昨晩知人からメールで知らされた。
ショックと共にいつかこの日が来ることを準備させられていたと思う。
私が河合尊師を知ったのは中学生の頃。何気に実家に置いてある
「こころの日曜日」(だったかな?)という尊師の著書を手にしたことを今でも覚えている。
田舎のハナタレ中坊であった私でさえ「やさしい文を書かはる人やな」と感慨を覚えた。
以降私は拠点を関西に置いているので、異なる分野でも尊師の存在は無視できない。
そして、大学院時代は尊師の教え子?同僚?に私は教授されたのだ。
つまり私は彼の孫弟子になる。会ったことないけど。
私の恩師曰く、河合尊師の若かりし頃は本当にピュアな男子であったようだ。
実家のある丹波篠山の方で子どもたちのために施設を作りたいという夢を持っていた。
しかし、知的貴族な家庭で育った彼の知性は一般からは飛び抜けて頭がキレる。
当たり前のように、日本の臨床心理学の第一人者になり、
当たり前のように日本の文化基盤を作った人であった。
若かりし河合青年は援助熱意も半端なく、欲望の政治とはほど遠い人であったようだ。
しかし、稀有な知性は当然の如く政治的に利用された。
それはまた第一人者であるがための使命であったのかもしれない。
そして、政治でも臨床心理学の地位と日本文化の涵養を高めた彼の功績は大きい。
しかし、最終的には政治的な責任を負わされ、それが負荷になったのか約1年間昏睡の状態となった。
尊師が亡くなる2日前に私は恩師と飲み交わし、当たり前のように河合尊師の話になる。
「きっと河合先生は昏睡の中でも神話の夢を見られているのだな~」と回復を祈った矢先であった。非常に辛い。
河合尊師の死は日本文化、臨床心理学界に大きな損害である。
そして、また一時代の終わりなのかもしれない。
ここから、ポストモダンの「こころの時代」の新たな挑戦を我々は河合尊師から
ためされているのではないかと感じざるをえない。
天理教との関係では、彼は京大卒のあと天理高校の数学教師から
ユング研究所、天理大学、京大というふうに辿った。
文化庁長官を歴任して最終的に天理教内の病院のベッドで人生を終わられた。
上記のように彼と天理との関係は深い。
噂で聞いた話だと、彼は自分を育てたのは天理だと思われていると聞いたことがある。
天理高校教師をしていたくらいだから、彼のプライベートな宗教は
天理教だと思うが確証はない。たぶんそうだと思う。
日本社会、天理教、共に河合尊師を亡くした損害は大きい。
しかし、これはきっと河合尊師が私たちに残した挑戦状に思えてならない。
ユーモアのある関西弁で「きみたちが新しい陽気暮らしの実践をやってみよしー」
てね。河合尊師はきっと天上の世界で微笑んで応援してくれているだろう。