私はあまりテレビをじっくりと見ないが、朝は出勤前の準備をしながら天気予報なり、ニュースなりを聞いている。最近、必ずといっていいほど耳にするのが「女性お笑い芸人オセロ中島」のニュースである。詳細は調べる気にもならないが、彼女は霊能者と出会ってから調子を崩し、その後テレビから姿を消したようだ。それがワイドショーのネタとなっているだけの話である。現時点の論調として、彼女はその霊能者からマインドコントロールされているとのことだ。
こういった芸能人が宗教団体にハマる話題は度々ニュースになる。オウムでは社会問題にさえなった。
天理教では、こういったことがニュースになったことは私の記憶ではない。あったとしても天理教の雰囲気からは難しい。なぜなら天理教は例外なほどオープンな宗教である。天理教の聖地である「ぢば」には、信者じゃなくても誰でもいつでも入れるのである。365日、24時間である。さすがに中心点である「甘露台」周辺(20m四方くらいかな)には入れないが、見る事はできる。このオープンな姿勢は、天理教の安心感でもあると思う。
しかし話はマインドコントロールとなると注意しなければいけないのではないだろうか。結論として、どこからがマインドコントロールで、どこまでが自発的意志かという線引きは、心理学でも社会学でも結論は出ていない。宗教学者の島田裕巳は、今回のオセロ中島件について「マインドコントロールではなく、本人の心の問題」と言っていた。http://gendai.net/articles/view/geino/135292
私には分からない。本人の話を聞いてないし、そもそもあまり興味もない。
厳密に定義するのであれば、マインドコントロールと洗脳は異なるようだ。しかしそんなこと私にとってはどっちだっていい。学術的な話になると問題が複雑になるので、とりあえず「強制によらず、さも自分の意思で選択したかのように、あらかじめ決められた結論へと誘導する技術、またその行為のこと」とWikipediaの定義を採用して話を前進させる。マインドコントロールも洗脳も同じということにするが、このブログでは面倒なので字数が少ない洗脳を採用する。
話は変わるが、2、3日前のツイッターでは天理教の布教についてのツイートが並んでいた。特に関西地方で、2、3日前は同時多発的に天理教の布教がおこなわれたようだ。天理教のホームページによると、現在天理では大学生を対象とした学生生徒修養科が開催されているようだ
http://www.tsa.gr.jp/event/gaku_d/gaku_d.html
なぜ洗脳の話題で、この行事を取り上げたのかは私が言う前にツイートを見ればよい。それが天理教に対する社会の率直な反応であろう。私は宗教の衣装を来た人間が、繁華街で絶叫している姿を見ると恐怖を感じる。
恐らく来週あたりの天理時報では、この学生生徒修養科に参加した学生の、「天理教が大好きになった!」という若者の涙ながらのコメントが天理時報に並ぶであろう。さて、オセロの中島が洗脳で、天理教学生会が洗脳ではないという境界は、天理教人以外には差異がわからず判断が難しい。天理教の布教戦略が洗脳の表現形だとは言わないが、それを見る人にとっては天理教を敬遠する理由に十分なるだろう。
1. <今回のブログの評価>
今回は5点満点で1点。次回に期待します。
(1)「オセロ中島」に関し、「詳細は調べる気にもならない」、「私には分からない。本人の話を聞いてないし、そもそもあまり興味もない」、つまり
カインさん自身が興味もなく良く知らない内容で話を初めている。
(2)「学生生徒修養会」に関し、「天理教のホームページによると—-開催されているようだ」、
これについてもカインさん自身が直接現地へ出向いて調査したわけではなく教団ホームページの情報を引用している。
更に「私が言う前にツイートを見ればよい。それが天理教に対する社会の率直な反応であろう」と続くが、ツイートの内容が示されておらず、何が社会の率直な反応であるのか全く不明。
(3)TVやネット記事の組み合わせで記事を構成しようとしているが、具体性が全くなく、今回は5点満点で1点。
(4)学生生徒修養会参加者は卒業して社会に出て、あるいは教団組織に入って5年もすれば教団組織の愚劣さに気づきマインドコントロールが溶け出す。
(5)教団始まって以来最大規模に膨らんだ本部神殿や大教会の建物、これらの維持修理に人手と大金がかかる。
その一方、戦後最も少なくなり毎年減り続ける信者の数とお供え金、学生たちのマインドコントロールが解ける前に、教団や大教会の財政が破綻するであろう。
