前回、天理教の「無縁社会」について論じた。悲観論者は「無縁社会」も含めてネガティブな見方から抜け出せない。同時に悲観論者は悲観的事実が起こることで悲観論に正当性を持たせるという屈折した心性を持つ。「ほーれ、わしの言ったとおりじゃ」と。現在の天理教の限界として、悲観論であることでしか天理教としての存在意義は確立できない。この悲観がどこから発生しているのかを考えると、「陽気暮らしなんて達成できない」というパラドキシカルな無力感から構造的に悲観論が生み出されているのではないだろうか。もし陽気暮らしという概念が明確に具体的であるならば、天理教人が行なうことは悲観論ではなく陽気暮らしへの具体的実践でしかない。陽気暮らしというゴールがぼやけているがために、「おたすけ」という実践の理論的根拠が乏しくなるのは実は多くの天理教人が感じていることではなかろうか。その証拠に「喜ばなければ」という天理教人は、次には決まって現代社会がいかにダメであるかを語る。こんなにダメな社会だから天理教の教えが必要だ!というのは理解はできるが、手法としては悪徳商法と遜色ない。実際に天理時報を見ても、エッセイ記事の文頭は必ず「現代は人間同士の繋がりは希薄」だの「ひきこもり、ニートは増加、心が病んでいる」だの定型文が登場する。私はこういう文に接するとウンザリする。「あぁまたか」といった具合に。なぜなら、そういった言葉を発することで、結果として信者獲得には機能するかもしれないが、陽気暮らしには遠ざかっているのではないだろうかというジレンマを抱えるからだ。高橋源一郎は社会時事を論じる際には対案を提示すべきと言っていたが、社会的病理現象に対して「だから天理教が必要」というのは摺り替えであり対案にはならない。だから、そういったネガティブな言説を論じてはいけないということを言っているのではない。せめて、その屈折した心性が天理教には存在することは自覚した方が健康的であるということであう。自分にも他者にも。
「無縁社会」について論じようと思っていたら、天理教の悲観論になってしまった。私の悪い癖である。「天理教と無縁社会」については次回。