以前のブログで、私は天理教人のポジティブな要素を前面に出して「社会と天理教を架橋するために天理教人は社会に出た方がいい」と言った。すると、それに対する反応を多くいただいた。その反応の多くは「無理だろ」というネガティブなものであった。以下、ある方の短いコメントであるが天理教のリアルな構造が凝縮されているので再録したい。
天理教の人間はやたらとお道の人間と世間の人とを分け隔てているように感じます。
世間の人たちと自分たちは違う自分たちが特別であるかのような話にはうんざりします。私の知っている教会の人間はペテン師ばかりだと思っています。それくらい外と内の顔は違います。
社会に出たくてもその意思は通用しません。天理教の会長は特に自分たちの子どもを社会に出さず社会に出ることが道から外れている様な、間違いを犯すような気持ちにさせます。社会の色に染められて天理教の精神を忘れてしまうのが恐いからなのか何なのかは知りませんが、教会や天理教の施設で生活している限り自分の意思は有って無いようなもの。会長や先生と呼ばれる人の教えを守ることが信仰で、その人たちの意に反することは、埃だの欲だのという言葉で切り捨てられるのです。
子供に自由な夢や希望なんて持たせてあげられないのが天理教社会での現実です。
天理教組織から一歩引いて見ている私の言葉よりも、重みが異なる生の言葉だと思う。私にコメントやメッセージを寄越した方すべてが、ネガティブな反応をされる。私はそういった天理教のネガティブな点を知らないわけではない。むしろ、このブログをやっていると、天理教のダークサイドを数多く教えていただける。しかし、私が知るダークサイドが天理教の姿なのか、多くの天理教人に当てはまるのかは分からない。私が知る天理教人をみても、人として尊敬できる方もいれば、「本当に信仰者なのか?」と思う方もいる。天理教の将来像について想像し言語化すると、どうしても教義解釈の仕方や教義史実闘争になるきらいがある。申し訳ないが、私は天理教研究者ではないので教義解釈や史実闘争は理解が及ばない。そして、天理教人が布教する社会の人間にとっても天理教の細かい教義史実なんてどうだっていいだろう。信仰者にとって教義というものは、とても大切なものであることは理解できる。一方で行動レベルでの実践は手薄であるように思う。時折「天理教人は社会に出て、社会性を学ぶべきだ」という言葉も聞かれる。また中世キリストで異端を取り締まるための「異端審問裁判」が乱暴におこなわれた。私はそこまで攻撃的な指導や取り締まりは求めないが、天理教も社会の一員であることを求めるのであれば、社会の審問を受けるべきではないだろうか。私が言っていることはメタの部分であり結論ではない。その意味では社会にとって良いものは拡大してほしいし、悪いものは淘汰されればいいと思う。こういった考えは経済合理主義に毒された行き過ぎたキャピタリズムだろうか。しかし今の天理教では、こういったキャピタリズムを乗り越えるほどの天理教必要論を提示できる人は少ない。そこには「道専務」であることに優越感を覚えて、歩みを止めている保守的な老人か、倫理を重んじる中年だけであり、若者はやる気を削がれている。良い商品は皆買っていき、悪い商品は誰も買わない。天理教という商品価値はどこにあるのだろうか。信仰がなくても生きていける時代に、この問いは非常に難問である。しかし自室に籠って自慰行為ばかりしていては、自己点検なんてできない。天理教村と揶揄されないように開放することを提案したい。
1. 99%
天理教の方の99%、はとてもフレンドリーです。
しかし1%の、立場と利権を持つ人達が、教えの指導者となっているのが問題ですね。
根本的な解決は、一度、つぶれるしかないでしょう・・
良心的な信者が離れて行き、居心地の良い1%は同じでも、この1%が2%・3%・・・と割合が増えていくようになるのでしょうね・・・
まるで、今の年金問題のように、少しの信者で、大きな利権を持つ人達を支えていかなければならないように、なるのでしょうか・・・
2. ありがとうございます。
信仰がなくても生きていける時代、自己点検という言葉が胸に刺さりました。
自己点検は信仰してようがしてまいが大切なことだと思います。ただ、その点検を社会の目線でするのか、信仰的目線でするのかで変わってくると思いますが、私は社会的目線ですることで自分の位置づけができ、信仰の大切さがより深くわかる気がします。信者同士のやりとりよりも多くのことが学べるし、価値のある経験ができると感じています。それもまた、私一個人の感じ方ですが…
3. 無題
どの時代においても、信仰心のある人、ない人はいます。無宗教と名乗る人々は、宗教は心のよりどころとしている心の弱い人間と思っている人もいます。つまり、私も宗教にはたよらない、自分だけが信じられるといったような。
信仰とは何か?
