天理教人は、あらゆることに不満が多い

我が家に天理時報が届かなくなってから数ヶ月。天理教に関するネタがない。ネタを拾うために天理教道友社のホームページでアップされている天理時報の「視点」を読む。4月15日号の「“幸せな若者”への働きかけは」というテーマである。
まず3月28日に天理でおこなわれた学生のイベントの参加者に触れており、
参加者アンケートによると親が未信仰の人の割合は全体の14パーセント、約700人。若者による若者へのにをいがけの輪が広がってきている。
とある。何を根拠に「若者による若者へのにおいがけの輪が広がってきている」という結果を導きだしているのか疑問である。せめて過去数年の増加量を提示して(もっと言えば、変数間の有意差を出して)「輪が広がっている」というべきである。
それはエッセイに対しては少々厳しい注文かもしれない。しかし著者が取り上げている「絶望の国の幸福な若者たち」という本は、社会学者による社会学的な本である。私もずいぶん前に読んだが、この本は社会学者らしく、主張の根拠となるデータが多用されていた(と思う。あまり覚えてないけど)。当たり前のことであるが、データは絶対である。しかし導きだされたデータには様々な交絡変数やバイアスが介在するため、どのように解釈するかは注意しなくてはいけない。例えば結果が50%であっても人によっては「50%も」と思うのか「50%しか」という違いを検討しない考察は書いてはいけないということを先週の授業で学生に教えたばかりである。原発問題がいい例のように、自分の主張について都合よくデータを集めれば表面的な説得性は高まるが、決してアポリアに対する解答であってはならない。この本の最大の主旨として50代60代が偉そうに言う「最近の若い奴は…」という「若者論」は無根拠、無意味である。若者は現在の不遇な状態に対して満足であり、将来に対して不安をもっていることをデータで示している。でも結論は控えめだったように思う。記憶にない。

私が言いたいことは何かと言うと、天理時報の「視点」のように若者論を抽象論に置き換える保守的な老人世代の言っていることは社会にとって無意味である。無意味でなくても「若者はダメだ」と言うきとで、若者のモチベーションを高めることには決してならない。むしろ有害である。それは、なぜ最近の若者は今に満足し、将来に不安を覚えているのかということの理由を少しでも考えれば分かるはずである。そう、今の若者の状態は、我々が社会の恩恵を食いつぶしてきたことが一因である。少なくとも、将来は現在の結果であるとそのように考える方が建設的である。この天理時報の著者は、そんな現代の若者像に対して不満を持っている。しかし、「お前たち若者は「我さえ良くば、今さえ良くば」に毒されているから、もっと天理教を信仰しろ」と言うことで、本当に若者のモチベーションが上がり信仰が広がると思っているのだろうか。

一般の若者たちの間でも、被災地で各種ボランティアに励む姿は多く見られる。両者は、人のために自分ができることをするという点で相通じるが、親神様への報恩感謝の心からつとめるひのきしん、「一れつきょうだい」の教えのもとで展開される、信仰心に基づくたすけ合いの実践という意味では、明らかに一線を画す。

先行きの見えない社会背景が影響しているとはいえ、すでに「幸福感」を味わいながら生きる現代の若者たちに信仰的な働きかけを試みるのは一筋縄ではいかないだろう。しかし一方で、自分の身近にある「小さな幸せ」「いまの幸せ」だけを求める生き方は「我さえ良くば今さえ良くば」という、利己的で刹那的な考え方の延長線上にあるものとはいえないだろうか。まして「陽気ぐらし」「一れつきょうだい」の教えの世界からは、程遠い生き方と言わざるを得ない。

先述のように、若者による若者への布教の動きが広がっていることは頼もしい限りである。それだけに、にをいを掛けられた若者に対する事後の丹精、ひいては、若者たちが自らにをいがけ・おたすけの一歩を踏み出せるようなサポートといった私たち大人が取り組むべきテーマは、今後ますます重要になるだろう。

ボランティアに励む若者に対して「我さえ良くば、今さえ良くば」と言っていいのか?それらを利己的、刹那的な延長線上と言うのであれば、著者のいう「我さえ良くば、今さえ良くば」は何を指しているのだろうか。天理教を信仰していれば我さえ良くばの行動はすべて免罪されるのか。
あれ?そもそも天理教って、今に満足してはいけないという教えなのか?天理教って色々な出来事が神様の御守護だから、悲しいことでさえも喜ぶことをモットーとし、不平不満はたんのうするんじゃなかったっけ?それは「小さな幸せ」「いまの幸せ」とは違うの?ということは、天理教を信仰することは、「大きな幸せだけ目指し」「現状に不満を持つ」ことを目指すのだろうか。

天理時報の言いたいことはなんとなく分かるが、論点が全然芯を喰ってない。なぜ「視点」を書く天理教人は、こんなに社会に対して不満ばかりなのだろうか。聞いてる方がうんざりしてしまう。それで社会を少しでも良くできると本当に思っているのだろうか。前にも言ったが「我さえ良くば、今さえ良くば」と言う天理教人ほど「我さえ良くば、今さえ良くば」に毒されている見本はないと思う。本気で若者をサポートしたければ、まず不満をやめるべきだと私は提案する。私も年寄り論を書こうかな。年寄りほど、キレやすくて、経済に貢献しない(可処分所得が多い)年代はないというデータもあるんだけどね。でもそんなこと言いだしたら、私はスッキリするけど世代間調和なんてできないから言わない。こういった無反省的な記事を読むと天理時報の購読を止めてよかったと思う。ほんとに。