安全地帯にいるという大きな壁

グローカル天理という媒体がある。天理大学おやさと研究所が毎月発行している。そこの巻頭には必ずその所長のエッセイで始まる。以前、私はそのエッセイを「研究者として礼節に欠ける」表現した(たぶん)。それは一つの事実(研究者)を全てに般化させる姿勢や、信奉する主義・学派に溺れて周りが見えていないことを指した。http://ameblo.jp/tenrikyosyakaigakulavo/entry-10938687940.html
それ以来、私はグローカル天理を読む意欲が損なわれた。しかし9月号に関して複数の方より「これってどう思いますか?」という問い合わせをいただいた。http://www.tenri-u.ac.jp/oyaken/j-gt.htm
9月号の巻頭言を読んで、みなさんはどう思うだろうか?私は7月号と同じ感想を持った。福島の方の風評被害には心を痛めるが、原発に関して科学も政治も混乱している中で私は少数の研究者が「大丈夫だぜ」といっても安心できない。なぜなら、その研究者の「大丈夫だぜ」という言葉がこのような人災を招いたことはいうまでもないからである。風評被害に関しては、中には非常に劣悪な低次元のものが含まれる。しかし現状の福島の風評被害の不確かな土壌を作っているのは国や研究者、メディアであり一般市民ではない。そこまで言うなら、この所長は子どもや孫を連れて(子どもや孫がおられるのかは知らないけど)家族みんなで福島に住めばいいのではないだろうか。正直、私は怖い。このように思うことは風評被害だろうか。この所長の身体感覚のバランスの悪さには閉口するばかりである。

安全地帯にいるという大きな壁」への1件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 天理教の恥さらし
    67102いやしくも天理大学付属の研究機関であるならば、その機関誌に学問の基本的条件を知らない所長の巻頭言を毎号掲載して恥じないのだろうか。教外の研究機関にも送付しているとすれば、黙認している教内の常識を疑われても仕方ないだろう。この巻頭言の筆者は、アメリカで長年生活していたことが自慢かも知れないが、それならアメリカ人の合理性や民主性から何も学ばなかったのだろうか。とにかく客観的なデータもなく、社会的原因を一切追究せずに、すべての問題を個人的レベルに還元して自己満足しているとしか思えない。教内でも。心ある人々からの共通した批判を私は耳にしている。啓発委員会の委員からも、6月号の差別的文言に対して大学の学長へ抗議したと聞いたが、うやむやになっているようだ。

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