前回のブログでコメントの返事を書いていたらまた長くなってしまった。悪い癖である。長過ぎて書けなかったので、ここにアップします。
>ぱぱさん
ご指摘ありがとうございます。これは私の草稿であり、文章として未熟な点があることは申し訳なく思います。毎回説明不足ばかりで本当にすみません。(自分で読んでも「なんでこんなこと書いたのかな」と思うこともあります)
本ブログに関して、個人の信仰に足を踏み入れるということはアンタッチャブルで大変難しいことですね。「ほっとけ」と言われれば私は反論の言葉を持ちません。
ぱぱさんのおっしゃられる点について私なりにお答えします。宗教には個人と個人とを接着させ、個人とコミュニティを接着させるバインド機能が重要な機能ですが、それはこれから信仰を始める人や信仰を深める人の主体性(主観的な信仰体験)によって担保されるものだと思います。しかし、そのバインド機能を他者の力を奪う(弱者にさせる)ことで達成することは健康的ではありません。それは信仰的自立ではなく依存です。また信仰の必要性を弱者であることで確保することは、天理教は天理教人によって、恣意的に作られた弱者のためだけの教えになります。そのような選択された信仰は「だめの教え(最後の教え)」ということではないと以前読者の方に教えていただきました。
弱者を弱者に定位させることは、強者への服従を促します。天理教で好まれる「素直」という言葉は教義や先人の教えを求道した上での主体的な悟りであるべきだと私は思います。しかし、私が「素直になれ」という言葉を天理教人から聞いてきた中で、そのような主体的な求道精神はほど遠いものでありました。つまり、そういった言葉は強者によって吐かれ、そして、それは強者の意向を尊重するように仕向けられた服従の言葉として使用されていた場面ばかりでした。弱者もまた強者の意向や強者が望む良い信者という外部圧力を意識した「素直」を実践せざるを得ず、そこには主体的な求道とは対極に位置するとしか言えません。
そういった現象もやはりアンタッチャブルな個人の自由であり、私としては「天理教が今後発展を望むのであれば、そういったことは健康的とは言い難いのでは」とまでしか言えません。
ただ、前回のブログで私が「こういった強権的な人間関係は人権上許されるものではない。」と申しましたのは、病気という心身共にダメージを負った状況の人間に対して「君は色情いんねんを持っている。いんねんを断ち切るためには修養科に行かなきゃだめ」という無自覚的な加害性です。信仰的弱者だけであるなら「健康的とは言い難い」と留めることができますが、医学的に身体的(精神的)弱者に加えて、そういったことを言うのは私は倫理的に疑問を感じたために、上記引用のような発言をしました。これは私の個人的な感想や尺度による部分も大きいので、天理教人が「そんなこと普通だよ」と言われれるのであれば、それは天理教人以外の方に判断していただくしかありません。
また今回は修養科の方の実際の話ではありますが、少ない事例の一つか、主観的脚色の強い感想なのかもしれませんので全てに当てはまるわけではないと思います。
最後に詐欺師の話をしたのも説明不足ですみません。私がここで表現したかったことは意識的にも無意識的にも天理教人は自分にとって信仰的弱者になりそうな人を選択して信仰を勧めている危険性があるのではないかということです。詐欺師はそれを意識的にやっている悪い奴というだけの話です。
1. 信仰の上下が健全か否かの判断は愛があるのか否か・・
カインさん。丁寧な説明ありがとうございます。
天理教の教えには世界いちれつ皆兄弟という最もよく耳にするお言葉がある一方で、無自覚的な加害性に陥いってしまう人もいることに一石を投じる指摘には多くの天理教人にも参考にしてほしいと思うところであります。私は修養科に行ったことはありませんが、数十年前、東京の中学3年生だった私に、信者だった両親は天理高校への進学を勧めてきました。反抗期だった私は最初は素直に聞きません。父は無理強いすることなく諦めたふうでしたが、ある朝、父の居ないときに母が私を起こすなり言ったのは、勉強よりも徳を積んまないと駄目。お父さんのようになってほしくないの・・・と涙を流しながら天理行きを勧めてきました。父の名誉のために言うと私も母も父に尊敬と感謝の念をもっておりますが父には気が短く人と衝突する欠点も目立っていました。実は私もそのような性分を受け継いでいて、自分の気づかないところで母を傷つけたこともありました。母は一切愚痴や父を悪く言うことをしませんでしたので、父のようになって欲しくないと言ったのには驚きました。母の涙に、とにかく悲しませてはいけないと思ってすぐさま天理へ行くことを決めました。特に自己憐哀な気持ちはなく、飄々と行ってきました(苦労もあったが良かったと思っています)。強者と弱者という関係でなく、私の本性も見据えたうえで、何か愛情(親心)に裏打ちされた悟しであったからこそ私は受け入れることが出来たと思います。大人と子供の関係の話でもあり、大人どうしの信仰上下にあてはめるのは少し違うかもしれませんが、相手を受け入れ、愛を持ってて諭すのであれば不健康な関係にはならないと思いますし、そのような天理教人もいっぱい居ると信じたいです。
