厳しい大教会の目的とは

修養科に行っているAさんと先週末1時間ほど話す時間があった。Aさんは私が天理教に関するブログをやっているこを知っているので、私から質問しなくても興味深いことをたくさん教えてくれた。すべてをブログにアップすることはできないので、少しずつアップしたい。
まず前提として、私のブログでは私が経験した出来事や、私が接した天理教人から感じたことだけしか扱えない。なので私の見解が天理教全体に当てはまることではない。その点をAさんにも違う形で教えてもらった。Aさんに教えてもらったのは、大教会(教会の系統)によって、修養科生の雰囲気は大きく異なるということである。つまり、前々回のブログで修養科の「感話」の異質性を取り上げたが、そのような現象はAさんいわく「一部の大教会に多く観察される事象である」とのことだ。修養科生の雰囲気をみてもサークルのように和気あいあいとした雰囲気の大教会や、あまり個人に関与しないあっさりとした雰囲気の大教会、また軍隊のように時間や規則が厳しい大教会もあるようだ。私はこのような多様性は歓迎されるものだと思うが、Aさんは「親を選べないのだから、軍隊のような大教会に入っていたらたまったもんじゃない」と言っていた。Aさんは幸いにもサークルのような牧歌的な雰囲気の大教会で修養している。こういった多様性を天理教人に聞けば「自分が所属する大教会には、そのいんねんがあるのだから必然である」という言葉が思慮なく返ってくるのは想像に難くない。そしてAさんは「厳しい大教会の修養科生は主体的求道精神に欠ける傾向が強い」との慧眼を得た。Aさんは修養科に入ってわずかの時間で、おつとめの作法をすべて暗記し、自然に体で覚えた。そのことをAさんは非常に喜んでいた。しかし厳しい大教会の修養科仲間に伝えても喜びは共有できなかったようである。厳しい大教会では、もちろんおつとめの作法も厳しく練習もシビアで「覚えて当たり前」とのことだ。よくよく聞くと、やはり厳しい大教会は大教会長が信者に対して厳しいとのことである。Aさんは具体的に大教会の名前を3つ列挙していたが、ここでは割愛したい。一つは私がよく接する京都の大教会であった。厳しい大教会では、天理教内での勢力も大きいことを考えると、厳しい大教会ではかなり積極的な布教をおこなっているのだろう。
話を前々回のブログに戻すのであれば、厳しい大教会では権力のヒエラルキーが確立されているために信仰的弱者が多いと思われる。信仰的弱者だから入信させられるといっても過言ではないだろう。しかし、Aさんや私が感じる厳しい大教会ほど主体的求道精神に欠けるのではという問いは、私はあながち外れた理論ではないと思う。布教に積極的ということは、多少強引であるとも言える。強引である結果は、前々回のブログで書いたことである。よくよく考えれば厳しい環境に入れられれば人間の心理としては意欲が減じることは当然の反応である。つまり、強引なのに勢力が大きいというのは、一度入ったらやめられない権力の構図が垣間見れる。その権力は、見聞する限り他者をコントロールする形で用いられている可能性が高い。少なくとも、信者の主体的求道力を賦活させるためには機能していないと思われる。それが「身上さとし」も含めた他者にレッテル貼りをする差別的用語の運用(濫用)であろう。これを厳しい教会の幹部たちはどれほど自覚できているのだろうか。続きは次回。

厳しい大教会の目的とは」への1件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 何か問題が・・
    大教会長は真面目で一生懸命です。
    でも誰も本音を話せる雰囲気ではありません。
    裸の王様になってしまっているようです。
    こういう体質を生み出す土壌があるのでしょうか・・・!

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