(6)カインさんは天理時報の記事に対しコツコツ評論を続けているが、天理時報など評論に値しない。
カインさんが行うべき作業は「天理教団破綻」を前提とした、「おやさまの信仰を続ける心ある信者が進むべき道」を調査情報収集し、カインさんの考えをまとめて世に問うことである。
カインさん自身は意識していないかもしれないが、カインさんが今発表しているブログは、間接的な「天理教団延命」工作である。
2. 洗脳かな
カインさん、こんばんは。
私の場合、生まれたときから、教会で育ち、常に不特定多数の人たちが出入りをしている環境で、プライベートと呼べるものもなく、常に人の目がありました。そして「教会の子供」というレッテルがありました。ただ、私の場合、同じ立場の天理教の友人が一人もいませんでした。当時は、大教会や詰所にいくと同年代の子達同士楽しくやっているのがうらやましく思えたものです。同じ立場の友人がいたらどれほど楽なのかと思ったものです。結局、友人は学校の友達で、もちろん天理教なんて会話にでてこない、一緒にこどもおぢばがりをした幼馴染も同じ立場ではない。いやおうにも天理教の外の環境の方が多かったです。これの意味するところは、どっぷりつかった天理教を客観的に見ることができたともいえるかもしれません。教人は「いんねん」にしばられているのです。洗脳というのかマインドコントロールというのかわかりませんが・・・。私が常に疑問に思ってたのは、「天理教がだめの教え」ならなぜ、天理教でなければいけないのか、ということです。自分自身の信仰心のよすがとして、今は天理教ですが、天理教でなければいけない理由はありませんね。
3. Re:洗脳かな
>源次郎さん
洗脳かどうかは非常に複雑で難しいですね。1点お聞きしたいのですが、「「天理教がだめのおしえ」なら、なぜ天理教でなければいけないのか」という部分についてです。貴殿のご経験から生み出されたこの言葉は、私は大変興味深いと思っています。現在の天理教の本質に近いような、しかし私がいくらその意味を考えても貴殿以上の言葉を(想像的にでも)紡ぎだすことはきません。できれば、もう少し教えていただけると幸いです。よろしくお願いします。
4. 未だなのです
カインさん、おはようございます。
未だ、頭の中でモヤモヤしている問題なのです。なので、思いついたことを書きたいと思います。
天理教も1つの宗教法人にすぎないということです。この社会に合法的に存在するための一つの組織。最後の教えは人間そのものにあてはまるもので、天理教固有のものではないのではないでしょうか。
つまり、親神様=天理教ではない、ということ。宗教とは、神や仏の教え。信仰は、それを実行する、体感すること。本質的に、人間に課せられたカルマ(因果応報)であるならば、宗教は関係ない。宗教をはじめ学問はそれを読み解く手段でしかないのです。
神からの啓示は、すべての人間に等しく降り注がれています。それを、認識できるか、受け止められるかは個人の問題なのです。天理教を信仰したからといって得られるものではないということです。
大声で、路傍後援したり、神名流しをしたり、布教したりするのはアピールでしかありませんね。それをさせているのは、集団心理があてはまります。みんながやっているから、昔の人がやっていたから、とかです。
信仰が他人に伝わるのは、その人の信仰心なのです。フェイスブックのように個人と個人がつながっていくことに意味があるような気がします。
結局のところ、天理教というのは現世的なものでしかないということでしょうか。死んだらわかるような気がします。
まとまってなくて申し訳ありません。この思いをはじめて文章にしました。
5. 神名流しは洗脳か
同時多発的に行われた布教とは、「神名流し」です。これは、洗脳とかマインドコントロールとか名前をつけられるほど「高級」なものでなはなく、他にやることがないのでやっているとしか思えません。これをやらされたがために、お道から離れる人もいるとか聞いたことがあります。
そもそも、これは、教祖の娘のこかんという人が、大阪の街で、「天理王命」ののぼりを立てて、神名を唱えたことが原型になっているのですが、時代考証的なことをするとすぐにこの話は嘘っぽいことに気付きます。
「神名流し」は、このような行為に疑問を感じず、ついてこらる人、あるいは、嘘っぽいことを百も承知で、この組織にいられる人以外をお道から排除するという選別行為になっているという見方もできます。
6. Re:未だなのです
>源次郎さん
