宗教とお金について、市井でよく聞かれるのは「高額な壷を買わされる」とか「お布施を強要される」と言われることだろうか。または某学界のように「○○新聞」などの刊行物で定期的な収入を得ていることだろうか。その点について天理教は“比較的安心感がある教団”だと思う。お布施(天理教ではお供え)を強要されることも少ないし、高額な商品を買わされることもない。
しかし、手放しで「安心な教団」と判断することは私はできない。前回のブログで「普請」(ハコモノ建築や建て替え)を巡り、ある日突然に信者に茶封筒が渡されるように、天理教という組織にコミットしすぎると大変にお金に苦労するということである。
天理教という組織にコミットしすぎるとはどういうことだろうか。それは天理教人のいう「因縁(いんねん)」というパラレルワールドに突入することである。天理教人は相手と対峙した時に相手との運命論的な関係付けを求める。その概念は「因縁(いんねん)」というテクニカルタームで説明される。やくざが「おらぁ因縁つけてんじゃねーよ」と言う因縁とはちょっと違う。天理教のそれは「生まれながらに十字架を背負っている関係」と言った方がわかりやすい。それくらい悲観的運命論な意味である。私の感覚では、天理教人の歓待の精神は大変素晴らしいものだと思う。天理教を何も知らない人に対して、天理教人は異常なほど良くしてくれる。そのため深くコミットしたときの任侠のような上下関係や、天理教人との社会的コミュニケーション不全には驚嘆させられる。つまり、どの宗教団体でも同じ傾向があるが、天理教でも同様に外からの肌触りは大変心地がよい。しかし一度足を踏み入れると、気付けば親子関係が形成され「いんねんパラレルワールド」に突入していることになる。その「いんねんパラレルワールド」への入場券は「主体はいんねんを自覚しているか」で入手できる。つまり相手(自分)が自身の存在に対して運命論的な天理教的意味を付与すれば、「いんねんパラレルワールド」への入場資格が与えられる。私のように天理教への知識や理解がある程度あっても「そんなもん理解できん」と因縁の自覚ができなければ入場券を持っていないと判断され、よそ者扱いされ、そして歓待される。それを判定するために、天理教人は天理教人にしか理解できない「徳」や「理」などというジャルゴンでジャブを打ってくるのである。「こいつはいんねんパラレルワールドの入場券もってんのか?」とね。
ここで一つの疑問が生じる。「そこまでしてコミットする必要はない。嫌なら天理教辞めちまえよ。信教の自由があるんだから」と。しかしそれを言えるのは強者であり、事態はそう簡単ではないようだ。そもそも天理教は強者をターゲットにしていないことは天理時報を見ても明かである。信仰の対象は救済が必要な構造的弱者である。天理教に選ばれた人間がいんねんパラレルワールドに一度入ってしまうと、そこから抜け出すことは容易ではない。その理由の他の側面に、天理教の信仰は家族単位での信仰を促進する傾向が強いことであろう。つまり天理教は、天理教人対信者個人の関係ではなく、天理教対家族の集団対集団の関係を求める。個人の関係であれば、抜け出すことは比較的容易であろう。しかし家族がコミットしていては、なかなか抜け出すのは難しい。お父さんは天理教を辞めたいと思っていても、奥さんや子ども、祖父母が天理教の行事などにコミットしていては地域や人間関係などを考慮すると簡単ではない。つまり構造的弱者とは社会的な救済が必要な人間という意味ではなく(もちろん社会的弱者も包摂されるが)、天理教組織の中で弱者(理の子)として扱われることを受容した人間のことである。
話を前回に戻すのであれば、理の親子という上下関係であるいんねんパラレルワールドに入ってしまうと、茶封筒さえも無視することはできない。むしろ無視できたり、断れる人には茶封筒は渡されない。そして毎月渡される空の茶封筒には、いろいろな断れない暗黙の思いが入っているのである。「嫌だから断る」というのは容易ではない。むしろ構造的弱者には不可能に近い。
