メールの返信について

懇意にしている用木さんからお誘いメールがくる。

彼のメールはいつも「明日ヒマ?」の一文から始まる。

このメールを見るといつも憤りを感じる。
なぜなら「めんどくさい」からである。

彼の言う用事によって私の返信は「いいよ、ヒマ」であり、また「忙しいから無理」と返事することもある。なぜ用件を言わないのだろうか?  不思議である。

「明日○○があるんだけど、君も行かない?」なら次の返事で即答できる。
しかし、「明日ヒマ?」だけでは「何があるの?」と聞かなくてはいけない。
そういう煩わしさはビジネスマインテッドな私としては究極に疲れる。
(もちろん、彼とは友達なので私は何回も1度で言うように言っている。)

以上のように愚痴を言うことによって私のカタルシスを達成したいのではない。

このような無意識的な部分にこそ本質が隠されているのではないか。
今回はここから、用木的コミュニケーションを読解してみようと思う。

私は彼らがこうした段階的コミュニケーションを使用する影には
慢性的なコミュニケーション不全が生じているのではないかと思う。

つまり端的に言えば、社会的役割演技の場面設定が少ないがために
モデルとしての間主観的な心情を理解できないのである。

私の経験から言えば多くの教会家庭では「会長さん」という役割演技は
教会だけに留まらず、家庭でも使用されることが多々あると思う。
「会長さん」と言われる人は教会でも地域でも家庭でも「会長さん」なのである。

つまり、「会長さん」は会社では部下や上司から「課長」「君」、地域では
「○○さん」家庭では「あなた」「お父さん」という役割演技の多様性が少ない。

私の知る用木の何人かも同様である。彼らは「青年さん」で通じる。
その場合、非常に人格形成では不利なのではないか。
人格形成と言えば大げさだが、狭義の発達段階に限らず
社会的な立ち居振る舞いでの学習経験が少なくなる。

「会長さん」が家庭でも「会長さん」なんてたまったもんじゃない。
「課長」が家庭で「課長」なんて言う家庭はないだろう。
しかし、「会長さん」というのは社会的役割だけでは終わらず
人格者的要素も含むものであり、不可侵であり絶対である。
そう考えると「会長さん」と言われて気分を悪くする会長はいないだろう。

よく、落語や相撲の世界では「弟子入り」すると父親を父親として呼べない。
あくまで師匠であり、実子は他の弟子たちと扱いは同じになる。

そういった、現象をひとくくりに批判しているのではないが、
それがもたらす影響は少なからずあるのではないか。若貴兄弟のようにね。

つまり、彼らは往々にして社会的立場という環境が少ない。
それでも「多くの人たちと会ってるもんね」といわれるのは水準が異なる。
あくまで、自分が用木以外にどれだけの役割演技ができているのかということである。

そういった多様な人間関係学習機会が少ないがために、
場面に応じた関係性の定型句(語彙)が少なく「相手の立場」を思いやるという機会さえも、少ないのである。
彼らの対人関係でのパフォーマンスは決して高くない。

話が通じない&相手が納得しないと彼らはとりあえず
「まーとりあえず来てみなよ」という常套句を用いる。
私はそれで、初めて神殿に足を踏み入れ、何千人が黒い法被を着て
大合唱をする異様な風景を目の当たりにして失神しそうになった。

カスタマーにはアカウンタアビリティが叫ばれているが彼らにはできない。
その必要性があったとしても彼らはそれを感じる感覚器官すらないのだ。

注)私の用木の友人のことだが、文中は「彼ら」を多用したのは、
その友人に限らず所々で複数の人から私がそう感じたからである。

天理教的「相手を思う」についてはまた今度。

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