まず、私の言葉が余計なお世話であったら申し訳なく思います。昔ある天理教人から「天理教は宗教ではない」という言葉を聞いたことがあります。その意味を問うたところで、その方はそれ以上のことを説明していただけませんでした。しかし貴殿の言葉で、その方が言いたかったことが理解できたようい思います。つまり「死んだらわかる」という、一見矛盾したような言葉に集約される思いを痛感します。僭越ながら、私が天理教人に求めているものは、貴殿のような生きた言葉だと思いました。私が色々と批判する理や徳やいんねんなどといった言葉や概念は表面でしかなく、貴殿のおっしゃる「その人の信仰心」というのが目の前に対峙した人間への礼節なのだと感じました。ありがとうございます。
7. Re:神名流しは洗脳か
>山田太郎さん
天理教人への入場券として、いくつかの行為が「踏み絵」的なものだと感じています。神名流しは恥ずかしさを乗り越え社会に対して「私は天理教だ」という宣言になり、修養科は「仕事よりも天理教を優先」したという同意署名になるのかなと。つまり神名流しが洗脳の結果ではなく、それに参加した者は洗脳への過程にあるといった方が適切かと思います。一つ教えていただきたいのですが、娘のこかんが大阪で神名流しをしたことは知っていますが、「時代考証的なことをするとすぐにこの話は嘘っぽいことに気付く」というのは、どういうことなのでしょうか。こかんが大阪で神名流しをしたという歴史的事実はないということなのでしょうか?よろしくお願いします。
8. こかんさんの神名流しについて
中山みき研究ノート(八島英雄)がフィクションであるとする代表的書物です。それに対する反駁本、確かな教理理解のために(天理教青年会)
と両方読んでどちらが真実なのかを判断されるのが良いのではと思います。どちらも真実ではない可能性はありますが、少なくとも嘉永6年には天理王命という神名は無かったようです。
9. Re:こかんさんの神名流しについて
>一読者さん
貴氏のコメントに対して、屋上屋を架すようで僭越ですが、「研究ノート」も25年も前の本で、今読むのも困難ということもありますので、若干私の意見を述べさせていただきます。
「少なくとも嘉永6年には天理王という神名はなかった」ということは、誰もが認めざるを得ない事実です。「天理王」は明治18年ころから使用されるということは史料的にほぼ確定しています。
とすると、それ以前は何だったかということになります。慶応元年に助蔵事件という教祖から破門されたグループがあり、これは現在まで続いています。このグループが唱える神名は、「転輪王」で、教祖が唱えていた神名(漢字はいろいろ当て字されています)もこれと同じと思われます。
この転輪王とは、仏教説話に登場する理想的な王さまで、インドのアショカ王や徳川家康などもこの王と関連付けて説かれます。
では、今の時代、「転輪王」ののぼりを立てて、街頭に立ち、転輪王の話を取り次いだら、どういうことが起こるでしょうか。
先の読めない混迷の今、ある人は足を止めるかもしれません、聞き耳を立てて通り過ぎるかもしれません。そのうち、その場所の管理者が現れて土地の使用許可は取っているのかなどと言われるでしょう。
そのような中で、教祖の教えは社会の人々の中に入っていく契機としての布教の場ができるでしょう。
ですから、いま私たちがなすべきことは、「天理王」をやめて、「転輪王」ののぼりに変えることです。もちろん、蛙については、「転輪王」についてしっかり勉強しておかねばなりませんが。
最後に確認しておきますが、嘉永6年に17歳のこかんさんが大阪の町角で、「転輪王」ののぼりを立てて、布教したというのは、嘘です。17の小娘に「転輪王」について話ができるとはとても思えませんから。もしできたとしたら、幕府の役人が飛んできて、ひと悶着起きたかもしれません。そんな伝承はありませんから、やはりこの話は眉唾ものですね。
10. Re:Re:こかんさんの神名流しについて
>山田太郎さん
神名ながしの真偽は永遠のテーマだと思っています。高野友治さんでさえ嘉永6年の何月か解からない、従者は誰であったか記録が無い、たぶん十三峠を超えた、どこで泊まったか聞いていないとなると、我々があれ?おかしいなと思うのは当然ですよね。次の年祭でこれが当時の幟ですなんて展示でもあればしっかり眉に唾をつけて見学に行きますが・・・・(笑)。
11. 秀司さん。
青年会が「あらきとうりょう」と言われるのでしたら、こかんさんじゃなくて、秀司さんが行かれた方が「ひながた」になるでしょう・・・
秀司さんは、何をされていたのでしょう・・・???
