googleで「天理教」と検索する。検索結果の最初の画面で、天理教に批判的なサイトが半分くらい出てくる。ほとんどが匿名の掲示板である。凄い、というか怖い。
以前、天理時報で天理教幹部が信者に対して「あまり天理教のことをネットやブログで発信しない方がいい」というニュアンスのことを発信していた。その結果かどうか分からないが、ネットでは天理教人が管理者と思われるサイトは少なく(検索上位には出てこない)、天理教を批判するサイトばかりが目立つ。天理教人によるネット発信機能を抑制すると、このままいくと天理教と検索すると、天理教を批判するサイトでネットは埋め尽くされることになりかねないのではないだろうか。特にネットというツールはネガティブな拡散速度が速い。以前のようにネットの情報は信頼できないと言って相手にしない対策は、どこに向かうのだろうか。本当に天理教幹部が天理教人の発信機能を抑制したいと思っているのであれば、こういった対応は本当に「社会を何も分かってない状態」ではないだろうか。社会の潮目がまったく読めていない。
むしろ天理教人にどんどん発信させて、「天理教」とググれば天理教の有益な情報が溢れる方が天理教にとってはいいことなのではないだろうか。私のブログのように、私がいい加減なことを言っても、読者が「カインの言ってることは間違いだ」と訂正してくれる方もいるし「カインの言いたいことは、こういう意味なんだよ」と私に替わって説明してくれる方もいる。私は読者に助けられている。
天理教幹部の中には、実は天理教の転覆を望んでいる者がいるということなのだろうか。どっちにしろ社会と天理教は逆方向に進んでいるようだ。
1. 信念を社会の動きに向けなおすべき
ネットにあふれる天理教批判サイトですが、その大半が広い意味での教内者・教内関係者による内部批判・内部告発サイトです。アクセス数が多いので常に上位にヒットするわけです。ある意味、こんなに内部批判や内部告発の多い宗教も他にはないでしょう。
その一方で、各教会や教友レベルでのものもじつは沢山あります。でも、これらはつまらないので、関係者しか見ない(関係者すら見ない?)ため、決して上位に来ないだけです。いくら天理教人が今後、たくさんサイトをつくっても、これまでと同じようでは残念ながらだれも見向きもしないでしょう。作り方のコンセプトを変えないとまったくダメですね。
でもなにより根本的な問題は、これだけ内部批判・内部告発が多いのに、かんじんの批判される対象である教会本部や教会制度などについて、教団組織の側は何の積極的な反応もせず、またこれらの批判を受けて何の改善策も講じないことです。こんなありさまだから、天理教幹部が天理教の転覆を望んでいるとカインさんが思われるのもうなずけるわけです。
すでに天理教改革・改善の方策提案は出尽くしている感もあります。封建時代さながらの本部-大教会-分教会の教会制度は見直すべきというのは、ネット時代以前からずっと言われ続けてますね。
しかし、なんの有効措置も出されないため、残念ながら下部ないし末端のほうから次々と立ち行かなっている教会(事情教会と言います)が増加し、今では全教会の3分の2になっているという指摘もあるくらいです。社会のほうを向いて活動しない教団は、社会から見捨てられるだけです。信仰のエネルギーを外向きにもっと生かす(カインさんのいう歓待精神の発揮など)だけで、ずいぶん違ってくると思います。
自分の代で大教会を解散し、部内の教会をすべて教会本部直属にすると宣言する大教会長でも現われれば、それが直属レベルでの起死回生の策になるかもしれませんが。
2. 知は力なり
現在の天理教の状態を一言で表すと、看板と中身が違うということでしょか。
どこがどう違うのかは、自分で勉強するしかないでしょう。教団は、その事実が知られれば、信任を失うことは確かだと思うので、公表はしないでしょうから。
改革は、誰かさんがこうしてくれたらとか言っているうちは、何も変わらないでしょう。
自分の行動を変えていくことが必要でしょう。
「知は力なり」です。
3. Re:知は力なり
>山田太郎さん
私も、うすうす感じてはいますが、どうも何かが違うと思っています。
「知は力なり」・・・どこで「知」を得ることができるのでしょうか・・。
看板も中身も、もうバレてしまっているように思います。
4. 無題
「教祖は、里の仙人をつくるのが、この道であると仰せになった。里の仙人とは山の仙人に対して使用された言葉で、深山に入り難行苦行をして、その精神を練磨したと同様の結果を、里に住居しながら得るのを指されたのであるから、本教の信者にして相当年限を得た者は、仙人の如き心境に達していなければならぬはずである。
然るに本教の実際を見るのに、そこまで精神を浄化した者も無ければ、その境地に到らんと志している者も少ない。朝に夕に想うたり考えたりすることは、俗人にも劣っているようなことがしばしばある。これでは里の仙人どころではない。山の仙人になっても、難行苦行の道は通れまい。
教祖の御帰幽から年限が隔たれば隔たるだけ、本教が全体として発展するだけ、世俗的な思想が次第に普及し、真実の一筋道を精進する者が少なくなり、宗派内の栄達や物質的生活に憧れを持つようになる。これでは全く里の俗人と言うべきである。
こういうと悪口のように聞こえるが、決して悪口ではない。私は正直に事実を語っているのである。今から二十年も以前に遣っていた心と、今日遣っている心とを自分で対照してみると、あまりの相違に自分も驚かされるのである。同時に周囲の人々の心遣いを考えても、私と同じ経路を通っているようである。ゆえに手を繋いで人々は、里の俗人となりつつあるのである。
こうした道を進んだら、最後はいかなるものに突き当たるのであるか。これは誰にも分からないことであるが、しかしこの道を歩む者自らが苦しまねばならないことは、非を見るより明らかである。里の俗人、何と云う忌まわしい名であろう」。