誰にとっての行為か、誰のための行為か。

懇意にしている天理教人Aさんが、修養科というところに入科?入学した。修養科というのは天理の詰所に3ヶ月間宿泊して天理教を学べるところである。http://www.tenrikyo.or.jp/jpn/?page_id=2045 Aさんはご実家が布教所である。もともとは長い間、国の研究機関で仕事をしておられたが、今年後期になりまとまった時間がとれたということで入科を決意されたようだ。ご実家の方や所属する教会からの長年の圧力が小骨として刺さっていたようだ。修養科では時間があるのか私によく連絡をくれる。
必然的に今後の私のブログネタも修養科に関することが多くのなると思う。その話の中で興味深かったことは、お勤めのおてふりを巡る男性修養科生Bさんと先生の言い合いがあったということである。Bさんは天理教の未信仰者であるが、修養科には意欲的に取り組んでいた。ある日、おてふりの授業中にBさんが先生に言った。「先生によっておてふりの教え方が違うから混乱する。どれが正しいのか」と問うと、先生は「おてふり概要に書かれているおてふりが基本だから」と答えた。すると男性は「おてふり概要があるにも関わらず、実際は先生が言うことがバラバラ。その先生達は『今は昔と変わってきているから、こうするのが合っている!』と強く言うから、結局何が合っているのか分からない」と詰問し、困った先生は「じゃあ自分が納得する形でいい。そのような矛盾は沢山あるが、そのうち分かってくる」ということでその場は決着したようだ。周りの修養科の人たちはBさんを支持した雰囲気だったというエピソードである。
このエピソードについて私は答えを持たない。おてふりというものを深く実践したことはないし、実際どういった形で伝達されているのか、正解というものがあるのかも分からない。またBさんのいう「教え方がバラバラ」という水準が何をさしているのかも分からない。
Aさんもまた「おてふりは理をふるものだから形にはこだわるな!」と教えられるものの、先生によっては先生が気に入らない所を注意されたり、合わせることや見栄えに重きを置いたりと教育的に混乱しているとのことである。
私は基本的に自分に関係のないローカルルールにはあまり口を出すべきではないと思う。しかしこういったことは天理教の中に入るとよく聞かれる。私自身も、昔天理教の教会に出入りしていた頃は参拝の回数や参拝の仕方や信仰心の涵養について、複数の天理教人より指導?注意?いちゃもん?をいただいた。うんざりしたこともあった。結果的には足が遠のいたんだけど。
「よく聞かれる」というのは、それを運用するシステムに欠陥が起きているということである。政治家の政治資金規正法で、これだけの問題が継続的に噴出するのは制度的欠陥の何ものでもない。こういったシステムの矛盾は組織であればどこにでも生じることだと思う。それが本件であれば先生である会長の質的劣化であるのか、もともと教義の不安定さから発生しているのか、矛盾を許容できないBさんの社会経験の乏しさか。それは私よりもその場におられた天理教人が感じられることだと思うので、結論は控えたい。

誰にとっての行為か、誰のための行為か。」への1件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 無題
    修養科を昨年57歳で修了した者です。おてふりの習得ですが「おてふり概要」の説明だけではおてはふれません。不能の部分が有ります。また、改定もあります。現在は三日講習課から出ているDVDが暗黙の基準に近いものとされています。必ずこの問題は出ます。芦津、敷島からはだいたい指摘が出ます。先生(現役分教会会長)も本部としてもこれが絶対と言えません、言いません。私も北朝鮮並みに揃う事までは求めませんが、あきれるぐらい揃っていないおてふりあります。私の担任先生は自教会に戻ったら教会のおてふりに合わせるようにと。系統毎、大教会毎、分教会毎、そして用木毎に違うのです。教祖は恥をかかすので指摘をされなった。それで基本的には指摘はしない、でも聞かれたら答える。違いはスピード、テンポ、速さが揃わない程度、右左上下、ターンする箇所が明らかに違うを私は知りません。私の時の芦津はうるさい分、三か月で皆揃っていました。足の踏み、手の上げ下げ、投げ、ターン、揃っているときれいです。私もDVDで未だに習得中です。

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