12. Re:秀司さん。
>1sinjyaさん
中山家の史料には、金銭出納帳のようなものがあります。文久元(1861)年に秀司さんが記した「萬覚日記」には、綿に関する出入りが主に書かれていますが、お賽銭などのことなどについては、まったく書かれていません。それに対して、慶応4(1867)年に書かれた「辰年大寶恵」には主に賽銭の上りが書かれています。これをどう読むかですが、文久元年頃には、秀司さんは、教祖の活動に関与していなかったのに、慶応4年のときには、関与していたということです。教祖の周りに継続的な信仰者が出t来るのは、文久年間位からですから、賽銭も多く寄ってくるようになります。秀司さんの目的はそのお金にあったわけです。秀司さんは、中山家の当主、一番偉かったわけで、教祖も放っておくわけにはいかず、教祖の教えと中山家の進むべき方向を秀司さんに説くわけです。それがおふでさきです。
13. おふでさき
確かにそうですね・・。
おふでさきにある、上、高山を秀司さんと考えると、ストーリーが繋がる個所があるように思いますが・・・
14. No1<「ぢば」は中山家の私有地?>
カインさん、「マインドコントロール」、「踏絵」などマスコミが好んで使う単語は内容が軽薄になるので多用しない方が良いと思います。
「ぢば」の意味(天理教用語辞典、岸義治、養徳社):「ぢば」人間を宿しこまれた一間四方の甘露台が据え付けられている所のみを指して言う」。
(筆者注)つまり「ぢば」の面積は、一間四方(1.82m x 1.82m = 3.3m2)。
手元に次の本があります。
書名:「中山みきー天理教」
著者:小栗純子(宗教学者)
発行日:昭和45(1970年)12月15日
発行所:新人物往来社
この本の中に次の2項目の記述があります。
カインさんの豊富な情報ルートでどなたか本当のことを教えて下さい。
個人的な思い込みや推測ではなく、確固たる事実を教えて下さい。
<第1項目(p187)>:
本書の記述:のちに天理教本部の神殿の中央部にある甘露台の場所が、中山家個人の私有地として登記された。このことは、みきの定住すると考えられた聖なる場を、法的にも中山家の個人所有としておくことによって、中山家の教団内における地位の重要さを確保するためと考えられる(引用終り)。
<教えてほしい内容>:甘露台が据え付けられている「一間四方」の土地に関し、
「質問―1」:この本の記述は誤りである?
「質問―2」:以前は中山家の私有地であったが、今は教会本部の土地である?
「質問―3」:以前も現在も中山家の私有地である?
<おやさまの教えの信者としての意見>:人間宿しこみの場所が、もし今もって「中山家個人の私有地」であるとするならば、「おやさまの教え」の一信者としては真に不可解にして不愉快です。私は「中山教」ではありません。世界60億の人々に「中山家の私有地」を拝ませるのは宗教上も妥当ではないと思います。
(注)字数の関係で以下は「No2続き<「ぢば」は中山家の私有地?>」を別途アップします。
15. No2続き<「ぢば」は中山家の私有地?>
(注)字数の関係で以下は先にアッしたプ記事の続きです。
<第2項目(p192)>:
本書の記述:戦後、中山正善の指揮のもとに制定された天理教教規第一章総則第八条には、「天理教を統べ理める者は真柱である。真柱は中山氏を名乗る。真柱の継承者は、教祖の血統の系譜に基づき、本部員会議において推戴する」と明確に中山家の真柱世襲制を規定している。天理教は中山みきの直系である中山総本家によって統治される中山教へと変質をとげていった(引用終り)。
<教えてほしい内容>:「真柱の世襲制」に関し、
「質問―1」:この本の記述は誤りである?
「質問―2」:この本の通り「真柱の世襲制」は以前も現在も教規に規定されている?
