最近の私と天理教の接点

私は週に数回、近所をランニングしている。今は健康志向のランニングブームであり、街を走る人も数年前に比べて非常に多い。しかし私のランニング歴は長い。もう10数年以上前から走っている。振り返ってみれば、空白期間にタバコを吸ってたときもあるが、今は禁煙も達成し健康的である。来月には市民マラソンを走る予定だ。
近所を走ると天理教の教会3カ所くらいを通ることもある。その中で一番大きい教会は路面の掲示物も多く、私はランニングを止めて見入ってしまうこともある。その教会の天理教人とは面識がない。
私が走る時間帯は早朝か夜なのだが、今月に入って夜に走ると天理教の「神名流し」に遭遇することが重なった。「神名流し」とは天理教の伝統的布教手法の一つである。私はその手法には布教戦略としては懐疑的立場である。「神名流し」とは天理教人が列を作り歩くのである。先頭の人が紫色の布地に「天理王命(テンリオウノミコト:天理教の神様の名前)と白抜きに書かれた幟を持つ。2番手が、拍子木を鳴らし、全員で天理教の歌をうたいながら行進する。その布教的意味については何度も論じているが、今月が始まってまだ10日あまりに2回も遭遇するのは驚きである。今までも近所の駅で天理教人が布教をしているのは月に1回ほどは見ていた。ツイッターのTLを見ても、「神名流し」と遭遇したと思われるツイートが多い。好意的ではないのが多いが。調べてみると天理教公式ホームページには今月下旬には天理教の布教強調週間があるようだ。それに前だって青年会が布教強調週間を設けているようだ。私が遭遇したのは青年会の神名流しだったようだ。
もう一つは、書店で手にとった雑誌「文藝春秋SPECIAL」の後半に「がんと向き合う宗教病院」という記事があった。その中に天理教の「天理よろづ相談所病院」(通称憩の家)が1ページに渡って扱われていた。そこでは病院の医師230人のうち天理教信者の医師は20人程度であり、開院当初から京都大学と密接な繋がりがあり、天理教信者の受診率は全患者の1割程度、手術を控えた患者の8割が天理教教師からの「おさづけ」(祈り)を受け、元々は結核?の療養病院であったが、高円宮?から「なんで天理教はしっかりした病院を持たないのだ?」という言葉を受けて二代真柱が設立したこと、過去にキリスト教信者が院長をしたこともあるという事実は興味深い。雑誌では天理教以外にも関連病院を持つ宗教病院が扱われていた。どれも宗教的祈りが強調されていたが、ほとんどがホスピス病棟のことである。天理教ではこれからホスピス病棟を新設するようだ。
http://www.bunshun.co.jp/mag/special/

先週の天理時報を読む。天理大学の宗教学者が「無縁社会」について論じていた。「無縁社会」という言葉はNHKの番組に由来するが、それ以降天理教の「無縁社会」の引用回数は非常に多い。私はこうした天理教の悲観的な印象形成に対して「あんまりよくないんだけどな~」と思いつつ見ている。言葉を与えるということは、そこから抜け出せないということでもある。たぶん今後天理教は、ずっと「無縁社会」と言い続けるだろう。なぜならこの言葉は「最近の若者は・・・」という若者論と同じで、いつの時代になっても終わりがないですもの。そしてそこからなかなか脱構築できない。加えて「無縁社会」と言うことで自己の存在意義を強調できるのである。これは正直言って質が悪い。「あまりよくないんだけどな~」というのは、悲観的な思考が身体化してしまうと、悲観的事実を渇望してしまうということである。悲観的事実が起こることが自己の存在を証明するということなのだから。東日本大震災で半年が経ったが、震災の支援なのに生き生きした人を見なかっただろうか。「今こそやらねば!」という人はあちこちで見かけた。そして、それが被災者との最大の壁であると私は言った。それは被災地に「ひのきしん」で赴いた天理教人も例外ではなかろうかと思う。そのメンタリティは、自己の存在を形成する上では非常に脆い。代表的な話に「消防士は火災を渇望する」というのがある。火災なんて起こってほしくないが、起こらないと消防士の存在意義が無くなる。そして火災が起これば消防士は日々の訓練の成果を発揮できると生き生きとするのである。被災地に行った天理教人が、帰ってから生き生きと被災地の様子を誇らし気に語っている表情を私は忘れられない。消防士の話に戻すなら、消防士はそのペシミスティックな満たされなさを自覚する必要がある。これは天理教人も同様だと私は思う。
「天理教と無縁社会」については次回も考えたい。

