば、形骸化した出来レースと自己満足しか想像できません。私は会議に絶対的上司がいれば、反対意見を持っていても言えません。守るべきものがある方ならそうせざるを得ないでしょう。
分かりやすく説明していだき感謝します。理念としては大変分かりやすいのですが、「心を一つに合わせる」という意味の行動的解釈を説明していただけるとよりクリアになると思われます。話し合いで結論が出ないから多数決となるのは功利主義の手順としては当然ではないでしょうか。多数決を行なうということは、少数派は切り捨てられるというのを同意書名したことになります。それを「心を一つに」や「旬がきていない」と輪郭をぼやけさせて上から目線で判断をすることこそ、強者の思うままに議決をコントロールする傲慢ではないでしょうか。「心が一つになった」「旬が来た」と強者が判断することに信頼性は保証されません。私はそのような恩着せがましい言葉に、まさしく民主主義を冒涜され疲労したのです。
3. >満場一致は強者の甘え
いつもご丁寧な返信をありがとうございます。数日前からちょっと調べたいことがあって「天理教集会史 第二巻」を読んでおりました。そこに集会の歴史や名称が変わってまた戻ったことについても書いてありました。二代真柱のお言葉には「集会は談じ合いの理を生かす会合で、その主な内容は本部の運営に衆知を集めること」とあります。教庁の定例会議がどのようなものかは知りませんが、集会のメンバーは全国各地の教区から推薦された47人の集会員で構成され、そこに表統領をはじめ本部の先生方もいて話を進めている会のようですね。この本を読むと全国の集会員から、かなりつっこんだ質問もあり、それに関する部署長も呼ばれ回答したりすることもたくさんあるようです。ある若い教庁勤務者に聞いた話ですが、表統領もかなり緊張して発言もかなり慎重だと聞きました。全国の分教会長や教区長をされている方もいるわけで、過去の代表質問、懇談事項を見ると教庁予算について、本部の運営、布教についてなど様々なことを話し合ってきたようです。集会員から本部役員に厳しい質問も来るようです。
私自身は「会議」と名のつくものは苦手で、できれば出たくないものだと思っております。話す内容によっては急ぎのことや白黒つけなければならないこともあると思いますが、時間的リミットまでは談じ合うようにします。「談じ合う」というのは私の中では心を一つにしていく過程のことで、罵り合うことでも批判することでもなく「本質を皆で究めていく」ことじゃないかと考えています。クリティカルな視線も大事ですし、人の意見をよく聞くことも大事だと思っています。自分の考えと違う人にはなぜそう考えるのか、どんな事情があるのかなど詳しく聞くべきだと思っています。外交でもそうですが、仲よく円満にというより、最初から合意などはなく、話し合って妥協点を探っていくこともあると思います。ただ、その妥協点を探るにしてもお互いが納得できるように「談じ合う」ことが大切な気がします。そして「談じ合える雰囲気」を作ることも大事だと思っています。権力のある者が一方的に流れを作り、勝手に「心が一つになった」「旬が来た」というのは私の中では論外です。形骸化した会議体はなくすべきで、名前は「会議」でも絶対的な強者が司会で、意見を言っても仕方がないものなら「報告会」と名前を変えるべきです。(字数制限いっぱい?)
4. 集会の歴史と制度をご存じないままでは
現状分析はできないと思います。その一端を申しますと、集会員は教区の代表という立場であっても、教区管内の教会が自主的に選出するのではなく、教区長の推薦によって立派な神殿のある分教会長が決まるのです。集会員を推薦する教区長は、本部の表統領が真柱の認証を得て決めることになっています。ということは、選挙によって決定されるシステムは一切ないので、集会員が上に都合の悪い発言をしたり批判したりすれば、二度と推薦されなくなり、上に都合の良い集会員だけが残って、突っ込んだ議論はせずに満場一致で決まるというわけです。法律で運営されるのが民主主義ですが。教団の場合、民主的に選出された集会員が、原典を基準として議論すれば間違いはないはずです。とりあえず以上です。
5. Re:集会の歴史と制度をご存じないままでは
>みさとさん
いつもありがとうございます。大変勉強になりました。立派な神殿のある教会長というのは興味深いですね。
ただ、歴史と制度を知らないからといって分析はできないというのは今の時代には珍しい封建的干渉だと思います。ですので私は思ったことを発言します。もちろん反省と勉強はし続けますのでよろしくお願いします。
6. Re:>満場一致は強者の甘え
>匿名さん
ありがとうございます。「心を一つ」や「本質を皆で究める」「納得」「よく聞く」ということを定義していただかないと具体的に談じ合えません。貴殿のおっしゃることは理想主義の域を出ないと思います。談じ合う構造の検討をよろしくお願いします。