<おやさまの教えの信者としての意見>:真柱の世襲制が教規により明確に規定にされていれば、本部員、大教会長、分教会会長など、教団の幹部や組織構成員が、右へ倣えとなるのは当然であり、教団内に於ける身分や立場が固定化されてしまう。
その結果、やる気もやる能力も無い者がその家に生まれたという理由で教団の幹部に登用され、一方、組織内の身分や立場が低い家に生まれたたと言う理由により、やる気とやる能力を持つ者が指導的立場に立つ事が出来ないという天地さかさまの状態となる。
本人が生まれる前から自分の身分や立場が決まっているような組織が発展することなどあり得ず、そのような組織はいずれ崩壊するのが自然である。
下記「おさずけの理」年間拝戴者の数が天理教教団の崩壊過程を数字で示している。
45年前「おやさま80年祭」の年(昭和41年/1966年)年間37、681名。
その45年後、昨年(平成23年/2011年)年間5、850名。
実に45年間で85%の減少率であり、限りなくゼロに向かって今もなお減り続けている。
今となっては残念ながら「天理教教団の改革は手遅れ」である。
45年間抜本改革を行わず、地位に安住し、無責任に成り行きに任せていた歴代真柱をはじめとする教団幹部の怠慢はまことに恥ずべき行いであり、親神もさぞかし立腹されているのではないだろうか。
以上
16. 無題
ようぼくですが神名流しについてのカインさんのご意見に同意するものです。
こかん様の大阪布教が史実かどうかには触れません。
歴史的真実と宗教的教えは異なるものなので
信仰者にとっては二次的な問題だと思っています。
しかし,もし真実であるとしても今の時代にこれを実践することは時代錯誤です。
少なくとも一般人によい印象を与えているとは思えません。
そもそも時代は江戸時代です。
拍子木をたたいて神名を唱えるしか
手段がなかったでしょう。
拡声器どころかテレビもラジオもネットもなかった時代のことです。
ですから私は原理主義と呼んでいます。
21世紀に相応しい布教の方法をそろそろ考えるべきだと思います。
こんばんは
過去のブログを読ませていただき2012年3月10日「マインドコントロール(洗脳)ついて」で私の今回の質問の回答がありましたので取り下げます。 この本を読んだのは20代でしたがかなりショックで親様の教えと組織の乖離にどうして皆は何も思わないのかと。その時自分は他の理由からお道を離れていましたが。
お詫び~ 青山震著でなく青地震著です。ごめんなさい。
宗教とは、すべからく、マインドコントロール(洗脳)ではないか、と思います。良い方向に、人生を明るく、前向きに生きれるよう、マインドコントロールして頂けるなら、良い宗教、信者を奴隷化し、金を出されるよう仕向ける天理教は、残念ながら、悪い方にマインドコントロールしている、悪い宗教と言わざるを得ませんね。
社会学のコメント欄、御供えの掲示板の投稿欄も。
時間の合間に、読み進めてみました。
まだ、全ては読めてはいませんが。
洗脳という言葉が、多く使われるようになってきたなぁ、と感じました。
洗脳する、している。洗脳させられていた…。と。
宗教、信仰、カルト=洗脳のような感覚かもしれません。
宗教に限らず、人が集まれば、勝手ルールや。
組織的な洗脳感は有るのかもしれませんが。
天理教の方々は。
洗脳という言葉、感覚を、自身の保身の為に使ってはいませんか?
思考停止、という言葉も時々目に入りますが。
人は、心臓が動いて、呼吸をしている間は。
思考は停止しませんよ。
自身の保身の時だけ、思考停止状態のふりをする。
臭いもの都合悪いこと、人と対すること、現実と対することから逃げているだけ…のように感じます。
そして、逃げる、避ける、為の理由付け考えている時点で、思考停止はしていませんよ。
お金を巻き上げる時と立場や威厳を見せたい時には。思考フル回転ですか。
私は、天理教=卑怯な大人の集団。
そう子供の頃から感じてきましたし、これからもそう思っていきます。
天理教組織形態、天理教人、天理教都合の卑怯さは。
両親、本部、大上級教会、部内支部地域の数ある教会関係者、天理教人を通じて。
子供の頃から見てきましたし。
両親のありがたみなどは、感じたことはありませんでした。
物心ついた頃には、家族は崩壊していましたから。
両親は、天理教を自己都合よく利用していました。
そんな両親も、天理教に苦しめられもしていましたけど。
天理教の教え、活動、組織を素晴らしいと思ったことなどありません。
天理教の歴史なども、学ぼうとも思いませんでした。
天理教の教えなど知る前に。
天理教を「信仰と称して利用する」大人達をみ続けてきて。
天理教は卑怯な社会、腐敗した社会だと、子供心に感じましたから。
天理教組織、天理教人、両親を許せない私が。
天理教人がやり散らかしてきた理不尽を。
自身の労と時間と苦痛苦悩と引き替えに。
天理教と戦いながらに、後始末をしてきました。
天理教内で苦しむ方々も多いかもしれませんが。
結局のところ、天理教の後始末をするのは。
天理教外の人間です。
天理教都合で作られるゴミや不条理。
そして、怒りや恨み辛みは。
もっと天理教内で整理し始末してください。
すでに昔に両親は他界していますが。
年月が経つにつれて。
ただ私は?両親、天理教人、天理教組織にいいように騙され、利用されてきただけなんだと。
冷静に理解し、実感しました。
親という感覚は、両親の生前中。
私の幼少の頃には、日に日に消えてなくなっていましたから。
無責任に酔いしれる天理教人の口からでる。
親!という言葉に。
非常に怒りが積もるだけでした。
年月が経てど、根は深く残るものです。
これからも、天理教をふりかざす大人達へは。
人として、嫌悪と怒りしか持てないでしょう。
それだけの事柄が、長い年月に沢山にありましたから。
今までは、洗脳させられていた。
洗脳から解け始めたと、洗脳から気が付けたと。
そう、書かれる言う方々がいます。
では、洗脳させられていたと称する時のことは。
それは、責任はもう背負わなくてよいのですか?