2. Re:信仰の上下が健全か否かの判断は愛があるのか否か・・
>ぱぱさん
私は、所属教会へ行かないと決めた信者です。失礼かと思いましたが、ぱぱさん、参考の為質問させて下さい。
天理高校へ行く事が徳を積む事になるのですか?
苦労もあっが…とありますが、普通の高校と何が違いますか?
3. Re:信仰の上下が健全か否かの判断は愛があるのか否か・・
当時の私は普通の中学生ではありましたが、親への感謝の気持ちが足りず、不平不満も多く、また父ともよく喧嘩していました。母はそれを心配して徳を積んでほしいと願ったのでしょう。
mugenさんへ
天理高校へ行けば必ず徳積みになると言いませんが、学校と寮生活において天理教の教えに基ついた心が整うような話や活動、人との触れ合いが多く、町全体もそのような雰囲気があり、普通の高校よりは徳を積む機会に恵まれていると思います。
教えの1つに、人間は神様から体を借りており、人間みな兄弟。生かされていることに感謝し、助け合おうとの教えです。それを悟れば何事にも喜びを見出し立ち向かう元気も沸くし、周囲への感謝も持てる。そのためにまず感謝の祈りをささげるのが”おつとめ”というお祈りだと聞かされています。これを毎日やるわけです。天理高校は毎朝教会本部で出席をとってお祈りをしてから学校に行きます。寮生活でも規則正しく、朝と晩におつとめをしますし、その際、世話役の青年さんや寮在住の先生などが、心が整うような話をしてくれます。自由参加の活動では日曜日に掃除のひのきしんがあったり、夏には子供おじばがえりのひのきしんがあります。天理高校お授業では週1回天理教の授業もあります。
3年間でおさづけの理(人の病気を神様に治してもらう祈りの資格のようなもの)も取得します。
もちろん多感な年頃の生徒が全国から来て、癖性分から喧嘩や問題を起こることが無いわけではありませんが、人との触れ合いの中で治まっていくことが多いように思いました。卒寮するときは皆、感極まって泣いていました。あと、私の場合は遠く親元を離れて天理へ行ったことで、時折心配して電話や訪ねてくる親の気持ちにも触れ、感謝の気持ちが沸いてきたものでした。
苦労した・・との記載はちょっと表現が誤っていました。普通の高校生のように部活や恋、人間関係に思い悩んだことともあったとの意味で、天理高校だから苦労したということはありません。ただ寮生活は集団生活ですから必然的に人との関わり合いが多く、人によっては苦手な人もいるかもしれません。良いことだけでなく、苦手なことも含めて過ごす時期が後々の人生の肥やしになったような気がします。
以上、回答になっていないかもしれませんが参考までに。
4. Re:Re:信仰の上下が健全か否かの判断は愛があるのか否か・・
>ぱぱさん
ぱぱさん、大変参考になりました。有難うございます。徳積み=経験からの学びや、気づきと言うことですね。いつまでも、天理の学校が立派な用木を育てる学校である事を願います。
年祭毎か、数年毎にどの教会の下に付くかという、教会長の主体性に任せた、教会所属替え制度を設ければ、へんな束縛から解放され、全体としての活性化が計れると思いますね。
今は、止めるか続けるかの二択だが、所属替えOKなら、自身で選んだ上級なんだから不足心も少なくて済むだろうし、詰所付大教会に直接所属もできるのだから、余計な時間も経費も掛からんだろう。
当然、強圧的な会長は淘汰されるだろうし。内職したければ単立教会になるのも容易だし、多系統の尊敬できる会長さんの下にも付けるし、地の理を考えた上級を選べるのもいい。
とにかく本部は先々の教会長の主体性を担保しないと、束縛ばっかりじゃ後継者が誰もいなくなっちゃうよ。
いくら自分が選択できるとしても、大教会や上級の下に付くということは、どうなんだろうか?と思います。
どうせ、変えて貰えるなら、大教会も上級も廃止して、すべての教会が横並び一列、という風になって貰いたいと思います。講の理念を復元して貰いたいですね。
詰所の維持管理、本部との連絡交渉、本部イベント等への動員。
特に暗黙の押し付けをはね返す、ノルマ減交渉も必要かもしれません。
こんな事を単立でできる教会がいくつ存在するだろうか?
