論じることと、行動すること

前回のブログで宗教に対するアレルギーが強い日本において、宗教理解を涵養させる側面について話をした。実践宗教としての天理教は、やはり行動的側面の次の段階において、その意味性が必然として問われる事態に遭遇する。つまり天理教外の人間にとっては天理教がどういう教えに基づいて考えるのかというよりも、どのように行動するのか、そしてそれはどういった意味があるのかという二段構えで理解が進展するということである。

私の好きな新約聖書学者に田川健三がいる。田川健三は「神を信じないクリスチャン」という異名を持つ。その思想によって、十分な知性と経歴があるにも関わらず封建的な宗教学界からは教職を追われた過去をもつ。田川の主張する神を不在とする根拠は、神の存在を積極的に思考すれば、どうしても自分の想像する自分だけの神に修正され、神が神でなくなるという逆転現象がおこるということである。神を想像すればするほど、自分だけの神を形作ることになるという矛盾が生じる。神は人間に作られた側面があると主張する。これは信仰を持つものにとっては大いなる挑戦であると思う。

私は神の存在を信じたいという希望はある。田川のいうように神を思考すればするほど神は人間仕様に変容される。しかし、それでも私は神は存在すると思う(天理教の親神かどうかは置いておいて)。それは、より純粋に形而上学的に神の存在を認めたいということである。かといって私自身には、神の存在を証明する知識も経験もない。神が存在すると考える方が豊かに生きられる気がすると思う程度である。しかし一方で天理教人による神の証明も怪しいと思っている。ここで言う天理教人は、私の知り合いのごく一部の天理教人であり天理教全体ではないことを注意してほしい。その上で私は天理教人のいう神の存在には賛同しない。まず私のモットーとして、「自分が信じている人が信じているものを信じる」ことにしている。私が持つ神の信仰に対する希望というのは「私が信じている人が、神を信じていれば、私も神を信じる」ということである。しかし、天理教人に深くコミットすれば、時には金銭のお供えを暗黙に強要され、「お前は分かっていない」と信仰的未熟さを糾弾される。信仰に疑問を持つのであれば、それは妥当性の検証がおこなわれることなく、理不尽に信仰的低位者としてのレッテルを貼られる。生まれたときから天理教組織に組み入れられている若者は、発達段階にともなう社会的自立度に応じて多くの割合で信仰に対する疑問をもつ傾向にある。しかしそれらの傾向は「お前はまだ分かってない」「教えに正直に?バカになれ」(人間思案を考えるなという意味だと思う)と抑圧され思考をストップされることを求められる。自分で考えることをやめたバカが、一人前の天理教人として見られるきらいがあるのである。つまり私が天理教の神を怪しいと思っているのは、それを信じることで生が豊かになるとは思えないからである。そして、それは天理教人の言動からでしか反応できない。天理教人の言動を見ると、田川のいう「神が人間によって作られる」という印象を脱却できない。その典型は、天理教人が多用する「神様は」という神を主語にした言動の多さであろう。そこには、人生をかけて答えの無い信仰を求めるという率直な姿勢よりは、傲慢で排他的な姿勢でしかない。

一方で、庶民宗教として発展してきた天理教にこれらの難問の負荷をかけるのも可哀想な気がする。ここまでの文章を天理教人が読めば「考えるのか、考えないのか、どっちだよ!」と詰問されそうである。しかしそれらは聖職者であるイリイチが「深い両義性」と言ったことに通じると思う。イリイチもまた、挑戦的な宗教批判を展開してバチカンと喧嘩したことで有名であるが、西欧社会の権力を大義にした操作主義を批判したことからも我々が学ぶことは多いのではないかと思う。天理教でも権力構造やお金など西欧社会の産物を多分に利用している。一方で、それらと対をなす教え(貧に落ちきれ、陽気ぐらし)に対して、どのような解釈がなされているのかは天理教人の言動をみても疑問ばかり残る。というか、そこまで深く自分だけの信仰を考えて求めている人は少ない気がしてならない。血や肩書きがないと、発言できないなんてその典型だろう。裸の王様ではないか。反対に名前や学歴や資格を黒塗りして天理時報を読めば、一人の人間として何か残せているのだろうか。私には見つけられない。そこには一貫した信仰心や、答えのない教えを求めていく姿勢よりも、いかにして人間を操作し、世俗的な評価を勝ち得るかということに思考を費やしている傾向が強いと感じざるをえない。あくまで私の主観的感想である。

論じることと、行動すること」への2件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 無題
    僕は天理教校学園という少し言い方悪いかもしれませんが、若者に天理教の教えを植え付ける場所にいます。
    他の大人が天理教の強要を求めるても、僕は子供たちに考えることをやめず、自分で宗教に関しても選択できるようになってほしいと思って接してます。

  2. 匿名

    2. Re:無題
    >諸井孝平さん
    いつもありがとうございます。考えることは、自分を確立し、批判に曝されることでもあります。一方で考えないことは、周囲に同調し、流れに身を任せるだけの楽な作業かもしれません。しかし、私は考えることは世界を拓き、文化を創造するものだと思っています。考えることはメタ認知の部分なので、非常に教育的だと思います。

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