天理教の勝手都合に振り回され。
巻き込まれて、恨み辛みを残された人々は。
天理教人の勝手都合の、使い捨ての犠牲ですか。
天理教という詐欺犯罪集団は。
昔から散々に、人を踏み潰し使い捨てにして。
無能な組織や天理教人の、自己主張や維持の為に。
多くの方々の財やお金を巻き上げてきました。
今も、これからも、変わることも、反省もなく。
人を踏み潰して使い捨てにして。
天理教を成り立たせて行こうとしているわけです。
天理教社会は、人々から財や現金を。
脅迫して、偽りを信条として、搾取する。
天理教社会は、犯罪が犯罪ではなくなる世界です。
天理教に異を唱えれば、権力立場を行使して脅迫し。
個としての筋を貫き、行動し立ち向かうと。
天理教人は不利と感ずると。
悪びれることなく、平気で手のひらも態度も返す。
刑事民事事件での、責任能力の有無のように。
洗脳という言葉を、自己保身の為に使う。
本当は、確信的に搾取し、立場を守りたいだけのことだ。
天理教人が、においがけとして。
他者を引き込もうとすることは。
勧誘であり、洗脳行為かもしれない。
だが、天理教内の中でも。
天理教用語を並べ立て、教内の者が教内の者を。
権力や立場の上下はあったとしても。
洗脳する、してる、されてきました…と。
例え宗教団体であろうが、大人という集団の中で。
洗脳という理由付けは。
大人としての無責任加減、馬鹿さ加減にも、呆れてしまう。
本当は、自身が選んでいることではありまへんか?
教え、教理、神様、おやさまと。
自身で自身を、洗脳しているようにも感じてしまいますが。
天理教の洗脳、いんねん、身上、事情と。
ただの脅迫行為でしかないように感じます。
天理教は、押し付けがましい脅迫行為も、教理なのでしょうか。
カインさんのブログ記事は。
腐敗し続ける天理教組織を例えとして。
日本国に生きる大人達の、これからの日本社会に対しての。
考えて行くべき事柄が、言葉が問いかけが。
沢山に詰まっているように、私は感じました。
そして、カインさんの意とする方向性と。
ブログを読み、投稿する方々の方向性には。
大きなズレを感じました。
人各々の、感性がありますけど。
このサイトをみる、天理教内外の方々に。
もう一度、何度でも、それぞれの記事の文面、内容。言葉を読み返して欲しいと思います。
天理教、教理、教えは関係なく、個の一人間として。
先に生まれた大人として。
次世代に、若い世代に、何が残せてあげられるのでしょうか。
いつまでも、権欲に溺れた無能な天理教組織人を。
増長させるのは、終わりにして欲しいと願います。
「洗脳」という言葉を使うのは、責任放棄である、という鉄槌さんの言葉、厳しいですね。確かに責任放棄したいがためになら、使うのは卑怯かと思います。しかし、自分が騙されていた、それは「洗脳」されていたのだ、という原因、過程を探るための言葉であれば、許されると思います。只、鉄槌さんの言われるように、洗脳に、全てを丸投げすることは良くないですね。
天理教は、荒行や山にこもるような修行もなく。
食事、一般情報などの制限もなく、禁欲事項もなく。
一般社会の中で共存し、生活する宗教団体です。
カインさんの言われるように、道徳団体に近いかもしれません。
日本の宗教団体の中では、極めて良心的な宗教団体かもしれませんが…それは、外面だけです。
「屋敷を払うて~」「天理教の常識は、世間の非常識」と、表されるように。
現実の天理教は、宗教法人格を持った。
ねずみ講、宗教風サークル、搾取詐欺集団、カルトかもしれません。
オウムをはじめ、事件を起こしメディアで取り上げられた、いくつかのカルト犯罪集団のように。
隔離施設で、情報を遮断され、監禁、虐待、暴行行為などを受け続ければ。
それは、洗脳であり、人格の破壊です。
天理教は、そうではありませんよね。
確かに天理教組織、天理教集団は。
虐め体質、虐め体制であります。
しかし、一般社会の中で世間とふれあい。
仕事をしながら生活している、天理教人が大半ではありませんか。
天理教人は、言葉に溺れる傾向がとても強い。
言葉に固執して、行動はあまり起こさない。
波風は立たせない、いい人だという印象も強い。
しかし集金、搾取に対する行動力は、なぜか一級。
天理教は宗教団体としても、とても中途半端が強い。
中途半端が売りなので、上下左右どちらへでも。
都合よく、手のひらを平気で返す。