なるほど、大、上級がそういう交渉を本部としてくれる、という訳ですね。
お考えになってることが理解できましたが、真に望みたいのは、交渉など必要無い、誠の親心のある本部になって頂ければ、これに越したことはないですね。
何にしろ、今の状態では、少しの改革も期待できないでしょう。
一度潰れるまで行かないと、無理なのではないか、と思っております。
神戸天理組様
>詰所の維持管理、本部との連絡交渉、本部イベント等への動員。
特に暗黙の押し付けをはね返す、ノルマ減交渉も必要かもしれません。
暗黙に押し付けられているノルマ減交渉のノルマって何のノルマですか?
お供えなどお金のことでしょうか?
給料貰ってるなら、例えば営業ノルマ達成出来なければ、減給されるなども
ありえるでしょうが、給与もお礼も貰わないのに、ただノルマだけを課せられ
てる訳ではないですよね。
まさかそんなむしのいい話があるのかと思い、いや、誤解かもしれないと
思いなおして質問しています。
読者B様。
>給与もお礼も貰わないのに、ただノルマだけを課せられてる訳ではないですよね。
それがあるのですよ。オカシイ話ですね、(給与もお礼も貰わないのに・・)でも、神様から身体を借りていて、先代が助けられて、そして、これから結構に幸せになるためにはお供えをノルマのように、しなければならないように洗脳されてしまっているのです。
要は洗脳が解ければいいのですが、それには家族や友人や専門家の協力が必要です。家族も友人も洗脳されていたら、一人で悩むしかないのです。こういう書き込みやコメントを見て徐々に洗脳から解けていくしかないのです。
ブログ<原典からの出発>植田義弘先生のブログです。
http://tenkoku0805.blog9.fc2.com/
天理教の「御供え」についてをリンクします。
http://6706.teacup.com/5051/bbs
命の泣き声~天理教への信仰でお悩みの方へ~
「命の泣き声」さんのホームページのリンクを張ります。
http://inochinonakigoe.grupo.jp/
huruikyoukaityou@yahoo.co.jp
古い教会長様へ
やはりそうですか。
>神様から身体を借りていて、先代が助けられて、そして、これから結構に幸せになるためにはお供え
をノルマのように、しなければならないように洗脳されてしまっているのです。
一般的な感覚では、先代が助けられたことで、より仲良く両家でお付合いをさせて頂いたり、困った時
には出来るだけ力にならせて頂くということはあるでしょうけど、先代が助けられたからといって、それ
を理由に、子供や孫が定期的にお金を納めたり、ノルマを課せられるなどということがあるでしょうか?
