職場の後輩が定期的に被災地に行き、被災者を支援する支援者の支援をおこなっている。先週末に、一緒に食事をして被災地の話を聞いた。
被災地では、至る所に祭壇がある。そこには絶えず参拝者が来ている。同時に、その参拝者に対して声をかける宗教関係者がいる。もちろん死者への鎮魂を促すために儀礼の促進という側面を強化している団体もある。一方で宗教団体への勧誘と思われるような団体もあるようだ。私の後輩は無宗教らしいので、その両方の団体に対して「怖かった」と言っていたことが印象的であった。
話は変わって、被災地の支援で一番勢いがあるのはNPOなどやボランティア組織なんだそうだ。行政の支援は強力で、生活を支える重要なポイントであることは言うまでもない。しかし行政支援は依頼が必要であり、支援が届くまでに時間がかかるという腰の重さがある。その点でボランティア支援は、大きなことはできないが、細やかな支援を迅速におこなってくれる。そして、そのボランティア支援団体には宗教団体を背景にしているところが少なくないようだ。中には天理教の教えを背景にして活動している団体もあるようだ。
天理時報で取り上げられている天理教の被災地支援は、ほんの一部であることは私の天理教人の知り合いから聞いている。天理時報で挙げられている天理教本部による被災地支援は「災害救援ひのきしん隊」の活動が多く取り上げられた。天理教本部としての被災地支援は、現在では終了宣言が出ている。しかし各教会単位や、地域支部単位で、数多くの天理教による支援が被災地で現在も活躍している。それはガレキの撤去や物資支援などの生活支援から、子どものケアや大人の息抜きなどの教育支援など多方面に渡る。天理教本部が、それらを把握しているかは知らないが(知り合いの天理教人は「大教会や教会本部には言ってない。上に言うと面倒になる」と言っていた)、それら信仰を持った人間の地道な行動は、私の後輩も含めて被災地の宗教に対する偏見や見方を変えているようだ。私も以前、被災地に支援に行く天理教人に対して「天理教が被災者に何ができるか」と意見交換したことがある。
私が後輩に言われたことは「とりあえず東北に遊びに行け」ということである。支援の段階は中期計画に入っており、経済を動かすためには被災地でお金を落とさなければいけない。夏にも私の仕事関係で被災者を支援するために東北に行くが、そのときは東北で散財する遊びをしようと思う。しかし大教会や天理教本部は、裸の王様なんだろうか。肥大した中央集権の限界がきていることが感じられた。
1. 時報に載らない活動が活発
これは明らかにカインさんの情報不足のようですね。
天理時報に載っていない天理教人の救援・支援活動はたくさんありますし、むしろ載っていない活動のほうが盛んで活発なんですよ。
また、このことを本部や大教会批判に結び付けるのも、論理としてちょっと強引です。
なお、東北で散財したり遊んでお金を落としてくるというのも、すでに早くから数多くの人々がやってきていますが…。
2. 無題
天理諮問機関で被災地支援について話をする予定の者です。興味深く拝読しました。私が現地で感じたのは、マネジメントしきれない行政と乱立するNPOやボランティアの図でした。理論的には両者が提携すれば良いのですが、できる部分はもうやっている。日ごろできないことまで緊急時にできるわけありません。私見としては、行政の機動力を上げ、周囲の団体は行政をもっと信頼し協力するのが良いように思いました。行政は自分たちのものという意識があまりに希薄ですね、日本は…。話がそれました。
災害救援ひのきしん隊も撤退されたのは、復興の見通しが今ひとつ立たない現状ではやるべきことが見えないから当然かと思います。しかし現状では「仮設住宅からアパートに移ったら一丁上がりと思われる」と嘆いておられました。
ぜひ、天理教には、報道されなくてもネットワーク、フットワークを生かして支援を継続して頂きたいと思います。どこで災害があってもすぐに支援体制を構築でき(例えばですが、本部に対策本部、教務支庁に各自治体との折衝や情報交換、大教会に支援物資集積、連絡は各上級へ…というようなことを決めておくとか)
継続性に関われるとしたら、素晴らしい社会のネットワークシステムだと思います。
なぜ、本部や大教会に言うと面倒になるのか、そこのところ、もう一つ詳しく解説して頂きたかったです。
金を、本部や大教会以外に、必要以上に落として来ることを、心配してるのか、それとも、上を通さずに勝手にやることを、上が気に食わないのか、もうちょっと、詳しい事知りたかったです。的確な批判をする為に。