「天理教のお供えは自由意志である」というのは、いんねんパラレルワールドに入っていない人にとっては正解である。しかしいんねんパラレルワールドに入ってしまっている人にとっては、結婚詐欺に近い背徳感を背負わされる。「断ったらどうなるんだろうか」「安い金額だとどう思われるだろうか」と。また、いんねんパラレルワールドに入っている人は声を上げることも、要求を無視することもできない状況に置かれている。もちろん、信仰熱心な方は喜んで茶封筒に現金を入れる人も数多くいるだろう。しかし私と話をした天理教信者は「なんか違うんだけどな」という違和感を持っていたことは間違いない。違和感があるから、私に見せて話をしてくれたんだろうと思う。茶封筒に入れられるお金は天理教人にとって「真心の真実」として人間的評価が付与される。しかし、それでいいのだろうか。真心の真実を求めるのであるなら、自分のやっていることに自信があるなら茶封筒を配らなくてもいいのではなかろうか。
そうなると教会は誰のものかという問いも出てきてしまう。もし教会が信者みんなのモノであるならば、その普請の決定と集金は信者による民主的主体性で担保されるべきものである。茶封筒の存在は信者の主体性ではなく、教会は一部の役員のモノという証明になるのではなかろうか。それはまた今度。
信仰ってなんでこんなに難しいのだろう。誰か教えてくれないか。ほんとに。
1. 肝のところ
今回は、肝の所だと思います。
私の所にも、何時ものお供えの4割り増しにして欲しいとの、茶封筒を渡されました。4月まで4割り増しです。(>_<)
集まる理は大きいが、集める理は小さいと聞きますが、集めないと集まらないということです。
この程度なら、たいしたこと無いのかもしれないが、身上、事情で教会に入込むとかになると大変なことに、一生を預けないといけなくなる。
助かるのならまだしも、助からないのではと、傍から見ると思うのですが、ほんとうにムズですね。
2. Re:肝のところ
>nanasiさん
「集まる理は大きいが、集める理は小さい」
なるほど、そんな言葉があるのですね。初耳です。理=金になっちゃってますね。
「身上、事情の大変なときに教会にお世話にならなければいけないかも」というのが構造的背徳感であり、信者にそう思わせるのがパラレルワールドの骨子だと思っています。天理教人から見ても、やはりお金は「肝」なんですね。
3. いんねんパラレルワールド
まさに、この「いんねんパラレルワールド」に入り込んでしまうと、抜け出すのが「恐ろしい」という気持ちにさいなまれます。命は差し出せないから、次に大切なものとして金銭ということになります。これがくせものですね。似たような世界に福祉もあげられます。「やってもらってあたりまえ」「ただでやってもらってあたりまえ」このような風潮があります。
4. Re:いんねんパラレルワールド
>深谷さん
なるほど。一番たちが悪いのは、そういったことを天理教人が自覚していない場合でしょう。相手に「恐ろしい」と思わせること。つまり、お供えを断ると「素直ではない」「真実がない」という評価を漂わせることが「恐ろしい」となるのでしょう。逆説的に考えると、「素直」や「真実」という言葉を多用する人間は、相手に「恐ろしい」と思わせる可能性が高いのではないでしょうか。少なくとも私は、そんな人間は怖いです。
5. いんねんパラレルワールドはお金儲けのために作られた?
おふで先の中にも因縁という言葉はありますが、このパラレルワールドのいんねんとは違うようです。中山みきというなにやら平等主義の権化のような人を担いで、心の奴隷を作り出してしまう。現在の人間世界も何やら恐ろしいような感じですが、天理教の世界も何やら恐ろしい世界のようですね。
神の代理人商売が大社高山なんですね。来生はろくな死に方できないだろう。
違いますよ。
天理教を信仰していてよかったことは、最初は馴れるまで修行自分なりに積んで来たつもりですが、今でも至らないこまごまとしたことが、ありますが、積極的に取り組んで行っています。精神科の病気を患っていて今でも覚えるのが、一苦労です。もっと天理教西新分教会の信者さん同士信頼感が、生まれればいいと私なりに思っています。年相応に一任前の人間であり一人の男として、一社会人になれるよう努力していきたい所存です。世の中に感謝し天理教の信者さんに感謝し友人兄妹、今は、天国にいる両親にお礼と感謝申し上げます。