天理教では、よく素直という言葉が使われる。
その言語解釈は当然のごとく主体的な活用ではない。受動的である。
簡単に言えば自分の意中はさておき、とりあえず
「はい。あなた様のおっしゃる通りでございます」という封建的言語使用の構造である。
「とりあえず」というアンガジュマン的強引さを伴うことが重要である。
ここに「私の意見」は加味されない。「私の意見」は「あなたの意見」なのであります。
しかし、「私の意見」をどうのようにするかという処理方法を私は聞いたことがない。
そして、これがメンタルヘルス上、集団心理学上ことのほか重要なのだとも思う。
「私の意見」は「あなたの意見」と直面化された人の内面では何が起こっているのか。
1.「こいつに何言っても通じないし、とりあえず『はい』って言っとこう」なのか
2.「私が間違いなのであり、この人の言うことは正しい」なのか
どちらなのだろうとつくづく思う。
もちろん、「素直になれ」と発する人にとっては相手が2.と思っていることが前提だろう。
しかし、実際の言語使用を見ていると1.でしかないと思われるような場面が多々聞かれる。1.であることは非常に生存戦略上不健康でしかない。
私はその場面を聞く度に「腑に落ちない」感を覚えるのだが、
それがどこから来ているのかを思うと「腑に落ちない」点が理解できる。
なぜ腑に落ちないのか、それは天理教的「素直」概念の使用は上下関係のみにおいて
使用されるからである。つまり、強者(先生と言われる人)が弱者(目下)に対して、なんとか強者の思い通りにコントロールしたい欲求のもとにしか使用されない点である。そこに封建社会において『素直』が非常に効果的に発揮される本質的な御恩と奉公のような関係とは異なる。
弱者が強者に対して「素直」である場合のみ歓迎され
強者が弱者に対して「素直」であることは抑圧(構造的に無視)されている。
そういった無意識的構造こそが天理教衰退の本質なのかとも私は思う。
少々頭のキレるビジネスマンならこういった関係が非常に不透明で組織力が
弱いということは瞬時に察知されるであろう。
もちろん私が一貫して批判している、宗教的言語概念にもこの「素直」使用は当てはまるだろう。「素直になれ」なんて言葉を使用する人は、相手の言葉を黙殺しコントロール欲求のみでしかない。そしてそれは非常に不健康であり、「陽気くらし」とは対極にあるとしか思えない。そういった人間が「おたすけ」と言っても、私は彼らを尊敬できるほどバカではない。人間をコントロールしようとする人間は、人間はコントロールできると思っている。根本的に気づいていないままに優越感に浸り人間を小馬鹿にしているのだろう。
「素直になれ」を言う人は、その言葉を発した瞬間に「私は弱者に素直でない」という
ことを自明のままにしていることに気づくべきであろう。
「素直な人間」は「こいつ素直じゃねーな」と思うことすらない。素直な人間は弱者の意見にもしっかり耳を傾け、「そうか。お前の気持ちも検討してみる」と素直であるべきでしょう?