「助けられた」というのが、例えば多額の借金に対し、多額のお金を援助して助けてくれたなどという
ことであれば、子や孫が出来るだけお借りしたお金をお返ししたいと思うのは理解できます。
しかし、例えば、信仰に誘ってくれたから、話を聞いてくれたり、相談に乗ってくれた、お祈りやお助け
をしてくれたなど、普通の人間関係の中で行われるような「好意」の範囲ともいえるようなことを、もしも
「助けた」と言っているのであれば、普通の感覚であれば、話を聞いて万一、子供や孫などがお金を
払います。と申し出たとしても、懸命な人であれば、辞退するのでは。
また、神様から身体をお借りしているという考え方は、人生を見つめ直し、衿を正すのには役立つ
と思いますが、神様はレンタル料など請求するでしょうか?
また、上記のようなことに気付いていても、そのようなことを収入源として生活し、仕事とする
システムを作り上げてしまった以上、あくまで
>神様から身体を借りていて、先代が助けられて、そして、これから結構に幸せになるためにはお供え
をノルマのように、しなければならない
という姿勢を崩す訳にはいかないのではないか。
認めてしまえば、自らの生活の糧を失ってしまうのですから。
問題があっても、そこにメスを入れると、自分達の生活が崩壊する恐れがあるというところに
問題が根深くなってしまっているのかもしれませんね。
威圧的になったり、はぐらかしたり、という行動を取らざる得ないのもこういった、難しい事情に原因の一端が
あるのではないでしょうか。
参考 : 一貫性の原理
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%B2%AB%E6%80%A7%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86
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あくまで貸主は全知全能の親なる神であって、我々は永遠の魂、借主な訳です。
神は身体他一切を無限の親心をもって貸し、我々は一切を永遠に借り受け続けている訳です。
と認識していれば、我々は永遠の人生街道を、無限の感謝と共に歩んでいる筈です。
神は貸した身体他一切を早く返せとかレンタル料をよこせとか言っている訳ではないのです。
さらに神はお地場に天下り続けて、人類をより陽気暮らしの深まった、甘露台の世へと近づけようとされた訳です。
中山みき様と飯降 伊蔵様のお口を借りて、魂の進化の頂点周辺が神格者へと育ち磨かれるのを待ちかねて、人類の心を先導善導する為に天下った訳です。
だから「神の言葉を聞き続け、感謝の心を深め続け、自他共の心身共の健康を毎日祈る」その勤めに後継者諸氏は異論を唱えている訳ではないのです。
>誠の親心のある本部になって頂ければ、これに越したことはないですね。
上からの言葉が、へんなノルマの伝達命令であったり、形の普請ばかりになっちゃている事に、うんざりしている訳です。
>まさかそんなむしのいい話があるのかと思い、いや、誤解かもしれないと
そんなむしのいい話が、中山家ご一統、天啓者の末裔には与えられている訳ですね。
>神様から身体を借りていて、先代が助けられて、そして、これから結構に幸せになるためにはお供え
をノルマのように、しなければならない
神の恩、人の恩を知れとは素晴らし教えですね。又宗教活動にお金が必要な事も当然ですね。けれども教会間でも上納金に無理な心が掛かっているとしたらイカガナものでしょうか?ましてそれが心のキリナシ普請を誤用した城壁普請の為の無理なノルマだったとしたら、それが当事者達の魂の上に神が幸を運んでくるとは思えませんね。
本部は、神の恩を教えるなら、神の恩を教えられるだけの神格者に近づく事が、親里地場の責任でしょ。
人の恩を知る教えならば、教会を支えてくれた信者さん達の恩を感じ、これまでの本部の運営を支えてくれた地方教会長達の恩も感じなさい。
>神様はレンタル料など請求するでしょうか?
