年末に、ある天理教人より天理教についてお話を伺う機会があった。今の天理教の「においがけ」(布教戦略)は、パナ創業者の松下幸之助をネタにするのが流行なようだ。去年は、その話を何度か耳にした。松下幸之助の経営哲学の中には、彼が天理教本部に行ったときに得た天理教の信仰実践が元になっているというのがウリなのだそうだ。私は他者(権威者)の威光や肩書きをかざさないと天理教の良さを説明できないのは信仰として悲しい事実なのではと思うが、その天理教人は経営の神様が天理教の教えからヒントを得たことに誇らしげに語っていた。
そういえば、パソコンの検索候補には必ず「天理教 芸能人」と出てくる。そんなこと調べてどうするんだと思うが、多くの天理教人にとっては大切なことなのだろう。
私がいろいろと質問していると、JIBA-NETというものを勧められた。これは会員制天理教人のSNSのようだ。このSNSは今の天理教では満足しない若手天理教人が、いろいろと今後の天理教について議論しているという。これはメンバーズオンリーで、メンバーからの招待がないと入れないようだ。私も招待されたが、本ブログとは関係のないラインであったので筋違いと思い辞退した。メンバーになりすまして、本ブログで意見するのはただのリークになるだろうし、そしたらSNSの秩序を乱すことになると遠慮させていただいた。
ただ私の主観であるが、ここ数年(ほんの1、2年)で天理教の雰囲気が大きく変わってきていると思う。その雰囲気というのは、市井の天理教人の発言量が格段と増加していることである。つまりインターネットである。数年前であれば天理教のことを調べるなら、天理教の刊行物を読むか、身近な天理教人に直接話を聞くしかなかった。それが今では天理教の情報はインターネット上にあふれている。ツイッターには毎日天理教に関する情報が刻一刻と流れ、Youtubeには天理教行事が動画で流れている(3、4年前はそんなになかったと思う)。天理教の会長さんがホームページやブログで発言しているサイトも散見される。前述したSNSも同様だろう。
天理教の内部にいなくとも、天理教の様子が垣間みれるようになった。それは良い側面もあり、天理教本部も利用しているツールである。しかしツイッターなどでは、天理教を信仰しない人間によって、天理教(宗教)に対する嫌悪感が露骨に表現されているものもある。
数年前には天理教本部が、天理教人のネット発言に規制の通達を出したこともあるようだが(真偽は不明)、天理教以外の人間による発言は止めようがない。去年、世界各地でおこった民主化革命を例に挙げるまでもなく、今後の情報の拡大は天理教本部が規制できるものではない。情報肥大で天理教が崩壊することはないだろうが、今後の天理教を巡る情報の拡大は天理教にとって果たして明るいことだろうか懐疑的にならざるを得ない。つまり現代では、知らない単語が出てきたら真っ先にインターネットで検索する人が大多数であろう。天理教人に接した人は、真っ先に「天理教」という単語を検索する。その検索先に「怪しげな天理教」「何を言ってるか分からない天理教」があれば、人々は天理教を回避するだろう。
月並みで申し訳ないが、この情報過多を生きて行くにはバランス感覚が必要である。「怪しげな」「何を言っているか分からない」という点では、本ブログで「理の親論」や「古典的布教手法への懐疑」「天理教は悲観論者」として何度か論じた。大衆迎合する必要はないだろうが、天理教人にとって「変えていいこと」「変えなければいけないこと」「変えてはいけないこと」を早めに整理していかないと、天理教が溢れた情報に息苦しくなっていくのは意外に早いかもしれない。インターネットを使わない人口が急速に減少しているように。ということを考えた。