幻想について

暑い。ここ2、3日で一気に夏になった気がする。

今日は一日働いて夕刻電車で帰った。近所の駅に着き、駅のホームから改札までエレベーターに乗った。私が一番に乗ったので、エレベーターガールのように皆がエレベーターに乗り終わるまで『開』ボタンを押していた。降りるときも全員が降りるまで『開』ボタンを押し続けていた。当たり前だが、ほとんどがサラリーマン。企業戦士な荒んでいる方々は私が『開』ボタンを押してようと当然のように出て行く。誰も私に感謝なんてしない。しかし、最後に出た年配の管理職だと思われるおっちゃんが私に頭を下げ、「すみません、ありがとう」と連呼しながらエレベーターを降りた。降りた後も、後ろ向きな姿勢になりそうでも私に再度頭を下げられた。顔を上げる際、私も恐縮し笑顔で会釈すると彼は私に親指を立てて『good』サインをし、振り向いて帰った。私は『good』サインを返せなかったことを悔やむ。なかなかカッコイイ男を見た。

それはさておき、幻想について質問があったので答えようと思う。
私は常々「愛や信頼は幻想である。また宗教的言語概念も幻想である。」と言っている。それについて私は結局「愛や信頼や宗教的言語概念は存在しえない」ということかといったものである。
結論から言えば、存在すると思っている。
幻想というのは存在しえないものという意味ではなく、そういった概念の使用者は適切な理解に基づいて発せられているのではないということを言いたいのである。
例えば、「いんねん」について話す会長に対して、私は「あなたはいんねんをわかっているのか」ということを問いたい。(実際に問うても他者を納得させる理路を提示できるような会長は皆無である。ほとんどが一時的な感情に任せて『いいくるめたい』欲求場面でしか使用されない)
例えば、里親をされている方が『家族は愛と信頼が大切』という場合と阿部首相が『家族は愛と信頼が大切』という場合では水準が異なる。抽象的な言語を使用する場合、その言語が相手に届くための重要な要素は背景と目的であると私は思う。この場合言葉が届くというのは音声ではなく体である。その変のヤンキーが『愛だね』と言っても大人たちはシニカルに見ているのと同じ理路である。それはヤンキーの体から紡ぎ出されたコトバではない。愛とか信頼が、人と状況によって軽々しくもあり、重々しくもあるのはそれである。宗教的言語概念であっても相手をコントロールしたり意図的に悟らせるような目的や状況の中で使用する人間を尊敬できる習慣を私は持ち合わせていない。

しかし、ここで注意しておかなくてはいけないことがある。今回、抽象的概念という解釈をするために愛、信頼と宗教的言語概念を並列したが、これらは言語水準として同じであるということではない。愛や信頼は幻想でありながらも日常生活的に感受できるものであるが、宗教的言語概念については「そもそもどの程度の人間が感受できるのか」という疑問符が必ず付く。原理主義的に言えば「たんのうし素直になれば感受できる」ということになるのかもしれないが、果たして実際的に感受している人間に人格者として一貫性が通っているのか私は聞いたことがない。それはやはり、ヤンキーと「いんねんは・・・」という会長が同質としか見れないからなのだと思う。

会長『さん』の質的低下については異論がある人もいるかもしれない。しかし、会長というレッテル抜きに人格者として質的に低下していることは異論はないと思う。現在の日本社会の質的低下がそのままである。そこに「天理教」を特別なものとしての宗教的意味はそんなにないのだろうとも思う。存在意義とは社会の構成人員の質的低下が伴っても決して会長さんだけは質的な低下を招かないことだと思う。「おぉあの人カッコいいな」と思われる会長さんはどんどん少なくなっている。現代の狂った日本社会を牽引している要因の一つには権力が放し飼いされている天理教なのかもという危惧を覚えるのは私だけだろうか。

追記
会長さんの質的な低下については私は至る所で聞いている。団参で「面倒な」信者を本部に置き去りにして皆でバスで詰所に帰るとか。巡教で全く信者に会わずに話(高圧的)だけして「お車代」と「高級郷土料理」を強いるセンセイとかね。上の教会になればなるほどそういう傾向はあるみたいだけどね。。どうでもいい部分だけ組織が構造化されて、大切な部分は放ったらかしな部分も現代日本と同じだね。

幻想について」への2件のフィードバック

  1. 基本

    > 原理主義的に言えば「たんのうし素直になれば感受できる」ということになるのかもしれないが、
    > 果たして実際的に感受している人間に人格者として一貫性が通っているのか私は聞いたことがない。
    > それはやはり、ヤンキーと「いんねんは・・・」という会長が同質としか見れないからなのだと思う。
    中山みきは「因縁はみな同じ」と説いている。「ヤンキー」も「いんねんは。。。という会長」も「原理主義者」も「人格者」も「素直な人」も「反抗的な信者」も、因縁は皆同じであると、それが天理と教えられている。

    「天理教会」も「日本」も因縁は皆同じ、それが中山みきの教えであり、
    >里親をされている方が『家族は愛と信頼が大切』という場合と  >阿部首相が『家族は愛と信頼が大切』という場合と、因縁は皆同じであと示しているのが、中山みきの天理の教えである。
    政治家の質的低下も天理教会長の質的低下も、因縁はみな同じで、それは「中山みきは人間ではない、親神だと知らない」因果律ゆえであると、教えている。

    その「みんな私の子やで」という天理を、幻想と思っているのが天理教会であり、指揮する幹部であり、素直に「おやさまの子です」と思えないから、必死に素直になれと強要するのも因縁ゆえである。
    「子が悪いのやない。おやの教え届かんのや」と、中山みきが悪いという自白は、きちんと告げられている。

  2. 基本

    > 原理主義的に言えば「たんのうし素直になれば感受できる」ということになるのかもしれないが、
    この議論は、本末が逆である。因果が違う。
    「感受できる」⇒「たんのうし素直になれる」であり、逆はない。
    「たんのう」とは、「堪能」であり物事に精通している状態を言う。
    感受できないものに精通はありえない。音感が悪くて感受できないが「堪能できる」は詭弁である。

    先に感度があって感受があって、耳の良い人が「修行」して「たんのう」に至るのは、「いんねんは皆おなじ」であり、
    才能のない人が語力忍耐我慢で、精通者になるなど、文字通りの幻想である。

    「堪能」できるから「たんのう」なのに、幻想を語るに、教団幹部が示している世間と真逆を採用している点で、4拍手の礼法を教え込まれ無批判に受け入れて4っつ拍手しおやさまと通じているとの錯誤、「いんねん」が見える。

    中山みきに精通し中山みきを感受するには、「教団」や教会長」の悪因縁に染まらないことだ。

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