天理時報4264号視点「信仰者のリテラシーとは」は自由社会に対する挑戦である。

3名の方から私に天理時報の記事についての問い合わせがあった。こういった問い合わせは、私の見解を聞いてみたいということではなく、私に批判的見解を代弁してほしい方からなんだろうと思う。かといって私は代弁する気は毛頭ないのだが、結果として代弁していることになっている場合が多い。しかし私は私の見解を述べるスタンスである。そこには利害もバイアスもない。
天理時報を探してきて問い合わせの記事を読む。うわーラグビー特集がすごいな。問題の記事を読む。ふむふむ。毎度のことだが何が言いたいのか分からない記事であった。「裏を取れ」と言っているこの筆者に失礼だと思い、「裏付け」を行うために大卒以上の家族(文系、理系)に「これちょっと読んでみてくれない?」と聞いてみた。すると二人とも「よく分かんない」と返答された。ということで裏が取れたので、私はよく分からない記事が言いたいことは何か、という視点を出発点に分析したいと思う。
揚げ足を取るようで申し訳ないが、全体的バランスに欠ける文章が目につく。「正しい情報」という定義がなされていないこと(最終的には全部これが原因なんだけど)、教外著書のレファレンスの不備を指摘しつつも自身が引用している文献の主観的要素の多さに気づいていないこと、インターネットの特性を明示せずインターネットの信頼の低さを強調していること、「一つの情報だけを頼りに、あるいは偏った情報を基に記されているケースが多い」と言っているが、著者のレファレンスは(株)日本新聞協会のみであることなどである。確かに丁寧な言葉遣いでカモフラージュされているが、全体的な構成として高校生の小論文でもこんな文章書かないだろうな。パッチワーク文章で段落間が弛緩している。

しかし、そんなことは大したことではない。この文章で筆者が言いたいことは後半3段落だけだろう。そして、この「後半3段落」が解釈によっては由々しき事態なのではないかと私は考える。要約するに「お前ら勝手に天理教のことを書いて発信してんじゃねーよ」という言論弾圧である。表現も「書くなよ」と言えば分かりやすくて、潔さにスッキリするのだが、「責任」や「看板」や「裏をとれ」や「事実であり真実でない」や、最終的には「教えの理こそ、最も重要な「情報」である」???と、すべて輪郭がぼやけた言葉でしか説明しておらず説得力がない。この文章を読んだ人間は、ほぼ反射的に「お前は看板を背負って裏をとって真実を発信しているのか?」という問いが出てくるに違いない。少なくとも、この記事では到底達成されていない。そもそもメディアリテラシーというものは「真実なんて、なかなかわかんないよね」というところから出発するから自己で情報を精査するものである。それをこの筆者は「私の情報は真実である」というところから出発している。なので、ぜひ教えていただきたい。メディアリテラシーにおける真実ってなんでしょうか。NHKであれば真実なのですか。天理教の教えを理解していれば、情報リテラシーは完璧なのでしょうか。私は真実が分かりません。メディアリテラシーより、憲法理解が先ではないでしょうかね。

こういったことを天理時報で発信すると、ホームページやブログを開設している人が萎縮するのではないでしょうかね。そして、著者はラグビーに紛れてそれを狙い撃ちしてますよね?

同じような文脈を最近目にした。兵庫県知事が大河ドラマについて「画面が汚い」とNHKに申し入れをしたことである。これに対して言論の自由を侵害していると方々から反論があがった。それに対して知事は「感想を言ったまでだ」と弁明した。
彼は気づいていない。その発言で、自分の知事としての力量が低いことを証明していることに。知事の仕事の本命は県益を向上させることである。つまり「知事という仕事では県益を向上させることはできませんでした。ここはいっちょNHKさんにもたれて県益を挙げてくだせえ」ということである。
天理時報の著者も天理教の要人であることは間違いない。権力を持った無能な人間は、脅迫するしかできないのは歴史が証明しているだろう。

自明のこととして言論の自由は民主主義の骨子である。言論が弾圧されるのは北朝鮮や中国の社会主義圏である。例えば企業であれば、社員が会社の(事実無根の)不利益を世間に吹聴することは企業として許されない。それは会社というのは利益組織であり、雇用契約に基づいた関係だからである。天理教人がやっているホームページやブログは、利益誘導ではなく典型的な信教の自由の範囲内だと言える。少なくとも教会名などが出ている時点で責任は担保されている。著者や私は個人名を明らかにしていない点で責任性は低い。私が見ても「こんなことを陽気ぐらしを目指す天理教人が書いていいのか」と思うブログ等もある。それは陽気ぐらしへの合目的な功利主義の文脈で私は考えるからである。私の度量衡は、それが陽気ぐらし的かで判断している。しかし、この記事の著者は「自分だけが思う天理教」に合致するかという基準で判断していないだろうか。その人にとってはそれがその人の天理教であろうが「あの人の天理教と、私の天理教はちょっと違う」ということを許容しないのは狭隘ではなかろうか。まさか「みんなの天理教は、私の天理教と同一でなければいけない」なんてことを思っているわけではないよね。

こういったタイプの天理教人を見て、私はつくづく思うことがある。それは、天理教以外の人間に同じことが言えるのだろうかということである。つまり天理教以外で同じことが言えるのであれば、それは偏っていても立派な意見だと思う。しかし天理教以外では肌触りの良いふわふわしたことを言っておいて、対内的には偉そうに言うのは天理教人に対する甘えでしかない。それは学校ではおとなしい中坊が家の中だけ偉そうにしているのと変わりない。これだけメディアが発達してきたことを理解しているのであれば、天理教以外の人間に見られることは必然であろう。私が見ているように。つまり、この筆者はご自身の思想が世間に曝され批判されることを勘定にいれてない。私は天理教は立派な社会的に容認された組織だと思っている。そのため私は社会人の責任として、天理教の内部で繰り広げられている権威的姿勢を社会に提示しつづける。本当に天理教が「だめの教え」(最終的な教え)であると信じるなら、やっていることをみんなに見てもらって判断を社会に委ねるべきだろう。

結論。私は天理教の教えの良
さは男らしさにあると思っているが、この天理時報の記事の文章は男らしくない。全然マッチョではない。私が思う天理教の男らしさとは、許容範囲が広くていろんなものを受け入れてくる懐の広さである。天理教の最大の教えである「陽気ぐらし」とは、国や人種や宗教、思想、出自を超えるものだと私は認識している。しかし言論の自由を抑圧し、同一の見解を押し付けているのが今の天理教の現状であろう。ブログで裏を取る人間がどこにいるんだよ。それこそ社会を馬鹿にしてるだろ。

天理教の名を冠したブログをやっている人間として宣言しておく。本ブログでは言質の裏を取るつもりもないし責任も負わない。内容も偏っており真実なんて一片もない。フィクションだ。読む人は自己責任だぜ。本ブログは公衆便所の落書きくらいで世界で一番、読む価値がないんです。そういうことで。

天理時報4264号視点「信仰者のリテラシーとは」は自由社会に対する挑戦である。」への3件のフィードバック

  1. 匿名A

    一方通行あるのみ。教内で、上から白いものでも黒と言われれば、「ハイ」と答えなければ、どんなに酷い目に合うか経験者が語るです。

  2. 匿名

    真柱を名誉職にして、本部員は全用木による選挙制にするくらいの思い切った方法しか、この組織の崩壊を食い止める事できないだろうね。

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