言葉に出来ないことは表現のしようがない。言葉は「個」を表さないからです。つまり、りんごの味は、と問われて答えられないように、本人が食べてみるしかない。
信仰心というのは、各人が悟っていくしかないのではないでしょうか。
「見るもいんねん
聞くもいんねん
世話取りすることなおの事」
と、聞かせていただく。
現時点での私が対峙した言葉や現象、体験から何を悟っていくのか。原典の出典がどこであろうが、どう解釈しようが、関係ない。誤った解釈なら誤った結果がでるだけ。それが私の信仰なのかもしれない。
信仰心の前には、天理教組織は関係ないと思います。
4. Re:無題
>源次郎さん
「見るもいんねん
聞くもいんねん
世話取りすることなおの事」
その通りです。よく聞く言葉です。私もそう思っています。
「だから何を見ても、黙っていなさい」とは違うと思います。
おかしい事、駄目な事、正さなければならない事には立ち向かって行かなければならないと思います。
天理教組織に問題がある、と分かっていても私の信仰心とは関係ないという態度は、いかがなものでしょうか?
それこそ、天理教組織に洗脳されているように思います。
5. 社会よりもまず教内理解へ
「天理教人が布教する社会の人間にとっても天理教の細かい教義史実なんてどうだっていいだろう。」「天理教という商品価値はどこにあるのだろうか。信仰がなくても生きていける時代に、この問いは非常に難問である。」
この二つの問題は、非常に関連していると思われる。道友社が売っている布教用チラシをみても、そこに天理教の独自性が感じられるだろうか。どこかで読んだことがあるようなことしか書かれていないように思う。
長い天理教の歴史の中で、(仏教やキリスト教に比べれば、ごく短いともいえるが)教祖の持つ魅力はそぎ落とされ、信者獲得、教団維持のための教理が大手を振ってそこに入り込んでいる。
まずやるべきことは、社会に対して主張することではなく、今天理教の中にいる人に、教理変遷の事実を伝えなければならない。もしそのような活動を行うならば、それは自ずと社会の(まずは宗教分野の専門家などから)中にも知られるようになって、天理教の商品価値が認識されるようになるだろう。
6. はじめまして
ブログ非常に興味深く感じます。
私の代で天理教は七代目となります。しかし私自身は宗教は不必要と考えてます。
心のよりどころにしたいのならすればええけど、それをうまい具合に使って人を困らせたり、他の宗教との信者の奪い合い。
それやと余計世界は一つなんかにならないんやないかなぁと感じるのです。
ちなみ今天理管内の学校で働いてます。道の布教師を育成するための場ですが、渡し自身がこのような考えなのでいるべき場所ではないと感じてます。しかし3年言われてたので抜け出せなく・・・
またちょくちょく拝見させていただきたいと思います。
7. Re:はじめまして
>MKさん
あなたは実名で登場して・・大丈夫なのですか?削除された方がいいのでは・・
でも、多分、あなたは信念を持っている人でしょう。
これからも、あなたは、あなたらしく生きて下さい。
どこかで一度お会いしたいですね・・・。
8. Re:Re:はじめまして
>1sinjyaさん
私もそう思います。ブログ主のカインさんさえ、ハンドルネームで書いておられるわけですから。最新の投稿ではお立場まで明らかにしていますので、老婆心ながら心配になります。削除はブログ主しかできないので、カインさんも配慮していただければ幸いです。
9. コメントについて
要請があれば配慮します。アドレスは公開していますので、私にメッセージかメールを主体者が送っていただければ対応します。
10. Re:Re:はじめまして
>1sinjyaさん
機会ありましたら是非お会いいたしましょう!