教理さえも、上下左右に変わってしますしまう。
洗脳と云う言葉さえも、天理教の大人たちが都合よく使っていると。
私は感じます。
しかし。
大人の権力、都合を使って、子供や若い世代に。
天理教を強要するのは、洗脳であり脅迫です。
「天理教の常識は、世間の非常識」は、天理教人全体が作り上げている、歪な天理教社会です。
ある方のコメントの中に。
「社会、世間が嫌悪するのは。天理教にではなく。天理教をしている人達に対してではないのか?」
そのような主旨のコメントがありました。
私もそう思います。
カインさんが、他の記事のなかで。
出直しについて、少し触れてありました。
カインさんが伝えると、不思議と頷けるわけです。
天理教人が熱心に語ると、疑問と嫌悪が強く残る事柄でも。
カインさんが語ると、伝わる言葉が沢山にあります。
確かに私の天理教人に対する偏見は、強いかもしれませんが。
それだけのことを、私に対して。
両親であり、天理教を利用する大人達が。
人の時間と気持ちを。
土足で踏み荒らし、散らかし残していったのが、私の現実なのです。
時間に余裕もなく、強い眠気もあり。
厳しくも、攻撃的に書き過ぎたかもしれません。
私は、天理教人の方々のように。
謙譲語、尊敬語はうまく使えません。
誰に対する、何に対する。
謙譲語、尊敬語なのかは、私にはわかりませんが。
善い人でいようとするから、洗脳のようになる気がします。
人間には、感情があります。
中山みき様にも、感情はあったと思います。
生きている、生きていくということは。
感情があり、感情を出して、生くことです。
でも、中途半端より。
良いのではないかと、私は思います。
「波風は立たせない、いい人だという印象も強い。
しかし集金、搾取に対する行動力は、なぜか一級。」
ご恩報じ=お尽くし=徳積
ということを下手な会長が言うと強迫的になるが、上手い会長は、徐々に教育していく。(洗脳とは天理教人は思ってないが)
洗脳という言葉で、どこまで許されるのでしょうか。
どこまで騙され続け、どこまで自己犠牲すればよいのでしょうか。
天理教=ヤクザ社会。
いや、天理教の実態は、ヤクザ社会以下でしたね。
渡世の生き方をする方々は、悪という生き方を。
自身で飲み込み現して、法にも強く罰せられます。
しかし、男気、女気、自己犠牲…人間味、情に溢れる人、人として真っ直ぐな方々も沢山います。
天理教はトップ~末端と呼ばれる組織構造の方々まで、男性社会ですが。
そもそも、末端とは誰がつけたのでしょうか。
男性の方々は、老若、男らしくない、男気がないと。
そう、とても強く思います。
女性の方々の方が、元気がありますね。
評判の悪いカイチョウサンフジンサンも、沢山いますけど。
青年と呼ばれる方々は、覇気の抜けた目をした。
個の方向性を持てない方々が多く見受けられます。
天理教のやってきたことと、先が透けてみえますね。
そして。
天理教人は、宗教法人天理教集団を装い。
犯罪紛い…いや、実際は犯罪です。
犯罪を通っても、法に罰せられないわけです。
信心深く、センセイ、カイチョウサンを信頼するお年寄りの方々から。
天理教用語を並べ通し、金銭、財を騙しとり続け。
天理教の異常な権力構造を利用し。
徳がない、因縁が悪い、信心が足りないと。
信者さんの人格を否定し、騙し、陥れ。
構造的弱者を造り上げる。
さらに、障害者、気の弱い人、環境に恵まれなかった人、たまたまに踏み外してしまった人、心に傷を持つ人、不自由な人、若者、子供たち…。
反抗せずらい弱者を選び、愚弄し罵倒し否定し。
弱者を虐め、自己欲自己陶酔に浸り。
相手側に筋を通され、不利とわかると。
知らぬ存ぜぬで、平気でその場凌ぎをし。
後で、あいつはわかっていない…と省みもしない。
天理教に追い込まれ、自ら命を絶った方々がいます。
実際の絶たれた方々の命は。
書籍、ネットで知られるだけではないでしょう。
本当は、公表されずとも。
年に何人もいるのかもしれません。
自殺とは、事実上は他殺ですよ。
とくに天理教は、形はどうあれ。
一人を集団で追い込む傾向があります。
命を絶たずとも、精神を壊され、財を奪われ。
天理教に、人生を破綻させられた方々も沢山います。
外国のある国では、イジメという概念はない、と。
ある本で、読んだ覚えがあります。
イジメは刑事事件であり、犯罪という認識です。
そして、イジメを見て見ぬ振りをした周りも、罪に問われるらしいです。
