無縁社会について天理教では語られない大切なこと

前々回天理教が好きなトピックスの一つである「無縁社会」について触れた。それを今回は深めたい。天理教の無縁社会に対する見方は「昔は良かったが、現代は地域社会の縁が薄れている。だから昔のように縁を大切にしなきゃいかん」という方向性でしかない。以前、私は天理教の主張する無縁社会について「単に昔に返ろうではダメだ」と言った。「昔に返ろう」では進歩がない。それらを論じている方の「オールウェイズ」的な憧憬は、単なる時代的後退でしかない。日本が今後もっと貧しくなれば話は別であるが、まさか自分たち昭和世代が勝ち取ってきたものを手放すことなんてできっこない。これらは安易な後退論であり現実的ではない。既成概念をぶち破るという脱構築は、「今迄と違う考え方」ということなのだが、それは今迄しか知らない私達には、今迄学んできた以上のことを簡単にできるわけがないというジレンマを孕んでいる。そのために私は「オレは脱構築ができるぜ」という人間を私は安易に信じない。それは「声をかけあう」とか「心を寄り添う」という小手先のレベルではない。それは天理教の教義の深化であり、軸のある哲学が必要となる。まずは何気なく使っている言葉の自己点検からしかできないだろうと思う(教義の改編ではない)。「陽気ぐらしとは?」「人を助けるというのは自己満足なのでは?」という原点回帰の洗い直しから始まると思う。
そのことの一つに、私は天理教の「喪」の祭礼や死後の世界について「どうなってるんだろう」という疑問を持った。というのは、無縁社会というのはNHKの造語であるようだが、社会学的には無縁仏の増加というトピックを最近耳にすることが増えたからである。無縁社会というのは抽象的な概念であるが、無縁仏の増加という数値は無縁社会を裏付ける証拠であろう。
宗教で無縁社会を論じるのであれば、死後の世界観は欠かせることができないトピックである。現に仏門では無縁仏の増加について、檀家でなくても葬祭を受け入れようとするところも増えているようだ。宗教の前提である「喪」の祭礼や天理教の「出直し」(死)について私はある程度理解しているつもりだ。そして宗教の起源というのは死者の弔いに由来する。死者を弔うことから死後世界の想像や、霊界に送り出してやらないと祟られるということが発生する。それらの多くは、死者を迂回しつつ我々の重要なイニシエーションとなる。きちんと送り出してやらないと、死者は様々な形で蘇ってくる。これらは宗教学や文化人類学で語られることである。仏が存在しない天理教ではいんねんという概念が一番近いだろうか。
天理教は現世利益を中心とした宗教であることは承知しているし、宗教活動の一つとして現世での人間同士の縁結びに対応することは理解ができる。社会学では宗教の機能としてコミュニティを繋ぎ合わせることや、自我の成熟や他者の受容という側面で宗教の役割を説明できる。むしろ社会学では数字で説明できない霊的な部分は扱われない傾向が強い。しかしそこにこそ宗教学の存在意義がある。この場合の宗教を「死後の世界や霊は科学で説明できない」と一笑に付することはできない。葬祭という区切りを持つことは、他者の鎮魂を願う有史以前の人間特有の特性である。それが適切に達成されない場合には死者は鎮魂、成仏できない。これは我々人間特有の基本的な信仰であり、身体に深くコミットしている身体感受性である。私は田舎育ちであるからその傾向が強いのかもしれないが、葬祭などは「ちゃんとしたい」と思う。浄土真宗では死者を穢れとは捉えていないため「御清めの塩」というものがない。この事実に初めて直面したときに、私は信仰や教義以前に身体が「ちょっと塩がないとヤだな」と反応してしまう。こういった体験をしたことがある方は多いのではないかと思う。それは祭礼には厳格な手順があり全てに意味のある作法がある。その手順が抜け落ちた場合に、「ホントにこれでいいの?」と違和感が生じる。その違和感とは口を持たない死者に対する罪悪感と恐怖なのかもしれない。
天理教が務める葬儀に、私は何度か参列したことがある。基本的には神道作法であり、もちろん厳かで厳粛である。しかし、その意味性について私はよく知らない。
だいぶ前置きが長くなったが、私は天理教の死後の世界についてあまりよく分からない。このブログで何度も俎上に挙げている臓器移植も今回の無縁社会も、死後の世界観とは密接に関係する。この死後の世界について私が天理教人に聞けば「人間の身体は神からのかしもの・かりもの」「魂は自分のものだが、身体は神様に返す(出直し)」「死んだら魂は御霊(祖霊殿)になる」という言葉が聞かれる。同時に、それらはそれ以上の探索を拒むような思考停止装置として機能する。しかしこの思考停止装置としての重要性も私は認識しているつもりである。「ケ」というアンタッチャブルは、安易にアクセスできるようなものであってはならない。しかしそれを宗教教義の根幹として容認していいのだろうか。この塩梅は非常に難しい問題である。それはまた別項で論じたい。
天理教の死後の世界については私が聞き忘れているだけか、私が聞いた天理教人が知らないか説明し忘れただけか、そもそも天理教では死後の世界に対して教義を持たないのか、どれかであろう。もし天理教では死後の世界に教義を持たないのであれば、それは宗教団体として非常に由々しき課題であると思う。「出直し」という教えと祖霊殿の意味、お墓の意味、骨の意味、死後の肉体の意味がどういうように整理されているのだろうか。一つの例えとして臓器移植における天理教本部の見解は「脳死状態は神様からのかしもの、かりものの状態であるから、臓器移植は認められない」とする。ということは天理教にとって死体は「かしもの・かりものの状態ではないから、煮るなり焼くなりバラバラにするなりお好きにどうぞ」ということになってもおかしくない。しかし、現実問題として天理教人はそうはしない。そこには私には知らない天理教人の教義や暗黙知があるのだろうが、私は不勉強なため知らない。申し訳ない。
天理教は信仰がなく身寄りのない人間に対して葬祭を執り行うのであろうか。それとも「身寄りのない人間の葬儀なんてできないよ」と行政に丸投げするのだろうか。

無縁社会について天理教では語られない大切なこと」への3件のフィードバック

  1. 匿名

    1. おひさしぶりです。
    半年ほど前にネットをみてこのブログを見つけて、おもしろいなと思い、このブログ見るためだけにアメーバに参加したのですが、最近忙しくアメーバ離れていたのですが、久しぶりに色々考える時間があり思い出して見に来たのですが、出直し、祭儀などに関して以前に天理教徒として疑問に思うところもありしらべまして、本当に全然参考にならかいかもしれないんですが、一天理教徒として、知っている事をコメントできればとおもったのですが、いろいろ書いている間に2000字ぐらいになってしまい、遅れませんでした 笑 メッセージも送信できないみたいでアメーバよくわかんないですが、メッセージ送れるようにしていただけるとありがたいです。初めてのコメント、また一ヶ月前のブログに対してってことで少しもうしわけないですが、よければお願いします。

  2. 匿名

    2. Re:おひさしぶりです。
    >samuzoraさん
    ありがとうございます。メッセージ送信できないですか?アメーバの方は特に拒否設定はしてないので、送れると思いますよ。もし無理であれば、私のアドレスに送ってください。アドレスはプロフィール欄に載せてあります。
    できればやり取りも含めて、思考をオープンにしたいのでコメント欄に載せていただけると他の方も読めますので建設的かと思われます。よろしくお願いします。

  3. 匿名

    3. ご返事ありがとうございます。
    とりあえず、メッセージは送れなかったので、メールさせていただきました。メッセージが送れないのは僕側の問題かもしれません 笑
    アメーバもう少し研究します。

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