かしものかりものの理を誤用してきた魂達が、その報いを受けている事に一刻も早く気付いて、本部そのものに神が現れる程の人間的器をつくる事が必要ですね。建物の器はもうつくり過ぎているのだから。
>一度潰れるまで行かないと、無理なのではないか、と思っております。
天啓者の子孫と云えども、一足跳びに神格者になる事には無理でしょうけど、先ず本部のスリム化によって、これまで支えてくれた、先々の教会長達の時間的経済的な負担を軽減し、双方共に内省的なベクトルを涵養する事でしょう。
このカインさんの問題提起群に対して、速やかに解答する筈の本部機能が麻痺している以上、先祖が自宅をお勤め場所に提供した程の熱心家の子孫である教会関係者達の中から、全壊する前に再生の芽が出てくると想像します。
いろんな意味で地方教会長の主体性の確保とネットを使った勉強等が鍵になるのでは?と思いますね。
<参考までに、匿名の教会長さんが以前、書き込まれたコメントをリンク致します。>
匿名の教会長 2015年12月22日 9:25 PM (社会学研究所 記事以外のコメント、ご意見)
先代会長(父)の時代、上級教会から血も涙もないお供えの強要に苦しめられました。父が亡くなる数年前、父のたっての希望を受け入れ会長を引き受けました。ただただ、父を思う親孝行だけの気持ちで・・・父亡き後教会の帳面を確認したところ一億に近いお供えが上級通じて上がっていました。思い出すにつけ、苦しかっ子供時代、不安にさいなまれた幼い日々、優しかった父・母を上級教会まで呼びつけてお供えの強要をした上級会長夫婦。その場面に私も居合わせ、男泣きに泣く父の姿が今でも忘れられません。
数千円で済ませているのは、その鬼会長夫婦が無くなり、息子会長も無くなり、その後天理教の「て」の字も知らない全くの他人が(事情があり)行きがかり上の会長になったのです。これを機に我が教会の経済状態を知らせ、今後はお供え・お尽くし、一切出来ませんから。と宣言しました。数千円とはゼロではつきあい上、「角」が立つため、交際費としての意味合いです。
我が教会は数百万の借金があります。教会を維持するために修理、維持費に費用がかかるのです。信者さんは数人しかおられません。今後何をいくら強要されても、上級が財布にまで手を突っ込むことはできません。「無いものは無い」。それで押し通す覚悟です。若い新しい会長には本部会計の不透明さも教えました。天理教維持財団が消滅したことも。何も知らない新会長ですから天理教の「裏の顔」も知らせなくてはいけません。何も知らないまま、善良な信者さんや、教会長たちを振り回してはいけませんから。
今後、私は上上級から睨まれるかも知れませんが・・・睨まれても淡々とこの教団の在り方の間違いを語る覚悟でおります。「自分が自分である事。」「自分を生きる」こと。人生の残り時間には限りがあります。嫌われても、付き合いにくくなっても、自分を貫きます。嫌われたら上級に参る回数を減らすだけです。休んだ月のお供えは(数千円)はもちろん上げません。下からお金が上がらないという事がどう言うことであるか、末端教会の貧しさ・暗さ・惨めさ。そのうち上級・上上級・大教会とわかってくることでしょう。大教会様、貧に落ちきる「ひながた」を率先して、身を持って感じてください。末端教会は毎日、嘘にまみれたこの組織の歯車の一つとして、逃げたいけど逃げられないと言う、誠に息苦しい日々を過ごしております。
ブログ<原典からの出発>植田義弘先生のブログです。
http://tenkoku0805.blog9.fc2.com/
天理教の「御供え」についてをリンクします。
http://6706.teacup.com/5051/bbs
命の泣き声~天理教への信仰でお悩みの方へ~
「命の泣き声」さんのホームページのリンクを張ります。
http://inochinonakigoe.grupo.jp/
huruikyoukaityou@yahoo.co.jp
>お供えの強要をした上級会長夫婦。その場面に私も居合わせ、男泣きに泣く父の姿が今でも忘れられません。
匿名の教会長様の上級会長のやっている事は、893とどう違うのでしょうか?上級会長夫婦が並んで、匿名の教会長様のお父様を責めている様を想像すると、まさしく、893の親分とその姐御の 子分に対する上納金取り立ての強迫の場面ですね。 お供え = 上納金 ですから。
信仰の場所で、それも、互い立て合い救け合い、と標榜しながら、やっている事がこれか、と驚き、呆れます。こういう上級みたいな会長は、一刻も早く、一人残らず、淘汰されて欲しいですね。末端を苦しめ、泣かせて、何が陽気ぐらしですか。
人間身の内かりもの、神のかしもの、我が自由ならんがかりものの証拠。
なっても、ならいでも、神の自由用。
親なる神の御心にもたれていれば健康になるかもしれませんが。
親分にもたれていたら、貧乏になるだけですね。