宗教法人天理教集団の中の、極一部の方々。
天理教のトップ~末端と呼ばれる、天理教異常組織構造の極一部の方々。
殺人、傷害、脅迫、強要、詐欺、略奪、横領、強姦、虐待、虐め、イジメ、民事事項、…。
国の施設で刑に服し、罪を償って来い。
何年かかってでも。
そして、堀の中で徹底的に虐められて来てください。
精神や家族が崩壊するまで、徹底的に虐められて来てください。
刑期を終了し通ったら。
自身の財を全て、教内の奪った方々の為に償って下さい。
そして、天理教には復帰せず、世間、社会に出て。
神だ教えだと唱わずとも、直向きに生きる世間、社会の方々から、生きることを学んで下さい。
人を相手を想うことを学んで下さい。
体裁より大事なものが、人には在ることを知って下さい。
それで、何も感じなければ。
荒行の厳しい宗派の仏門をくぐり。
修行を重ね、掃除を重ねて下さい。
我が身を汚して、掃除をすることを、最低限知り得て下さい。
天理教の中にも、色々な人がいるから…。
色々な人で済むのであれば、教えなどと、要らないのです。
天理教人の云う、陽気暮しとは。
自己反省しなくてよい、ということに感じます。
他人を踏みにじり、使い捨てにしてもよい。
我が身さえ良ければ、それでよいと。
天理教の教えとは、何を通したいのでしょうか。
何を伝えたいのでしょうか。
天理教の甘露台、社は、集金の目的にしか見えません。
私には、中山みきは。
天理教の教祖とは思っていません。
もうすでに、百年以上前に他界された、歴史上の人物の中の、ただの一人です。
中山みきを、嫌悪する気持ちも一切持っていません。
みき様も、不自由であり、家族に恵まれなかった方だと思います。
天理教人の方々は、中山みきを敬うが。
中山みきを利用しているのも確かです。
いい加減に、存命の理などと。
中山みきを利用するのは、見苦しくはありませんか。
天理教が中山みきを語るだけ、中山みきが汚されているように思えてなりません。
天理教を中山一族教などとも思いません。
天理教は、トップ~末端組織部、信者さん方々で。
造り上げ、そしてこれからも造っていくものです。
そして、
いつまでも天理教の過去を何十年にも渡り。
ほじくり返して、また同じことを何度もほじくり返し続けたところで、何も進みはしません。
ほじくり返したところで、問題点しか出てきませんよ。
天理教の現実の9割5分は、問題点かもしれません。
応援支持できるのは、災救隊活動、お節の振るまい、ぐらいでしょうか。
腐敗する天理教を続けることは。
神の導きなどてはなく。
それは、個人の自由ですし、個人が選んだことです。
「過去の先には未来はない。 結果はやってみないとわからない。」
日本のある大企業の経営者の言葉です。
中山みき、天理教の成り立ち、教理、組織構造…。
過去に執着し、過去に依存し続け、過去に責任を求めて、間違い探しを繰り返して。
それが、天理教の信仰であるならば、いつまでも過去に依存していてください。
いつまでも過去に執着する大人達をみて。
若者は失望し、嫌悪し、離れていくのでは。
現在の現実から目を反らすのが、信仰なのでしょうか。
天理教外、一般社会が天理教に出来ることは。
「天理教を潰すこと」になると思います。
天理教に必要性は、求めてはいないのですから。
天理教の今後を前後左右行進していくのは。
やはりに、天理教内の方々です。
ただ、社会学、お供えについての。
コメント投稿欄の内容、意見の数の少なさ。
昔に私が見てきた、天理教人の当時の現状を見ると。
天理教のトップ~末端部、信者さん。
過半数以上もしくは、天理教のほとんどの方々が
天理教が潰れようが、どうでもよい。
天理教が潰れることを望んでいる。
そのように強く感じます。
天理教内であろうと。
結局のところは、「人対人」しかないのです。
人を支えられるのも、人を踏み潰すのも。
結局のところは、人なのです。
天理教の問題は、間違いなく天理教人が造っているのですから。
神様、みき様、教え、と目の前の現実から目を背ける前に。
いつまでも過去に執着し、目の前の現実から目を背け続ける前に。
談じ合い、練り合いなどと、美化せずに。
組織批判するのであれば、対面で、面前で、堂々と話せばよいのです。
天理教人が天理教人と、向かい合うことから逃げ続けるているからには。
天理教の腐敗は止まらないだろう。