前々回のブログで、聖職者でありながらキリスト教を批判したイヴァン•イリイチを取り上げた。神を思えば思うほど、神を自分なりに変容させてしまう葛藤が存在する。マルクスがかつて「宗教はアヘン」と言って、人間による宗教支配を痛烈に批判したことも、そう古いことではない。天理教も含めて宗教の持つ、社会的影響はどのようなものかと考えを巡らせば巡らすほどに迷宮に入ってしまう。宗教は、人を救いもし、また人を迷い込ませる側面があるのだろう。
イリイチはジェンダー論の中で、家事労働など利益は生み出さないが、なくてはならない再生産行動をシャドーワークと呼んだ。宗教活動も本質では、広義のシャドーワークなんだと思う。冠婚葬祭がそれであり、天理教で言えば「ひのきしん」という概念が当てはまる。それは「誰の仕事でもないが、誰かがやらないといけない仕事」に当てはまる。実際、会社などでは誰の仕事でもないが、誰かがやらない仕事というのは多数存在する。誰の仕事でもないという点では、誰もやらなくてもよい。しかし誰かがやれば、それだけで非常に快適になることがある。誰もやらないことを誰もやらないと、非常にやりにく職場になる。これは、就労経験があれば誰もが経験したことがあると思う。
ひのきしんはシャドーワークに当てはまる点があるが、その意味合いを天理教人に問うと「神への感謝」(天理教の教えなのかは定かではない)であるということだ。この神への感謝のためにという「ひのきしん」の意味は大変素晴らしいと思う。「ひのきしん」というのは漢字で書くと「日の寄進」となる。感謝のために時間を神に捧げるということの実践が「ひのきしん」ということになる。だから、ひのきしんの実践は利益を追求しないボランティア的活動が多いのは当然である。利益を追求したら、感謝という意味が薄れるから。なぜ「日の寄進」と漢字で書かずに平仮名表記なのかは分からないが、それがひのきしんの意味である。
ここからの考察は、私の私見であり批判を覚悟で書く。ひのきしんが「神への感謝」という内面的目的であるとすれば、それは行動的評価は不問となり自分の内面的裁量に依存するということである。つまりひのきしんの主体者が「これでいい」と思えば、それでひのきしんは完遂したことになる。これには天理教人からの反論が予想される。また実際には、そうではないことも多いのだろう。私がひのきしんに参加したことは遠い過去に数度あるだけなので、現在の実際は分からない。しかし、先日も行なわれた「全教一斉ひのきしんデー」を敢えて設定しなくてはいけない理由や、震災の支援も天理教本部が早々に終了宣言を出したことは、自分の裁量に依存していることでもある。その辺が、「ひのきしんはシャドーワークに当てはまる」や「広義のシャドーワーク」と表現を少し濁した理由である。あくまでシャドーワークは行動的側面に焦点があてられており、行動的目的に準拠する。しかしひのきしんは「神への感謝」となり外形的に評価できない。天理教原理主義的な見方をすれば、ひのきしんが神への感謝であれば24時間365日が適応されるべきで、外的誘因によってひのきしんが開始、終了されるべきではないとなるだろう。そして、シャドーワークとひのきしんの最大の齟齬は、行動的側面の解釈になる。ひのきしんは神への感謝であり、シャドーワークは「誰か(みんな)のため」ということである。「いやいや、ひのきしんも皆のためだ」と天理教人から反論が予想されるが、それを言ってしまうと「神への感謝」との整合性が難しくなる。現に「ひのきしんとボランティアは、行動は同じでも意味は違う」と天理教の会長さんより教えていただいたこともある。この整合性については管見の及ぶ限り、天理教人から納得のいく説明を受けたことがない。自己満足と言ってしまうと言葉は悪いが、天理教のひのきしんの実践には自己満足の雰囲気が拭いきれない。あくまで理論的に考えた場合ね。原理主義のように、そこまで攻撃的な指弾は求めないし、どれが信仰上、教義上適法なのかはここでは俎上にあげない。私は、天理教の優劣を評価したいわけではない。しかしこういった天理教の構造が存在するということを明示したい。
次回は、今回取り上げた構造をヒントに、天理教の衰退を考察したいと思う。
1. 無題
「神への感謝」は、神に喜んでいただくことであり、周囲に喜んでもらうことですから、整合性は保たれます。
2. なるほど!でも…
なるほど、ひのきしんをこのようにシャドーワークとして読み込むのも、面白い見方ですね。今回、カインさんの論説に力がこもっていて、私もいろいろ考えさせられるところがありました。でも、たとえば家事労働が無償労働(ただ働き)として良いように使われるという別の問題点が、シャドーワークの批判点としてあります。じっさい、ひのきしんも(世間のボランティアもそうですが)、為政者側につごうよくただ働きさせられる口実として用いられることには、警戒は怠ってはいけないでしょう。末端信者が員数集めに駆り出され、それがしばしばひのきしん活動と称されているのも、間々見かけるからです。
次回がとても楽しみです。
3. はじめまして
はじめてまして。
時々拝見させて頂いております。
現在、教会に家族で住み込んでおります。
このままいくと、いずれどこかの部内教会長になる予定です。
教会の存在意義とはなんでしょう?
メリットって何でしょう?
最近、分からなくなってきました。…。
4. Re:はじめまして
>あらきさん
教会の存在意義は・・今では、あまり無いかもしれません。
メリットは・・・本部や大教会は、教会を持ってもらうメリットはあるでしょう。
いずれにしても、自分らしく生きることが大事な事ですね。人を見ずに、神をみながら・・。
5. Re:Re:はじめまして
>1sinjyaさん
昨今の(とってもずいぶん以前からですが…)、教会長、大教会長の相次ぐ更迭。
一年に一件以上はありますね…。
今行われてる無担任教会の整理。
教会の価値、存在意義というものを見失いそうです。
うちの教会では年金は支払っていません。
もちろん、宗教法人ですから税金もはらっていません。
生活保護をもらっている教会も周りにはたくさんいます。
社会への奉仕、貢献がまるでなく、逆に社会に迷惑をかけているような教会が今後も増えて行くと思います。無担任教会の整理はけっこうですが、もっともっと、無駄に数の多い教会数を減らすことが、世の為、人の為になるような気がしてなりません。
かなしいかな、これが現実です。
6. Re:Re:Re:はじめまして
>あらきさん。
教会を持つ事が決まっているのでしたら、それを受け入れるのも一つの道です。
只、天理教の為の教会ではなく、上級の為の教会ではなく、人の為、社会の為の教会であれば、やりがいもあると思います。
教内の誰も認めてくれなくても、信念をもって、カッコ悪い不細工な信仰をすることも楽しいかもしれませんよ・・。