最近の私と天理教の接点」への4件のフィードバック

  1. 匿名

    1. >最近の私と天理教の接点
    「火事も犯罪もない平和な世の中が来ればいい。」という言葉に対して面と向かって「それはおかしい!」とは言 いにくい感じがします。しかし「その通りだ」というのも単純すぎる感じがします。消防士も警察官も必要のない世の中が来ればいいのでしょ うか。そういえば以前、火をつけて回っていた消防団員のニュースがありましたね。不謹慎ですが笑ってしまいました。消防士も警察官も火事や 犯罪がない方がいいと思っているはずです。同じように天理教のおたすけ人も身上・事情はない方がいいと思っているのじゃないでしょうか。 しかし、現実は火事も犯罪も身上・事情もなくなりません。目の前で燃えていたら消す。目の前で身上・事情で困っている人がいたら、何とか してあげたいと心を尽くす。ただそれだけのことです。消防士は普段から厳しい訓練をして非常時のために備えています。火事がなくても存在意義がなくなることはありません。天理教のおたすけ人も同じだと思っています。むしろ、おたすけには出ず、組織のこと、広報のこと、信者獲得のこと、お供えの減少など、結果として現れることばかりに目を向けて人をたすけること以外に心を使いすぎている気がします。もちろ ん、本当の信仰に目覚め、おたすけに回っている人がいることも知っています。しかし、私の知る限り、そういった人はあまり声を上げて人前 で話したり、講演をしたりはしません。むしろ黒塗りの高級車に乗って、演壇のマイクに向かって話す人の中に、普段はまったくおたすけなんてしない、自分の足で人助けに歩いた経験もないという人がいるように思います。ピラミッド型の組織の上の方にいて、生まれた時から贅沢三昧の生活をして、贅沢だということさえ気が付かずに育てられ、時期が来れば立派なポジションを与えられ、人前でお道の信仰とは…と一席ぶちまけています。この組織のピラミッドの下の方で生まれ育った人はそんなことをいやというほど見て知っています。しかし、 生まれた時から後継者としてその道しか選べず、多くの役員からも後継することを望まれ、だめになっていくピラミッドの上層部の子弟のケー スは気の毒としか言いようがありません。早く末期症状から次の段階へ行って欲しいものです。

  2. 匿名

    2. Re:>最近の私と天理教の接点
    >匿名さん
    ありがとうございます。小生の論点と貴殿の論点は大きく異なっています。小生は存在論的な自己意識の考究を行ないましたが、社会における存在はこの回では議論しておりません。
    上層部に対して贅沢三昧や「普段はまったくおたすけなんてしない、自分の足で人助けに歩いた経験もないという人」という解釈は過度に飛躍しており、ルサンチマンです。なぜ貴殿はそのような偏見や共産主義的思考を持つのか、その理路を示していただけると幸いです。

  3. 匿名

    3. >カインさん
    こんにちは。コメントに対しご回答くださりありがとうございます。論点がずれていて申し訳ありません。また書いているうちに過去のことを思い出し たりして感情的になっていたかもしれません。ただここまで書いておわかりかと思いますが、私はどっぷりと天理教の中で育ち、その組織の中にいる人間です。「解釈 が過度に飛躍している」とは思ってもいません。自分の目で見てきた事実や経験に基づき文を書いているつもりですし、ルサンチマンと言われても仕方 がないです。ルサンチマンと言われるだけ私はまだ「まし」かもしれません。それさえも信仰的?に押さえつけられて考えなくなっている人もいるわ けですから。「貴殿はそのような偏見や共産主義的思考を持つのか、」と言われましても私自身は偏見とも共産主義とも思っていないのでちょっと答え に窮します。ただ自分の書いた内容の裏側にあることを1000字内でお伝えすることは無理ですし、更に具体的な事象をあげて話すと個人が特定され 誹謗することになってしまうので簡単に書くこともできません。また私自身も特定され、ここに何も書けなくなってしまいます。曖昧な表現になって申 し訳ありません。既にアウラを失ってしまった今の天理教がどうなっていくのか気になっているだけかもしれません。もう書き込みはやめます。いつもご回答くださってありがとうございました。

  4. 匿名

    4. Re:>カインさん
    >匿名さん
    ありがとうございます。ルサンチマンと申しましたのは、理論的根拠がなく教義や経験だけだからです。私は貴殿のご経験を否定しているわけではありません。私がお聞きしたいのは貴殿の経験や具体的な個別事象ではありません。なぜ貴殿が「贅沢三昧やピラミッドの上はダメになっていく」という眼鏡をかけられたのかという論理展開なのです。A=BとB=CならばA=Cが成立しますが、理論的根拠なしにCだ(贅沢三昧だ)と言われても飲み込めません。「貧に落ちきれ」という教義があるからですか?では、それは現代ではどういう意味なのですか?あなたは教祖のように無償で財産を与えているのですか?その解釈は人それぞれではダメなんでしょうか?貴殿の経済状況は分かりませんが、ホームレスの方や貧しいアフリカの方からみれば衣食住に不自由のない私たちは贅沢三昧とピラミッドの山の最たるものではないでしょうか。教義を恣意的に利用し「私は正しいが、あいつらはダメだ」というのは妬みや僻みであり、ご自身の満たされなさを相手にぶつけているルサンチマンではないでしょうか(皆一緒じゃなきゃいけないという共産主義的思考)。私は、貴殿の結論に対する天理教の説明をお願いしたいだけなのです。それが抜けているために過度に飛躍していると表現しました。日本人は集団的意識から離れることを嫌いますが、私は天理教人が豊かに(贅沢三昧)生活しておられるなら、それは経済が流動することなので歓迎したいです。羨ましいですが。信仰的にもそれで上層部が喜んでいるなら問題ないのでは?と思うのですが、なぜ貴殿がそのように思考するのか、それが知りたいだけなのです。私は天理教人の教義による思考停止を批判していますが、そこに負荷をかけないと天理教は天理教人のための天理教でしかなくなります。教義を社会でどのように活かすのか、どのように考えるのかということを考えることは社会との架橋であり大切なことだと思っています。
    今後コメントをしていただけないということで、意欲を減じてしまい申し訳ありません。今後のご健勝をお祈りしています。

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